捨てる神しかいない話
「ごめんね、しばらく会えないと思う」
平日の昼近くの、ファストフード。
窓際の席。やや曇り気味の、空模様。
ハンバーガーを手に持ちながら、俺は呆然としてしまった。
テーブルを挟んで目の前に座っているのは、佐々木春菜。俺の、彼女だ。
付き合い始めて三ヶ月。はっきり言って、まだ燃え上がる時期だ。実際に、昨日の夜だって、ホテルのベッドで燃え上がった。たった一晩で、コンドーム一箱六個入りを全部使い切った。
それなのに、どうして。
疑問とともに、俺の頭に浮び上がってきた。春菜とのこれまで。出会いから、今まで。まるで走馬燈のように。
春菜との出会いは、五ヶ月前だった。
俺は、二十四時間営業の立体駐車場で管理業務をしている。朝九時から夜九時までの業務と、夜九時から朝九時までの業務を交代で行う、シフト制。
一回の拘束時間が半日もある、地獄のような業務だ。さらに、管理業務は一人体制。半日もたった一人で、狭い管理室で業務をこなすのだ。それが、週五日から六日。実働時間は月平均三〇〇時間ほどにもなる。
そんな「労働基準法はどこにいった?」と聞きたくなるような業務を、俺は一年以上も続けていた。
稼ぎたい。もっと、もっと。今の職場に来たときは、その一心で働いていた。
当時、俺には婚約者がいた。結婚生活に備えて、とにかく金が欲しかったのだ。
その婚約者は、春菜じゃない。
二十三歳。身を固めるにはまだ早いが、それでも、結婚していても不思議ではない歳。
当時の婚約者と、両親を紹介し合った。結婚することが確定したとき、俺は、必死に働こうと心に決めた。だから、誰もが嫌がるこの立体駐車場勤務に移動を希望した。激務だけあって、残業手当が冗談みたいに入るからだ。
婚約者と結婚したら、できるだけ早く自分達の家が欲しい。賃貸じゃない、自分達だけの家。いつか子供が産まれて、家族が増えて、それでも快適に過ごせる家。
家族みんなが、笑って暮らせる家。
俺は、そんな夢を見ていた。
子供ができたら。子供が産まれたら。
息子だったら、一緒に何かスポーツをしようかな。いつか、拳と拳で語り合ったりするのかな。息子が成人したら、一緒に酒を飲むのかな。
娘だったら、一緒におままごととかするのかな。俺は父親なのに、子供の役とかするのかな。いつか彼氏を連れて来たら、嫉妬しちゃうのかな。嫁に出すときは、結婚式で泣かされるのかな。
婚約者との夫婦生活。いつか産まれるであろう子供。幸せな未来を思い描いて、激務の中で必死に頑張っていた。
だけど、俺の夢はあっさりと崩れ去った。
理由は、極めて単純だった。婚約者の浮気が発覚した。
浮気が発覚したとき、婚約者は、ごくありきたりなセリフを吐きながら縋ってきた。
「仕事ばかりで、寂しかったの!」
「本気じゃないの! ちょっと、マリッジブルーだったの!」
「結婚したいのはあなただけなの!」
縋る婚約者を見ても、まったく、全然、一切、クソほどにも、別れたくないなんて思わなかった。そりゃそうだ。取り上げて中身を見た、婚約者のスマホ。そのフォルダの中には、浮気相手と裸で抱き合う写真まであったんだから。
婚約者はおっぱいを晒して、男は自慢げに割れた腹筋を見せつけて、ポーズを決めていやがった。
しかも、それだけじゃない。婚約者のスマホのフォルダの中には、本来ならモザイク処理が必要な写真まで入っていた。
あんなものを見せられてやり直せる男なんて、いるはずがない。俺はドMじゃないからな。寝取られて興奮する、なんて性癖もないしな。
絶望と失望の果てに婚約者と別れた俺は、まさに抜け殻になった。仕事だって上の空。激務のはずなのに、疲れを感じなくなっていた。
それが、七ヶ月前の話だ。
婚約者と別れて約二ヶ月。ゾンビのように仕事をして。
そんなときに出会ったのが、春菜だった。
俺が働く立体駐車場には、パスカードという制度がある。本来は都度料金を払って使用する駐車場を、一ヶ月の間フリーパスで利用できるカードだ。一ヶ月利用したら、そのまま更新も可能なカード。
春菜は、俺が働く駐車場管理室に、パスカードを購入しに来た。それが、彼女との出会い。
パスカードの購入は、意外に手間がかかる。免許証を提示させ、コピーを取り、購入証明書を作成する。購入証明書は、購入から三年間保管する。
そんな手間のかかる作業をして購入手続きをするのだから、客と話し込む機会もある。客が社交的であれば、なおさら。
春菜は社交的だった。聞くと、アパレル系の店で働いているという。この近隣の店に異動になって、車通勤をすることになった。そう、言っていた。
「何回かこの駐車場を利用したけど、いつもいますよね?」
パスカード購入の手続中に、春菜はそんなふうに会話を切り出した。
「まあ、人手不足なんで。週に二日休めるときは天国です」
俺の返答に、彼女は笑っていた。明るい、印象に残る笑顔だった。
春菜は、出勤時や退勤時に駐車場に来るたびに、俺に話しかけてくるようになった。
話しかけられる度に、俺は彼女の魅力に気付いていった。長くて綺麗な髪の毛。アパレル系で働いているだけあって、派手ではないが綺麗な着飾り方。指輪などのアクセサリを着けなくても綺麗な、細い指の手。お世辞抜きで美人と言える顔立ち。
春菜がパスカードを購入してから一ヶ月。彼女のパスカードの、最初の更新をする頃。
俺はもう、春菜が気になっていた。もちろん、客としてではない。女性として、だ。
春菜は二十五歳。俺の二つ年上。もしかしたら、年下の男なんて頼りないかも知れない。
でも、婚約者を忘れる意味でも、人生の新たな一歩を踏み出す意味でも、俺は行動を起こしたかった。
だから、勇気を振り絞って、春菜を食事に誘った。
彼女の返事は、OKだった。
その瞬間。俺の心の中から、元婚約者の影は完全に消え去った。あんなセルフ無修正エロ画像女なんて、どうでもよくなった。あいつがこの先リベンジポルノをされたとしても、俺は鼻で笑えるだろう。
俺の休日の前日。仕事終わりに、春菜と食事に行った。二回目のデートで、ホテルに行った。
捨てる神ありゃ拾う神あり。昔の人は上手いことを言うものだ。クソ元婚約者に捨てられたと思ったら、女神が拾ってくれた。
我ながら単純だと思うが、俺は、不幸のどん底から一気に幸せになった。
幸せだった。
だから、コンドームを常に十箱ストックしていた。
まあ、フライングで子供ができて、そのまま結婚してもよかったんだけど。
ところが、だ。
ホテルで一晩過ごした後の、帰りのファストフードで。
たった今、思いも寄らないことを言われた。
「ごめんね、しばらく会えないと思う」
しばし呆然とした後、ハンバーガーを持ったまま、俺は春菜の方に身を乗り出した。
「なんで?」
仕事が忙しくなるのか? もしそうなら、我慢するけど。それとも、また店舗異動になるとか? まさか、そんなに遠くに行ったりしないよな?
春菜は、少し困ったような、名残惜しそうな顔を見せた。眉をハの字にして、申し訳なさそうに口を開いた。
「あのね、旦那の長期出張が終わって、明後日帰ってくるの」
……。
…………。
……………………。
………………………………。
「……は?」
俺の耳は腐ってしまったんだろうか。昨夜頑張り過ぎて、幻聴が聞こえるほど疲れているのだろうか。まあ確かに、疲れるほど突いたけど。
「あのね、旦那が、帰ってくるの」
春菜が言い直した。
だんな。ダンナ。旦な。だん那。
──旦那。
俺は、頭の中で春菜の言葉を何度か変換した。だんな。旦那。つまり、夫という意味だ。配偶者。
つまり、春菜は既婚者。奥様。人妻。
「結婚してたのかよ!?」
驚きとともに俺の口から出たのは、そんな、回答が決まり切った疑問だった。
春菜は不思議そうな顔で、質問に質問を返してきた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてねーよ! 指輪もしてなかったし!」
なんでだよ!? 不倫じゃねーか!! 俺、間男じゃねーか!!
「ああ、言ってなかったんだ、ごめんね」
春菜はあっけらかんと、まるで悪戯がバレた子供のような顔で謝ってきた。無邪気に、笑いながら。
「まあ、そんなわけで。しばらく会えないの。溜まっちゃうだろうけど、溜めておいてね」
意味不明な春菜の言葉は、俺の耳を通り抜けていった。右から左へ。隙間風のように。
──その後、俺が春菜に会うことは二度となかった。
しばらくどころか、二度と会わなかった。
◇
結局俺は、すぐに今の仕事を辞めた。
社会人として無責任かも知れないが、とても続けられなかった。
元婚約者に浮気され、春菜によって間男にされ。
そんな思い出とともにある職場に居続けるのは、精神的に無理だった。
晴れて無職となった。
休日以外は寝る間もないような激務から一転、時間を持て余すようになった。
この時間を使って、何をしようか。
仕事探しはもちろんする。
でも、その前に。
最初にすることは決まっていた。
お祓いに行こう。
この捨てる神しかいない不遇から、抜け出すために。
このお話はフィクションです。
実在の登場人物、団体等とは一部しか関係ありません。