午前7時のヒーロー
自分が世界で一番優れている部分があるとしたら、おおるり駅からおしどり駅までの電車に乗ってる人々についての知識だろう。
朝7時12分発の電車限定だけど。
私は前から3番目の車両、3つある入り口の2番目から入ってすぐ左の席に座る。勤務している会社の最寄りであるおしどり駅までは結構な距離があるので、座れるのはありがたい。
今の時期のこの電車は、冷房が効いていて少し肌寒い。座る場所こそないけれど、距離に余裕を持って立っていられる程の混み具合の車両で、私は人間観察を始める。
隣に座っているおじさんは結構なお歳で、白髪交じりの域を超えて白髪に黒髪が混じってる状態だ。外見のイメージに合わず、いつもスマホでアクションゲームをやっている。
その隣、つまり私の隣の隣に座るのは分厚いメガネをかけた男子中学生のコアラ君だ。鼻が大きく、丸っこかったのが印象的だったのでそう名付けた。座ると同時にコトンと眠りにつき、おしどり駅に着いた途端にパッと起きる。その間、一度も目を覚まさない。スゴい才能だと思う。
向かいに座っているのは馬おじさん。いつも赤エンピツと競馬新聞を持っている、という理由での安着なネーミングだ。競馬場があるのはかなり先の駅なので、ゆっくり予想する時間があるのだろう。赤エンピツの先をなめるクセがあるのは少しやめて欲しいと思う。でも冷静に考えたら、一番悪いのはわざわざ観察してる私ではないだろうか?
かささぎ駅ではたくさんのお客さんが乗ってきて、車内はすし詰め状態になる。乗ってくる数が多い分印象に残る人もたくさんいる。
いつも右手の入り口近くに立っているOLのキツツキさんはとても神経質だ。イライラするとヒールのかかとでカツカツと床を叩くクセがあるからそう名付けた。
電車が揺れてキツツキさんに人がぶつかる時に、その人を思いっきりにらみつけた挙げ句、例の仕草をやり始める。勝手に観察しておいて勝手だけど、心がささくれ立つので目を逸らす。できれば耳も塞ぎたい。
ちなみにぶつかるのはいつも同じ、男子高校生のぽっちゃり君だ。自信なさげな顔をしていて、いつも申し訳なさそうにしているので、少し可哀想に思えてしまう。
一番後ろの入り口付近に集団で立っているのは近くの高校のレスリング部員だ。体格も良く、かなりのスペースを占領している。
ある時はなんと、早弁を立ちながらやり始めた。美味しそうな唐揚げの匂いが車内に充満し、OLさんの床叩きは過去最高のペースを記録し、おじさんも思わずアクションゲームの手を止めた程だ。注意した方が良かったかもしれないけど、距離が遠いのと怖さが相まって出来なかった。でも、下手に出しゃばらなかったお陰でひどい目に会わなかった、とも解釈できる。
今日はいつもは見ない人が何人か乗っている。あそこに座っている金髪碧眼の女の子なんかそうだ。外国人だろうか?こんな朝早くにどうして一人で電車に乗っているんだろう?通学のためではなさそうだし。
新顔にはこんな疑問が浮かぶけど、大抵は心の中に埋もれて忘れてしまう。忘却の砂に埋もれる?マークを見ながらこう言い聞かせる。人間なんて上っ面だけで丁度良いのだ、外面のキレイさだけ見ていれば、内面の醜さに失望することはないからだ、と。
そんなことを考えてると次の駅に到着し、私の毎朝の楽しみがやってきた。
そのお姉さんは、陳腐な言い方をするなら満員電車に咲く一輪の花だ。
切れ長の目は常に伏しがちで、長いまつげも相まって物憂げな雰囲気を醸し出している。
ウェーブのかかった茶髪をルーズサイドテールにしていて、ロングのスカートが良く似合う。
歩き方もおしゃれだ。まず足音がほとんどしない。重心の移動の仕方もなだらかな波形を描くようである。
今日はいつもと違って大きな手持ちカバンを持っているが、それはそれでまた画になるのだから美人は反則だ。
お姉さんに対する?マークは、中々埋もれてくれない。どこに住んでいるんだろう?どんな仕事をしているんだろう?休日は何をしているんだろう?
浮かぶ度に、私は私にこう言い聞かせる。お前ごときが知って何になるのだ、と。脇役にもなれないエキストラはただ黙って見ていればいいのだ、と。言い聞かされた側の私は、オモチャを買ってもらえなかった子供ような表情を浮かべて、そっぽを向いて黙り込む。
お姉さんはゲーマーおじさんが次のこがら駅で降りると隣に座ってくるので、あまり観察できないのが残念だ。もっと見ていたいのに。
突如車内に大音量の音楽が鳴り響き、乗客達がざわめいて辺りを見回す。
何事かと思えばゲーマーさんのスマホからイヤホンが抜け、ゲーム音が流れ出していたのだ。
慌ててイヤホンを元に戻すゲーマーさん。
キツツキさんがにらみつけてきたことは想定内だったけど、隣のコアラ君まで目を覚ましたのには驚いた。その後すぐ眠りについたけど。
お姉さんはあまり動じてないみたいだ。流石だと思う。
電車がひよどり駅につき、おじさんが降りるときに申し訳なさそうに頭を下げてきた。
わざとじゃないんだから、そこまで恐縮しなくてもいいのにと思う。そしてお姉さんが隣に座ってくる。
今日のお楽しみタイムは終了だ。そう思って車内に目を向けると、隣でなにやらガサゴソと探っているような音が聞こえる。
何事かと横を向くと、お姉さんが手持ちカバンの中を漁っていた。
いつもの雰囲気はどこへやら、かなり慌てているようだ。
「どう……されたんですか?」
思わず聞いてしまった。私は何をやっているんだろう。
「ヘビが逃げました」
この人は何を言っているんだろう。
お姉さんは手持ちのカバンを見せてくれた。底の方にかなり大きな裂き傷が出来ている。
「さっきのアレで誰かの荷物に引っかけちゃったみたいで」
なるほどここからヘビが逃げ出したのか。いやおかしい。そもそもなんで電車にヘビを持ち込んでいるんだこの人は。
「毒とか……あるんですか?」
無駄に力が入ったせいか、変なことを聞いてしまった。観察は得意でも対話は下手みたいだ。
「ニシキヘビの仲間なので人が死ぬほどの毒はないです。でも噛まれればケガはしますから急いで回収しないと……」
思わぬ情報を聞けた。
「荷物棚とかに逃げ込んでる可能性がありますけど……」
お姉さんがそう言ったのですかさず入り口付近の掴まり棒を見渡した。荷物棚に繋がっているので、そこに巻き付いている可能性があるからだ。
幸いヘビの姿は見られなかったが、今後も警戒する必要がありそうだ。
「車外には逃げられなさそうだし、床にいる可能性が高いですね。あと爬虫類なので温度の高い場所とか……」
お姉さんはそう言って辺りを見回す。私も一緒に見てみるが、人が沢山いるせいかどこにいるか分からない。
「向こうの入り口近くの女子高生のグループは床に荷物を置いてるのでそこのスキマとかに逃げ込んでるかも……あそこに立ってる勤勉君はいつも単語帳をじっと見てるので足下をヘビが通ってもそうそう気づきそうにないですね。あっちに座っているおばあちゃんはいつも周りを見渡しているのでもしかしたら見つけてくれるかも……」
「お詳しいんですね」
「あっ……」
お姉さんにそう言われて我に返る。やってしまった。仕事以外で人と話すのが久しぶりすぎて舞い上がっていたみたいだ。
「すいません……気持ち悪い……ですよね」
どうしよう。他人をじろじろ観察している変態だと思われてしまった可能性が高い。腹の底に冷水が満たされるような感覚が襲う。
「いえいえ!ここまで把握してるのはすごいと思いますよ!」
良かった。お世辞でも拒絶の言葉や態度が出てこなかっただけで安心する。
「観察するのって楽しいですよね!私もニホンザルに名前をつけて観察してるのでよく分かります」
えっ?ニホンザル?ヘビの次はサル?
「サルに1匹1匹名前を付けて毎日行動を記録するんですよ。昨日はこんなことしていた個体が今日は違うことしたりして……でも毎日続けていくうちに法則性とかが分かってきて!あとかわいいんですよサルの赤ちゃん!お母さんのお腹にしがみついたりするんですけどその姿がもうたまらないんです!」
熱くニホンザル観察の魅力を語ってくれるお姉さんに私は戸惑っていた。あのキレイで大人なお姉さんにもこんな一面があったのか。でも不快感は無い。それどころか、彼女が放つ磁力が強くなるような感触を憶えた。
「キャァァァァッ!」
切り裂くような悲鳴でお姉さんの語りは止まる。私は声のした方に顔を向ける。
「ヘビ!ヘビが!」
キツツキさんの叫び声が響く。それと同時に阿鼻叫喚のパニック劇場の幕が切って落とされた。
絶叫に驚いたぽっちゃり君が背中から倒れ、それに押されてよろめいた勤勉くんの手から単語帳がすっぽ抜ける。それがキレイな放物線を描いて斜め前の馬おじさんの額に命中し、馬というより獅子のような吠え声が響き渡った。
震源地から逃げようとする人と好奇心ゆえに近づこうとする人。荷物を踏んづける人にそれを怒鳴りつける人。人と人が衝突事故を起こし、あちこちから煙が上がっているようだ。
「毒蛇らしいぞ!?」
「噛まれたら死ぬぞ!」
パニックによるものかイタズラか分からないデマまで飛び交っている。私はそれを何も出来ずに眺めていた。いや、初めから何も出来るはずがないのだ。私は脇役どころかエキストラを務めるので精一杯なのだから。
「ごめんなさい!ヘビを逃がしたのは私です!」
お姉さんが叫ぶ。そんなことをしても、一度起こった暴動は止まらないのに。
「私が責任をとって捕まえます!だから落ち着いてください!」
こんなに混んでいる車内で見つけられるはずがないのに。何も出来るはずがないのに。
「あんたのせいか!どう責任を取ってくれるんだ!」
近くの40代くらいの会社員がお姉さんを怒鳴りつける。彼女は悪くないのに。早くこの地獄が終わって欲しい。そう思って目をつむる。
「ごめんなさい!必ずどうにかします!」
お姉さんが頭を何度も下げて必死に応対する。今にも泣きそうな声が痛々しい。
「いい加減にしろ!どうしてくれるんだ一体!」
早く。
「すみません!でも必ず私が!」
「私も……行きます。」
気がつくと立ち上がってそう言っていた。
「え……?」
呆気にとられるお姉さんと会社員。自分の顔は見れないけど、多分さくらんぼみたいに真っ赤だろう。
「行きましょう。」
お姉さんの手を引いて、車両の後ろの方に向かう。一線を振り切れば、こんな大胆なことも出来るようになるらしい。
「うおっ!?」
だれかが床に置いた荷物につまづいてバランスを崩す。しかし後ろから引っ張られて事なきを得る。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。ありがとうございます。」
かっこ付けるとろくなことが無い。気を取り直して前に進む。
「心当たりがあるんですか?」
鈍い音をハイテンポで鳴らす心臓と、車内の喧噪が奏でるオーケストラをすり抜けるようにして、お姉さんの声が後ろから飛んできた。
「多分!大丈夫!です!」
緊張で声が途切れ途切れになってしまった。でも、猛烈な恥ずかしさと共に心地よさがあった。全身の血管を風が通り抜けるようだ。
人混みを避けながら、私たちは目的地に近づいていった。そして私は声を出す
「しっ、失礼します!」
騒動が起こっても動じずに立っていたレスリング部員達がこちらを見る。返事を聞かずに足下の荷物を漁る
「!?」
声は出さないが、驚いた様子を見せるレスリング部員達。そりゃそうだろう。でも、正解はここにあると確信している。
あの時、エアコンのある車内で、離れた私の席まで漂ってきた唐揚げのにおい。
ならば、それを放っていた弁当、それが入っていたカバンは暖かいはず。
積まれた荷物を持ち上げると、ちょっとした温室を見つけてくつろいでいるヘビがいた。
こちらをにらみつけるヘビ。体は想像より太く、大きさ以上の威圧感を感じさせる。後ろでレスリング部員達がざわめき、遠ざかる気配がする。しまった。これからどうすれば。
隣をすり抜けるようにして手が伸びてくる。それはヘビをしっかりとつかみ、後ろに連れて行った。
「ありがとうございます!」
お姉さんがカバンからプラスチックのケースを取り出し、ヘビを入れていた。
「本当にごめんなさい!そしてありがとうございます!」
午前9時を回ったおしどり駅のホームで、私は謝られ、感謝されていた。
「いや……そんなに謝らなくても……やりたくてやったことですから」
あんな大事故が起こったのに、けが人どころか電車の遅延も起こらなかった。しかしそれはそれ、私も関わった人間の一人として駅の事務室でみっちりと事情を聞かれていたのだ。奇跡的に警察や訴訟沙汰にはならなかったけど、こんな時間になってしまった。
今朝は色々なことがあった。でも一番驚いたのは……
「そういえば……学生さんだったんですね」
私たち2人は駅員さんの前で、名前と年齢、所属している組織を名乗らされた。その際に分かったのだが、なんとお姉さんはお姉さんではなかった。名前は本宮遥さん、白虎大学大学院の1年生で23歳。私より3つも下だ。
「大野さんこそ、メジロ文具の社員さんだったんですね!私メジロのシャーペン使ってるんですよ!」
こんな所でお客様に出会えるとは嬉しい。
「あの……今日は本当にありがとうございました!このご恩は必ずお返しします!」
「そこまでかしこまらなくていいですよ。……明日また、電車で話してくだされば嬉しいです。」
「そんなことでいいならよろこんで!」
何度もこちらに頭を下げながらおしどりデパート方面へ向かうお姉さんを見送り、私は会社のある方角へ歩き出した。駅から少し歩いて、横断歩道の前で信号が変わるのを待つ。
……正真正銘の遅刻なワケだけど、上司にどう報告すればいいのやら。
頭は重かったけど、なぜか心は軽かった。今の私を水に入れたら、浮力の関係で足の方が浮いて逆立ちになるのかな。そんなアホらしい考えをさえぎるように、カッコウ、カッコウという鳴き声が聞こえてきた。