3話 偽りの婚約者
連載版はじめました。プロトタイプとの違いをお楽しみください。
※連載版こちらの内容に追いつきました。
「では……出発ね」
アンジェはここ数ヶ月住んだ廃屋を振り返った。
「アンジェ様ーっ!」
その時である。コートに鞄を持ったハンナが猛然とこちらに走ってきた。
「ハンナ! どうしたの」
「どうしたのこうしたのじゃございません。……あたしもついていきますお嬢様」
「そんな……お給金を払えるかわからないわよ」
「結構です。あんな人でなしのところで働けませんから」
ハンナはそう言って鼻を鳴らした。
「その心配はない。ハンナ、君の給金は俺が払う」
「……ルーカス」
「やあ。婚約者殿、迎えに来たよ」
立派な二頭立ての馬車が二台、アンジェたちを迎えに来ていた。
「大きな荷物は別の馬車で持っていくが」
「……これは母上の肖像画なのです」
アンジェが胸に抱えた布包みを見たルーカスはそう言ったが、アンジェはそう言って包みを抱え込んだ。
「では行こう、首都へ」
「はい、ルーカス」
こうしてアンジェたちはエレトリア王国の首都カッセルに向かって馬車を走らせた。
***
それからアンジェは隙間風など無縁の屋敷で新しいドレスを身に纏い、平穏に生活した。ルーカスの用意してくれる滋養にいい食事で痩せこけた体格も青ざめた頬も、元のように戻っていった。
「よいお方ですね……エインズワース伯爵を遣わしてくれたのは神様でしょうか」
「大袈裟よハンナ」
「でもあたし、毎晩神様に祈ってたんですよ! どうかアンジェ様達をお救いくださいって」
アンジェは、ルーカスと交わした偽りの婚約の事は誰にも言ってなかったし言わないつもりだったがハンナの喜びようを見て胸が痛んだ。
そんなある日の午前中、ふとルーカスがアンジェに言った。
「それと、カーライル公爵未亡人のグレンダが明日ここを訪れる」
「……はあ」
アンジェは唐突なルーカスの言葉に一瞬ぽかんとした。そんなアンジェの反応を無視してルーカスは言葉を続けた。
「君の付添人を頼もうと思っている」
「付……添人……?」
「ああ、君の社交界デビューの為に」
「社交界……あの、私は社交界にデビューするつもりはありません」
「なぜ? 君は十九歳だろう、少し遅いがおかしいことはない」
ルーカスはアンジェの言葉に首を傾げた。年頃の娘ならば、社交界デビューを喜ばないはずがない。しかも付き添い人としては最高の、グレンダ公爵未亡人が後ろ盾になるというのに。
「私は、この一連の事々が終わったら家庭教師でもして暮らして行くつもりです。ですから社交界は……」
「そうもいかん」
ルーカスは憮然とした顔で答えた。
「君は本気で俺の婚約者のふりをするつもりがあるのか? 夜会や茶話会に一緒に行かねばならないのだぞ」
そう言われてアンジェは唇を噛む。ルーカスの言う通りである。
「慰謝料は家庭教師なんてしなくてもいいくらい払うつもりだ。それに……ルシアの事も考えろ」
「ルシア……ですか」
「姉が社交界デビューしてないなんて、ルシアが年頃になったらどう思うか。悪影響だと思わないか」
「それは……その通りです……でも……私にお金をかけるのなら双子達にと……」
それを聞いてふっ、とルーカスは不敵に笑った。
「そのようなことは心配するな。必要経費だ。そしてそれくらい我が家の財政ではなんてことはない。心配なら事務方の人間を呼んで……」
「いえ、結構です!」
アンジェはルーカスの言葉を遮った。そしてキッとルーカスを鋭い目で見つめて返した。
「仰せの通りにいたしますので」
「ならば結構」
「それでは私は部屋に戻らせていただきます」
「ああ」
ルーカスは逃げ出すように去って行くアンジェを見送った。
「怒らせてしまったな」
ルーカスはため息をついた。そして自分はアンジェという娘を侮っていたと思った。あの境遇だったから真綿のごとく優しく接すれば言う通りにするとばかり思っていたのに、思いの外気位が高くルーカスの庇護を受ける事に抵抗があるようだ。
「やれやれ……しかし、それくらいでないとあの環境を耐えられなかっただろう」
そう言いながら部屋に戻り、マントルピースの上のブランデーを注ぎソファに腰掛けた。
「ハンティントン男爵……これはまた難問を残しましたな」
ルーカスはそう言いながらグラスに口をつけ、頬杖をついた。
「まったく! 勝手になんでも決めて!」
一方のアンジェは怒りながら部屋のドアを乱暴に閉めた。そしてそのドアに寄りかかりながら俯く。
「ルシアの事を引き合いに出さなくたって……分かってるわよ……」
それでも、アンジェはルーカスに簡単に世話になるのが嫌だったのだ。それにしても、とアンジェは思った。
「あそこまで結婚したくない理由ってなにかしら」
すでに意中の女性がいるとか? でも結婚できない理由とはななんだろう。
「身分違いとか……あ、でもそれなら私をお飾りの妻にする方が都合がいいわよね」
そして真に愛する人を愛人として囲えばいいのだ。そういう人だってそれなりにいる。
「でなければ……人妻?」
アンジェはハッとした。その人は人妻……いえ未亡人なのかもしれない。喪が明けるのを待って結婚するつもりならいっときの偽婚約者が必要なのも説明がつく。
「……その方は幸せね」
彼は王太子殿下のお気に入りで、立派な紳士だし、少しぶっきらぼうで冷たいが、根は親切で優しいとアンジェは感じていた。
「そうよ、私は私の役目を全うしないと。ライナスやルシアの為にも」
アンジェはそう思い至ると、くっと顔をあげた。つまりこれは仕事なのだ。フロッグに頼まれてやっていた翻訳と同じ。ならばきちんと勤め上げないと。アンジェはそう自分の境遇を整理した。
グレンダ未亡人がやってきたのはその次の日の午後である。
「お久しぶりねルーカス。あなたったらまるで逃げるようにこのカッセルを離れて」
「……用事があったのですよ」
「あなたの顔をひとめ見ようっていう方々が沢山いらっしゃたのよ」
「う……」
「そんなあからさまに嫌な顔をしないの。そういうところ、小さな頃から変わらないわね」
グレンダ未亡人はそうルーカスをたしなめた。彼女とルーカスは昔なじみなのか、グレンダ未亡人はずけずけとした物言いでルーカスに詰め寄った。彼女は四十を超えたくらいだと聞いていたが、喪服が不自然なほど若々しくエネルギッシュな印象だ。
「……あなたね、そのルーカスの婚約者というのは」
「はい……」
そのグレンダの視線がアンジェに向いた。アンジェは思わずゴクリとつばを飲んだ。
「ふーん。随分痩せているけれども……見た目は合格ね」
「彼女はちょっと患っていて、今は療養中なんだ」
「で? どこで出会ったの? そんな伏せっていて」
グレンダは矢継ぎ早に疑問を口にした。少しの粗も許しはしないといった感じだ。アンジェはそれになんとか答える。
「あの、お見舞いに来てくださって……」
「へえ?」
グレンダは目を細めた。それに口を挟んだのはルーカスだ。
「彼女の父とはへーリア帝国で世話になって……ふと訪ねたら彼はすでに亡くなっていて、彼女はこの通りだったんだ」
「まあ、へーリア帝国?」
胡散臭い物をみるようなグレンダの目が、急に見開かれた。
「彼女は生まれはこちらだけど、十年間へーリア帝国で育ったんだ」
「まあ……そうなの……」
「あ……の……?」
「私、へーリアの出なのよ。もう……二十年以上も昔の話だけれども」
アンジェはそれを聞いて、急にグレンダに親しみを覚えた。こちらに比べれば、広大だが寒く殺風景な大地が大半の厳しい土地。
「そうですか……へーリアは今は遅めの春が来ようとしているところですね」
「ええ……雪が溶けて一瞬の夏が来て……」
「シニイの花が一斉に咲くのよね、丘を埋め尽くして」
「そう……そうです」
アンジェは花摘みに出かけたあの丘を思い出して胸が締め付けられそうになった。そしてそれは、グレンダも同じだったようだ。
「懐かしいわ……それではへーリア語ができるのかしら」
「ええ、できます」
「ではお願い。私としばらくへーリアの言葉でおしゃべりしてもらえないかしら」
「……よろこんで」
アンジェはまるで少女のように手をあわせてそう頼んでくるグレンダの姿に微笑みながら、彼女の願いを快諾した。
「俺もそこそこへーリアの言葉は分かっているつもりだったんだがな。二人が話しているのはまったく分からなかった。早口で」
「少し北方の訛りが強かったからかもしれませんね」
グレンダの帰ったあと、黙って二人の通じない話を聞いていたルーカスはほうっと息を吐いてぼやいた。
「それにしても驚いた。あのグレンダ未亡人とあそこまで打ち解けるとは」
「……たまたまです」
「だとしても、今日の事できっと君は社交界で成功するだろう。彼女が後ろ盾になったからには……」
「成功だなんて……」
「どうせなら歩きやすい道の方がよいだろう。彼女に意見する人間はそういない」
社交界での成功など望んでいないと思っていたアンジェはルーカスの言葉にそれもそうだと思い直した。アンジェはこの国での社交界の経験がないだけだ。へーリアでは父の付き添いとして社交界には出ていた。その面倒くささは知っている。
「……そして、これが契約書だ。内容を一読して問題無ければ署名を」
「けい……契約書?」
「ああ、俺と君との秘密の契約書だ。これまですべて口約束だった。これがあればなにかあった時に君も安心できるだろう」
ルーカスがスッと出して来た書類、そこには二人の婚約が便宜上のものであること、契約期間中はアンジェとその弟妹の生活を保障すること、そしてそれが解消された際、慰謝料として支払われる十分な金額が書き込まれていた。その一枚の紙は、アンジェとルーカスの関係が事務的なものであるとまざまざと主張していた。
「……確かに拝見しました」
「ではここにサインを」
アンジェは言われるがままにそこにサインをした。冷え切った指先で。
「それではこれは弁護士に預けておこう」
「……はい」
そう、なんとか笑顔で答えてアンジェは自室へと戻った。
「便宜上の……そう……そうなのよ」
彼の労りや気遣いは全て便宜上のもの。婚約者のふりをするアンジェにたいしての対価。なのに。
「勘違いをしそうになるわ……」
そう、アンジェは呟きながら椅子の上のクッションを抱きしめた。あの一見冷たそうな切れ長の瞳の奥は優しくて、双子達に問いかける声は穏やかで……。
「駄目よ、アンジェ。彼には別に愛する人がいるのよ」
そうアンジェは自分に言い聞かせるしかなかった。
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