1話 アンジェの事情
連載版はじめました。プロトタイプとの違いをお楽しみください。
※連載版こちらの内容に追いつきました。
駐在外交官の令嬢アンジェの父親はこのハンティントン男爵領の領主だった。だけど領地の経営は弟のブラッドリーに任せて、自分はエレトリア王国の外交官として大国へーリア帝国に赴任していた。家族であるアンジェともそれに随行し、アンジェはそこで八歳から育ったのだ。
――その日、アンジェは友人達とのお茶会を終えて家に戻った。美味しいお菓子に楽しいお喋り。だが、次の瞬間にその余韻を吹き飛ばしたのは父の言葉だった。
「アンジェ、すぐに荷物をまとめて弟と妹を連れてこのへーリア帝国から出なさい。明日、朝にでも。私は後から向かう」
「どうしてです?」
「とにかく命令だ」
そのまま、アンジェは双子の弟妹を連れて大国へーリア帝国から、母国エレトリア王国へと戻った。……それが、父との最後となるとは知らずに。そして不幸のはじまりと知らずに。
***
「ライナス、ルシア」
アンジェは今年九歳になった双子の弟妹の名を呼んだ。癖のある黒髪の男の子が兄のライナス、赤みがかった金髪の女の子が妹のルシアだ。ライナスが少しわくわくしながらアンジェに問いかける。
「お姉様、お出かけ?」
「ええ。人混みでのお約束をあなた達は覚えているかしら」
「しっかりお姉様とルシアの手を握ってそばをはなれない!」
「正解。では参りましょう」
こうして三人は家を出た。と、いってもその家は廃屋も同然で、元はハンティントン家の屋敷の庭師の使っていたものである。隙間風や雨漏りがひどく、とても住めたものではない。
なのにアンジェの叔父のブラッドリーは屋敷の離れどころかここ以外に住む事を許さなかった。母屋に近づけば、叔父にむち打たれるどころか庭番に銃を突きつけられた事もある。だからアンジェ達は屋根があるだけマシなここに住むしかなかったのだ。
「お歌を歌おう、姉様」
「いいわよ」
暗い表情が顔に出てしまったのだろう。ライナスはそう言って歌いながらアンジェと妹ルシアの手を握った。この健気で愛らしい二人の為に、アンジェはなんとか堪えなければ、と思った。
「まずはパン屋さんね」
そう言ってアンジェは弟妹の手を引いて町へと向かった。
***
「あれが、アンジェ・ハンティントン……」
メイドもおらず日々の買い物を自らするアンジェ達の姿を物陰からじっと見つめる人物がいた。彼の名はルーカス・エインズワース。その彼の耳に町の人々の囁き声が聞こえて来る。
「男爵家のお嬢様が自分で買い物ですって」
「ご兄弟までつれて……乳母はいないのかしら」
彼らは彼女の非常識な行動を咎めるもの半分、気の毒がるもの半分といった感じだ。ルーカスはアンジェをよくよく観察した。
明るい金髪をシンプルにきっちりと結い上げ、青い瞳の視線の先は優しく小さな子供達に注がれている。だが、ドレスは流行遅れで生地は毛羽立ち、レースがとれかけているのがここからでもわかる。
「……痩せていてみすぼらしいが、いい眼をしている。また会おうアンジェ」
ルーカスはそうつぶやくと、物陰から姿を消した。
***
「これはおまけだよ」
「まあ、いいの?」
パン屋にひとつパンをおまけされたアンジェはパッと顔を輝かせた。パンひとつでそんな顔をするアンジェをパン屋の親父は気の毒に思った。
「ああ……あんた大変だろう……? いつも来てくれるしさ」
「助かります……感謝を」
うやうやしく正式な礼をされたパン屋は照れくさそうに頬を掻いた。
「さて……フロッグさんのとこにいかなきゃ」
アンジェは町の片隅の店に行く。そこは雑多ながらくたが置かれた奇妙な店だった。
「やあ、アンジェのお嬢」
「こんにちは、フロッグさん」
フロッグと呼ばれた男はこの町のなんでも屋、便利屋のような事をして生計を立てていた。今は壊れた錠前を直しているところだったらしい。
「こちら、三点の翻訳をしました」
「ああ、ありがとう。また依頼が来ているよ。手紙の翻訳だ」
「それくらいなら今ここで」
アンジェはその依頼を心良く引き受けた。
「助かるよ。あんたは仕事を選ばないし、早いし、字も綺麗だ」
「ふふふ、ありがとうございます」
「はい。これ翻訳の代金だよ」
「ありがとうございます」
「あんたも……お嬢さんなのに、こんな事しないといけないなんて大変だね」
「生活の為ですから……それでは失礼いたします」
飢えて死ねといわんばかりの僅かな金しか叔父から与えられていないアンジェにとって、ここでの翻訳で手に入る小遣いはまさに生命線だった。
「いつもより少し多い……」
フロッグの心付けだろうか。アンジェはこれでチーズかハムを買い足そうと思った。
「さあ、行くわよ。ライナス、ルシア」
「うん……でも姉様、ルシアが……」
ルシアはフロッグの店の向かいの菓子屋の窓に貼り付いていた。そこには色とりどりのキャンディが並んでいる。
「きれいよ、お姉様。だいじょうぶ、見てるだけよ」
「ルシア……」
無邪気な顔で振り向いたルシアを見たアンジェはたまらず菓子屋のドアを開いた。
「すみません、キャンディを二つください」
「いいの……? お姉様」
不安そうな顔のライナスとルシアにキャンディを渡しながら、アンジェは微笑んだ。
「昨日も一昨日も二人は書き取りをしっかりしたのになんのご褒美もなかったからね。いい子はキャンディを貰えるものなのよ」
「わーい」
アンジェはキャンディに大喜びする二人を見ながらハムは諦めることにした。
「甘いね」
「おいしいね」
キャンディひとつで大喜びしている双子の弟妹はへーリア帝国で生まれた。アンジェにとってもこの弟妹にとってもへーリア帝国はエレトリア王国よりも故郷と呼べる場所だった。しかし、ある日突然、父親にエレトリアに帰るようにと言われたのだ。
帰国してハンティントンの屋敷で父の帰りを待っていたアンジェ達のもとに父の訃報が告げられたのはそれからすぐのことだった。
「お父様……」
そんな父の死を悼む間もなく、弁護士が公開した遺言書の内容は跡取りのライナスが十八歳になるまで領地の権限を実弟のブラッドリーに託す、というものだった。
――それが不幸のはじまりだった。叔父のブラッドリーはその遺言状を盾にアンジェ達を廃屋に追いやり、世間体の為の僅かな金を与えるだけで双子に家庭教師をつけることもしなくなった。家庭教師どころかメイドもいない生活……令嬢として育てられたアンジェは最初は着替えすら覚束なかった。
「アンジェ様、いいものが手に入りましたよ」
そう言って廃屋に入ってきたのは、へーリア帝国にいた頃から仕えてくれていたメイドのハンナだ。アンジェが子供の頃からいる彼女はブラッドリーの目を盗んではアンジェ達の生活を支えてくれていた。
「ほら、レバーパテです。昨日の晩餐会の残りですが」
「晩餐会……」
今日の夕食が少し豪華になることに喜びながらも、アンジェは複雑な思いを抱いた。アンジェ達がかつかつの生活をしているというのに、ブラッドリーは晩餐会などを開いていたというのか。
「ありがとう……でもこれ、あなた達の分では?」
「いいんです。……アンジェ様、きちんと鏡をごらんになりましたか? こんなに痩せて……」
アンジェは手鏡を見るまでもないと思った。家事で荒れたアンジェの手は骨が浮いている。
「とにかく少しでも食べてくださいまし」
ハンナはそう言って強引に料理を置いて行った。貧しいがこうして誰かが助けてくれる。今はいい。だけどライナスが十八歳になるまでこんな生活を続けるのか、と考えるとアンジェの胸の内は暗くなった。
***
「アンジェ、なんだその格好は」
「なんだと言われましても、この服しかありませんので」
夕食後、珍しい事に叔父ブラッドリーから母屋に来るようにと言われた。それに応じて現われたアンジェの着たきりすずめのドレスを見て、ブラッドリーはその元凶のくせに不満そうに鼻を鳴らした。
「相変わらず可愛げのない娘だ」
「……その可愛げのない姪になんの御用でしょう。前々からお願いしているライナスとルシアの家庭教師が決まったのですか?」
「ライナスの家庭教師なら用意するが、ルシアには必要ない」
「そういう訳にはいきません!」
アンジェは強い語調でブラッドリーの言葉に反発した。これこそが可愛げがないと言われる元凶なのだが、黙って従えばブラッドリーがライナスをアンジェ達から引き離し、自分の都合のいいように教育しようとしているのが目に見えているのでそこは引くことのできないアンジェであった。
「ふん、その話はまあいい。今さら話しても無駄だからな」
「……どういうことでしょう」
いつもはぐちぐちとブラッドリーの嫌みを聞かされるところだったが、今日に限って彼は話を切り上げた。気分を害した、というよりもむしろ機嫌が良くすら見える。そしてブラッドリーはにやりと口の端を引き上げると、勝ち誇ったようにアンジェに言った。
「アンジェ、お前の縁談を決めてきた」
「は? それはどういう……」
「お前はモンクリーフ子爵の元に嫁ぐのだ。お前は貧相で生意気な娘だがそれでも構わないとあちらさんは言っている」
モンクリーフ子爵ならばアンジェも面識がある。近くに領地を持つ貴族だ。だが……。
「ちょっと待ってください! あの方は奥様が亡くなられたばかりですし……親子どころか孫と言っていいほど歳が離れています」
「だからなんだというのだ。愛人ではなく奥方様だぞ。感謝をしてもらいたいくらいだ」
ブラッドリーはそう言って愉快そうに笑った。アンジェは目の前が真っ暗になる。
「ラ、ライナスは……ルシアは……」
「安心しろ。こちらで面倒見るからな。お前は身ひとつで嫁げばいい」
「そんな……」
この叔父がライナスをまともに育てるだろうか。いや、まだ跡取りの肩書きのあるライナスはマシかもしれない。ルシアはどうなるのだろう。今以上に悪い環境だなんて、アンジェは考えたくなかった。
「お前に決定権はない。この領地とハンティントン家の全ての権限は今はこの儂にあるのだからな」
「……気分が優れないので……失礼いたします……」
アンジェはなんとかそう言葉を絞り出し、屋敷の母屋から逃げ出すように去った。
「ああ……神様……」
アンジェは叔父の悪魔のようなやり口に、怒りとやるせなさと絶望が胸に渦巻いて途中の庭の東屋に座りこんだ。
「……アンジェ様」
そんなアンジェの後を追ってきたのだろう。ハンナが蹲るアンジェに声をかけた。
「ブラッドリー様はあんまりです……あんな年寄りとの縁談だなんて……若い娘ならなんでもいいスケベジジイですよ!」
「ハンナ……」
「逃げましょう、アンジェ様。こんなところに居ても……」
ハンナにとっては小さい頃から見ていた大事なお嬢様の一大事である。廃屋に追いやられても、苦しい暮らしを強いられていても気丈な顔をしていたアンジェは今、目の前で真っ青な顔をしている。
しかしアンジェはハンナの言葉に、力なく首を振った。
「私だけならそうしているわ……でも……ライナスとルシアを連れて逃げられるか……」
「アンジェ様」
「それならいっそ、モンクリーフ子爵に二人とも引き取って貰えるよう頼んで……」
考えなければ。自分よりも大切なもの達の為に何が今、一番いいのかを。だけどあまりのショックでアンジェはうまく思考できない。
「ブラッドリー様なんぞ、今すぐ頭に雷が落ちて地獄に落ちてしまえばいいのに」
その横でハンナは悔しそうに唇を噛みしめて、アンジェの冷たい細い手を握りしめていた。
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