胸の内
貝塚杏は秋馬雄太との出会いをいつからか神様に感謝していた。
引っ越したばかりのマンションに葵が彼を連れてきたときは困惑してしまったのを覚えている。
姉が男の子と仲良くしているのは初めて見る光景だったし、人見知りの自分は他人と接するのが苦手だった。
だから最初はあまり口を利けないでいた。
2人きりになった時、もう来ないで下さいとお願いするつもりでいたんだ。
だがそんな考えは、彼と話をしてみるとすぐに消え去る。
自分と同じそれを体験したことは言葉を聞けば――
語りだすその表情を見れば――
否が応でも理解できた。
彼の一言一句は情けない自分に最大限のエールを送っている。
この人は自分の味方になってくれるんだ。
それだけで気持ちが楽なった。
体が軽くなった。
偽りのない本音だからこそ、閉ざしてしまった心に突き刺さった。
それからは徐々に自分から歩み寄っていく。
緊張と恥ずかしさから長時間の対面はすぐには出来なかったけど、毎日が少しずつ、楽しくなっていった。
もちろん彼と出会わせてくれた姉に感謝して――
葵がいなかったら……姉がいたから自分は正気を保っていられたんだ。
寝る前にはいつも悔し涙を流していたけど、それが嬉し涙に変わった。
みんなが学校に通っている時間、杏はいつも家にいる。
そんな自分に罪悪感を抱えひどく苦しい思いをしていた。
周りの視線が怖くなり、余計に外へ出られなくなっていた。
そんな杏を傍で見守って、一緒にいてくれて。
話を聞いてくれる。
葵と雄太には返しても返しきれない恩が出来た。
「お姉ちゃん、あたしも開王学院受験する!」
2人と同じ場所にいたい。
杏はそれを心から願い、志望校を決めた。
高校生活最初の日を杏は緊張であまり覚えていない。
雄太が葵にものすごく積極的になっていて、自分には見向きもしていないのかと思ったけど、この日は一緒に学校に行った。
「葵先輩好きです、杏、無理するんじゃないぞ」
葵への告白と杏への心配を同時にしていた気がする。
なんだか、雄太を見ているとドキドキしていた。
杏の雄太への気持ちは日に日に増して行って、それに付随して学校に行くのが楽しくなっていった。
強引ではあったけど告白もしたし。
デートと言えるかわからないけど、それらしいこともしてもらった。
さあ、もっと頑張るぞ――
そう思った矢先だった。
当然、杏の心の奥の奥にしまい込んだはずの記憶が蘇ってしまう。
もういやだ。
もう一度あれは耐えられない。
一瞬でどうしたらいいのか、自分で考える力も失われてしまう。
まるで深い沼にでも嵌り、沈んで行っている感じだった。
だから、すぐに雄太や葵に相談できなかった。
口にするのも憚れる、不思議なことだが弱いと認めるようですぐには何も出来ない。
『葵先輩、今日は3人で帰りましょう』
『えっ……そうね。いいわよ』
でも――
そんな杏なのに、2人は変わらず、傍にいてくれて勇気をくれた。
葵ではなく雄太にまず話したのは、雄太が同じことを経験していたから……
ただそれだけの理由だった。
『謝ることなんてないぞ。あとは僕が絶対に何とかするから』
雄太のその言葉は震えるくらい嬉しく、涙まで流しています。
他力本願なのに、自分では何も出来ないのに――
雄太はそんな杏の心境を理解し、軽く頭をなでてくれた。
本当に助けてもらったばっかりだ。
☆☆☆
雄太は1限終わりに学校に登校してきた。
どこか疲れた表情を浮かべながらも、杏が駆け寄っていくと力強く頷く。
クラスメイトも遅刻したことがない雄太に詰め寄り、からかうようなことを言っていた。
「心配しなくていい」
「雄太君……」
「なんも言うな……あっー、また先輩へのお弁当忘れた!」
杏が安心するような自然な笑顔を浮かべるとすぐに雄太は机に突っ伏した。
よほど疲れていたのか、授業中も気持ちよさそうな寝息が聞こえ始め、それは午前中いっぱい続いたのだった。




