水が固まったら
カツカツと黒板にチョークを滑る音が教室に鳴り響く。
今は物質の三態、小学校の理科の授業中。
「つまり物質には固体、気体、液体の状態があり、一般的には温度によって変化するわけだ。そこでみんなに簡単な質問だ。水は液体だな。その水が固体になったらなんて言うか……分かる人?」
はい! はい! と手をあげる子供達。
その中でも目力を持って「僕を当てろ」と訴えてくる生徒がいる。
クラス一の秀才、浅間くんだ。
誰でも簡単に正解を答えられる問題だが、私はあえて浅間くんに指を差す。
「はい、浅間くん」
「はい!」
浅間くんは誇らしげな顔で起立すると、手を開き演説するかのように説明を始めた。
「それは氷です! 一般的には摂氏0度を境に水から氷へと変化していきますが、気圧によってはその融点も変化します。また体積については約11分の1増加します」
小学生らしからぬ答えに、クラスからは「すげぇ、さすが浅間。言ってること半分しか分かんねぇけど、すげぇ」「天才だな」といった感嘆の声が上がっている。
中には恍惚の表情で浅間くんを見る女子生徒までいる始末。
浅間くんも満足そうだ。
私としては行き過ぎた答えだと感じるが、正解には違いない。
私が褒めようとしたその時、自信満々で手を上げる一人の男子生徒がいた。
クラスのムードメーカー、空山くんだ。
というか空山くん、もう正解が出てるんだけどね。
だが彼が何を答えるのかは興味がある。
浅間くんはもう終わった問題の引き伸ばしに嫌な顔をしているが、これも民主主義の教育だ。
私は空山くんに手を向けた。
「ん、他の答えがあるのかな? 空山くんどうぞ」
「はい!」
空山くんが元気に立ち上がる。
「水が固まるとクソになります!」
「「……」」
クラスにいたたまれない空気が流れる。
何言ってんだコイツと、クラス中から突き刺さる視線が集中するが、ものともしない空山くん。
やはり彼は面白い。
「その理由を聞いてもいいかな?」
「はい! 鼻水は固まると鼻クソになるからです!」
一瞬の静寂の後沸き起こる笑い声。
「空山、そりゃねぇよ!」とか「一本取られたぜ!」なんて声をかける男子、
「汚いよ」と苦笑いの女子。
「はははっ。なるほどね。面白い発想だね。それじゃあみんなにも聞いてみよう。水が固まったら氷になると思う人?」
私の問いにほぼ全員が手を上げる。
浅間くんは得意満面で周りを見渡している。
「じゃあ、クソになると思う人?」
みんなが手を下げる中、迷いなく手を上げる空山くん。
もちろん手を上げているのは空山くん一人だ。
「はい。ありがとう。答えを発表するよ。理科の授業としての答えは氷だね。ただみんなも覚えておいて欲しいんだけど、世の中には見方によって答えが違う事だってある。先生は空山くんの発想好きだよ」
空山くんは照れたように頭をボリボリかいていた。
本当に子供は当たり前を取っ払って、不意に面白い答えを用意してくれる。
教師の醍醐味ってものだ。
あれから20年。
私は定年を迎え教師生活にピリオドを打った。
耳に挟んだ話だが、浅間くんは有名大学に進学もそのまま引きこもりに。今では誰も連絡が取れないらしい。
そして空山くん。
私の離任式の日に花束を持って駆けつけてくれた。
会ったのは17年振りだ。
なんでも工業高校卒業後に建築関係の会社に就職。
数年の経験を経てリフォームの会社を立ち上げ、今では年商数億の社長らしい。
もちろん順風満帆な人生ではなく波乱に満ちた道のりだったらしいが、落ち着きが出たとはいえ昔の無邪気さが垣間見える。
別れ際、空山くんは満面の笑みを浮かべる。
「先生、水が固まったらって授業の事覚えてる?」
「あぁ、懐かしいね。君の発想力には舌を巻いたものだよ」
「あの時先生は俺の事、間違ってるともふざけてるとも言わなかったよね。俺ね、認められてるみたいで嬉しかったよ。だから俺――先生に会えてよかったよ」
懐かしむ顔で頭を一度下げる空山くん。
私も歳を取ったせいか涙腺が緩んで仕方がない。
教師生活35年。
ざっと考えても1000人近い教え子がいる。
空山くんのように私に感謝する者もいればその逆もまたいるだろう。
私が教師として正しかったのか、間違っていたのかを答えてくれる者はいない。
人によって答えは違うのだから。
「水が固まると何になるのか……か」
私はポツリと1人ごちた。