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君の魔法をたべたい、は。  作者: 偽ゴーストライター本人
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第三章

 夏休みが間近に迫った七月上旬、ミランダが夏休みの予定を宣言した。

「あたし、ニュージ-ランドに帰る!」

「へー」

 ミランダは長期の休みを利用してニュージーランドに里帰りするらしい。八月になったら単身でニュージーランドに渡り、母方の祖父母の家でお世話になるそうだ。母親のお墓参りに行ったり従姉妹たちと遊んだり昔の友達に会ったり、久しぶりの生まれ故郷を満喫するのだという。

「だから、さっさと宿題を終わらせたいの!」

 と、ミランダは岳太に宣言する。

「・・・つまり、それは僕に宿題を手伝えってことなのかな?」

「答えを教えろとは言わないわよ。問題を訳すのを手伝って欲しいの」

「僕の答えを写した方が早いと思うけど?」

「それだと、あたしの勉強にならないじゃない」

 至極当然、といった顔でミランダが言った。岳太はこれ以上ミランダと問答しても仕方がないので、もう余計なことは言わなかった。岳太はミランダの性格は概ね把握しているつもりだ。ミランダは正義感が強いので不正を好まなかった。しかしそれがネックになるのも岳太は知っていた。ミランダは日本語の読み書きが苦手なので、夏休みの宿題もそれなりに軽減されるはずだった。しかし当のミランダがそれを拒んだ。皆と同じ宿題をすることを望んだのである。それはミランダの持つ向学心なのかもしれないし、あるいは特別扱いされることへの不満や、はたまた仲の悪い女子に対するミランダのプライドなのかもしれない。結局とばっちりを食らうのは岳太なのだが、それでもミランダが提案する「お茶菓子を出す」という言葉には満足だった。そういう経緯で岳太はミランダの宿題を手伝うことになったのだ。

 そして、それから三週間ほど経過した。

 岳太は小学校の終業式に出ながら、明日からミランダの宿題を手伝わなきゃなあなんて呑気に考えていた。

「さっさと宿題を終わらせるわよ」

 しかしミランダの行動は早かった。岳太はその日の午後にはミランダに身柄を拘束されていたのである。

 ミランダの家のリビングで筆記用具を並べながら、岳太はミランダの行動力を過小評価していたことを反省した。ミランダは意地でも帰国前に宿題を終わらせるつもりのようだった。

 それでも条件通りにお茶菓子と飲み物は出るようなので岳太も文句はなかった。

「あれ? ミランダは指輪なんてするんだ?」

 お盆にジュースを載せて運んできたミランダを見て岳太が言った。岳太の言葉を聞いたミランダが感心したように言った。

「へえ・・・岳太ってこういうのに気付くタイプなんだ?」

「そりゃ気付くよ。赤い石が付いているし、目立ってるよ」

「ん~ふふふふ・・・」

 テーブルの前に腰を下ろしたミランダが、自分の左手人差し指を見ながらニヤニヤしている。

「最近、家にいる時はず~っと着けているのよね~」

「へえ・・・父さんからのプレゼント?」

「違うよ。それに父さんの前で指輪はしないもん・・注意されるの嫌だし」

「じゃ、それってミランダの母さんの指輪? 形見なの?」

 シルバーの輪に赤い石が付いている指輪は、岳太には高級そうな記念指輪に見えた。

「ん~ふふふふ・・・気になる? ねえ気になる? ねえ? ねえ?」

「・・・うん、気になる」

 本音を言えばあまり興味はない。

しかしミランダがいかにも聞いて欲しそうだったので、岳太は仕方なくそう言った。

 ミランダは岳太の言葉に満足したのか機嫌よさげに鼻歌なんかも歌い始めた。それからミランダは左手を高く掲げながら仰々しく言い放った。

「なんと! この指輪はとても由緒ある逸品で、時価数千万円もするといわれる高価な指輪なのよ!」

「・・・へえ」

「あたしのようなレディーが身に着けるに相応しい、素晴らしいアクセサリーなのです!」

「・・・そうなんだ」

「この指輪に負けないくらいの、素敵な淑女になります!」

「・・・負けないでね」

 なんか話が大げさになってきたなあ・・・なんて思いながら岳太は適当な相槌を打っている。こういうミランダはだいぶ面倒くさい。それでも仕方ないので岳太はミランダに話を合わせる。

「それで・・・一体、どこの王子様からのプレゼントなのかな?」

「あんた、今、あたしのことを馬鹿にしたでしょ?」

「・・・・・」

 ミランダの目つきが鋭くなったのを見て、岳太は慌ててテーブルのコップに手を伸ばした。気まずい雰囲気をごまかすように岳太がゆっくりジュースを飲んでいると、ミランダが指輪を眺めながら溜め息を落とした。

「・・・でも、これはイミテーションなんだって」

「イミテーション? ・・・じゃ、それは偽物なんだ?」

「そう、ただのオモチャなの。ガラス玉が付いた模造品なんだって」

「ふーん」

「でもね、身に着ける人次第では、オモチャだって高級品に見えるんだよ? それって凄いマジックだと思わない?」

 あたしもそんなレディーになりたいなあ・・・なんて遠い目をしながらミランダが言った。岳太はそんなミランダの言葉を聞いて『なるほど』と思った。

「僕も騙されるところだった」

「だまされる~? ・・・ん~? ・・・それってどういう意味なのよ? あたしのことを褒めてるの? それとも貶してるの?」

「いや、そういうことじゃなくて・・・僕はその指輪がミランダの母さんの指輪だと思ったんだよ。婚約指輪とか、結婚指輪とかさ」

「へえ~、そんなロマンチックなことを考えてたんだ?」

「ま、そういうこと」

 その推理の前提として、ミランダが父親から指輪を注意されるのを嫌がった話があるのだが、岳太はそれには触れないでおいた。どういうわけかミランダの機嫌が直ったようなので、ここでは余計なことを言わないほうがいいと思った。ミランダは指輪の左手を表に裏にとひっくり返しながらそれを見てニコニコしている。

 するとミランダは突然に「よし!」なんて言うと、何かに納得しように大きく頷いた。

「許してあげるわ」

「・・・それは、どうも」

 何を許されたのかは知らないが、それでも岳太はミランダの言葉をそのまま受け止めた。

 その後、ミランダは楽しそうにその指輪の話を披露するのだが、お喋りに夢中になったミランダはすっかり宿題のことなど忘れてしまっていた。

 指輪譚から始まったミランダの話は自分の理想の淑女像から女性の品格の話に展開し、やがて自分の夏休みの予定からニュージーランドの素晴らしを熱弁するまでに至り、結果として宿題に手をつけるのがだいぶ遅れることになった。

 

    ★

 

 そして翌日が夏休みの初日だった。

 岳太の家はミランダのマンションの二百メートルほど離れたところにある一戸建てだったので、ご近所さんである二人は朝から同じ公園でラジオ体操に参加していた。これは健全な小生学が参加する地域活動のひとつなのだが、ミランダはこの日本の伝統文化に不満らしく「なんで休みの日に早起きしなきゃなんないのよ?」と眠そうな目で岳太に文句を言った。

「そうかな~? 僕はこういいのが楽しいけどなあ」

 運動嫌いなわりにラジオ体操に好意的な岳太がミランダは不思議でならなかった。

 そしてその日の午前中、昨日ほとんど進まなかった宿題をするために岳太はミランダの家を訪れていた。

「僕は人がたくさん集まる場所が好きなんだよね」

 なぜにラジオ体操が楽しいか? というミランダの疑問に岳太が答えた。

「・・・というか、人と一緒にいるのが好きなのかな」

 入院生活が長かった反動かもね、と岳太は笑った。そういうものかしらと納得しかけたミランダだったが「ん?」と疑問に思った。

「それなら、なんで船を見に行った時に隠れて出てこなかったのよ?」

「あ~・・・やっぱりばれてたんだ」

「昨日も聞こうと思ってたんだけど、お喋りに夢中になって忘れちゃったのよね」

 ミランダは昨日の自分を少しだけ反省している。

 岳太は港に行った日のことはよく覚えていた。

「ミランダが楽しそうに話をしていたから、邪魔しちゃ悪いかなーって思ってさ・・・」

 が、その後に小さい声で本当の理由を述べた。

「・・・で、二人が英語で話していると思ったら、日本人なら普通に腰が引けるよね」

 そう言った岳太はバツが悪そうだった。

 しかしミランダもその話を聞いて納得できたし、それで岳太を責めるつもりもなかった。どちらかといえば岳太は正しい判断をしたのかもしれない。もし岳太があの場にいたらミランダは通訳をする必要があった。ミランダが充実した時間を過ごせたのは、心ゆくまで英語でお喋りができたからだった。婦人はミランダと岳太の凸凹コンビを期待していたようなので、それに関しては申し訳ないと思っている。

「岳太はもっと英語を勉強すべきよ」

「僕の英語力は読み書きが優先だから・・・会話に参加するのは無理だよ」

 そもそもお喋り好きな女性が二人揃ったら、普通の男性は日本語でも太刀打ちできない。

 それからも、しばらくは二人の間で会話が続いたが、それが止んだ後はわりと真面目に宿題に取り組んだ。

 二人が勉強するリビングでは辞書をめくる音と筆記の音、ミランダが岳太に漢字の意味を質問する声が響いていた。テーブルの上には筆記用具や辞書だけではなく、お茶菓子入れや麦茶のコップや二人の携帯電話も並んでいて結構、賑やかな状態だった。開け放しの窓からは涼しい風が入るのでクーラーも必要なかったし、集中して勉強するには良い環境だった。

 穏やかに時間が流れる。

 順調に課題も消化していたし、昨日の遅れを取り戻すには充分だった。このペースで進めば七月中にはミランダの宿題を終わらせることができそうだった。

 今日は二人にとって良い夏休みのスタートになるはずだった。

 しかしそれは思わぬ形で終わりを告げた。

 携帯電話が鳴った。

「え?」「ん?」

 ミランダと岳太は同時にその音に反応した。なぜか二人の携帯電話が同じタイミングで鳴り出したのだ。しかも今まで聞いたことのないブザー音が流れいた。

 二人は思わず顔を見合わせた。

「これって何かの冗談・・・」

 冗談なのかしら、とミランダは言おうとした。しかしそれを遮るように岳太が言った。

「地震だ・・・」

 自分の携帯に手を伸ばしていた岳太は、マンションが静かに揺れていることに気付いた。それから岳太は携帯電話の画面を見て顔色を変えた。

「・・・緊急地震速報だって」

「え?」

 首を傾げながらミランダも自分の携帯に手を伸ばした。ミランダの携帯にも緊急地震速報メールが届いていたが、ミランダは不思議に思っていた。確かにマンションは揺れているが、ミランダの体感では震度三くらいの地震でしかなかった。震源が遠い場所なのかもしれないし、もしかしたら地震速報が大げさに反応したのかもしれない。ミランダはそんな風に軽く考えていた。

 この時のミランダはまだ知らなかったが、このマンションは耐震・免震機能がしっかりしていたのでその程度の揺れだった。実際にはミランダの住んでいる地域は震源からも近く、被災地の中では最も人口の多い街だった。

 これが二人の体験した巨大地震の瞬間だった。

 

    ★

 

 地震の揺れは三分ほど続いた。

 途中でミランダが慌ててテレビを点けると、やはり緊急地震速報が流れていた。しかしそのテレビがすぐに停電で消えたのを見て、これは只事ではないと二人は直感した。

 二人はその場で息を潜めながら地震が収まるのを待っていた。外に逃げ出すことや大きな家具から離れることなど、とてもそんなことまで頭が回らなかった。二人は携帯電話を握りしめながら、ただその場に留まることしかできなかった。

 揺れが収まると二人はようやく体の緊張を解いた。マンションの軋む音が止んだのが二人には何よりの安心材料だった。

 しかし事態は深刻だった。

「電話がつながらないよ・・・」

 仕事先の父親に電話をかけたミランダが不安そうな声で言った。街に出かけている母親に電話をした岳太も同様だった。

「メールを送った方がいいかもね・・・たぶん、もう電話は通じないと思う」

 岳太はそう言ってメールを打ち始めた。それと同時にミランダに声をかける。

「わたしは無事です、家にいます、建物も無事です・・・そんな文面でいいからミランダもメールで送った方がいいよ」

「え・・・あ・・・うん」

 岳太に言われてミランダも慌てて父親にメールを送った。

 それからミランダは小型ラジオがあったのを思い出して、それをリビングに持ってきた。そのラジオから流れてくるアナウンサーの声を聞いて、ミランダは今回の異常事態を知るのだった。

『津波が来ます! 至急、海や川から離れて下さい! 今すぐ高台に逃げて下さい!』

 ラジオは繰り返して避難を呼び掛けていた。ミランダはそれが現実の出来事だとはすぐに信じられなかった。

 一方、岳太はその放送を聞きながら冷静に状況を分析していた。ミランダのマンションは海から直線距離で五百メートルほどしか離れていないが、十二階建てのマンションだしミランダの部屋も七階にある。建物自体も新しいので倒壊の心配も少ない。小学校を目指して外に避難するよりは、このままマンションに留まる方が安全だと思った。

「僕らはマンションから出ない方がいい」

 ミランダの家で待機することを両親にメールで伝えながら、岳太はミランダにも同じメールを送るように言った。こういう時は自分たちの所在が不明になったり、自分たちを探すために家族が闇雲に動きまわることのほうが危険だと思った。

 岳太は携帯を手にしたままでベランダに出てみた。ミランダの部屋のベランダは東に面しているが、ここから直接海を見ることはできなかった。ただ海から聞こえてくるサイレンの音が、この一帯に危険が迫っていることを報せていた。

「津波・・・くるの・・・?」

 ミランダも岳太を追ってベランダに出てきた。

「たぶん・・・でも、この部屋の高さまでの津波はこない・・・と思う」

 岳太には津波が「絶対にこない」なんて気休めは言えなかった。むしろ間違いなく津波は来るだろうと思っていた。問題はどのくらいの大きさの津波がどのくらいの時間で来るか、だった。

 ベランダから海の方向を眺めながらミランダは不安だった。岳太の真剣な表情が事態の深刻さを物語っていた。いつもの笑顔は完全に消えていた。

 二人は七階のベランダから地上を見下ろしながら想定外の現実に、ただ戸惑っていた。 

「・・・何年か前にさ」

 岳太が静かに口を開いた。

「・・・東南アジアの国で大津波が発生して、そのニュースをテレビで見たんだ」

 岳太の言葉を聞いてミランダもそのニュースを思い出した。ミランダがニュージーランドにいた頃の出来事だったが、東南アジア諸国で大地震が発生していた。

 岳太はその時に感じたのだという。

「あれを教訓にしないといけないと思うんだ・・・」

 当時の岳太にはその映像が衝撃的だった。

「・・・津波が迫っているのに気にしない人がいたり、のんびり道を歩いてる人がいたり・・・」

 津波によって陸地の水かさが増していき、人や車が流されるようになってようやく事の重大さに気付く人がいた。しかしその時にはもう手遅れで、あらゆる物が津波に呑みこまれていった。

「・・・ああいう場合は経験よりも、想像力が大事なんだろうな」

 岳太は悲しそうな顔でそう言った。

 岳太と並んでベランダの手すりを握りながら、ミランダも海の方向を眺めていた。今まで聞いた事がないくらいにサイレンの音が鳴り響いていた。そのサイレンから逃げるように内陸を目指す車がある一方で、逆に海を目指して走っていく車があることにミランダは気付いた。

 え? とミランダは我が目を目を疑った。

「なんで? ・・・危ないのに・・・なんで海に向かう車があるの・・・?」

「家族を迎えに行く車とか、知り合いを探しに行く車とか・・・警察や消防の車もあると思うけど・・・今がどのくらい危険な状況なのか、それだけは忘れないで欲しいよね・・・」

 こんな緊急事態にもかかわらず岳太の声は落ち着いていた。慌てても騒いでも自分達には何もできない、それが現実なのだと自分に言い聞かせているようでもあった。ミランダも岳太の言っていることがわかるだけに切ない気持ちになった。自分が何もできないことが悲しかった。自分たちだけが安全な場所にいることが申し訳なく思えた。そう思うと手すりを握る両手に力が入っていた。

 巨大地震の後でも大きな余震が続いていた。二人の携帯電話には緊急地震速報メールがさらに届いていた。状況は何も改善しないまま時間だけが過ぎていた。気付けば夏の太陽が本格的に降り注いでいた。何もなければ絶好の海水浴日和だったかもしれない。二人の立つベランダには涼しい風が吹いていたし、もし地震が起こらなければ今日はとても良い日だったに違いない。

「僕にはね・・・」

 ふいに岳太が口を開いた。

「僕には・・・友達がいたんだ」

 岳太の口調は穏やかで柔らかだったが、ミランダにはどこか普段とは違うように感じられた。先ほどまでの緊迫した様子とも、いつもの飄々とした岳太とも何かが違っている。

「・・・僕が大学病院に入院している頃に、僕の回りには同じように入院している子がいたんだ」

 そんな話をする岳太は遠い目をしていた。

 大学病院には岳太の他にも長期入院をしている子供たちがいた。外界から隔離された特殊な環境にいた子供たちは、そこで小さいながらも独自のコニュニティを作った。幼いなりに一生懸命に人間関係を築いたし、限られた空間の中で精いっぱいに背伸びもした。けして満たされない孤独をお互いで埋めあったり、時には喧嘩をすることもあったり、子供たちが築きあげた小さな世界で様々な経験を積んでいた。

「仲の良い子が退院する時には『病気が治って良かったなあ』って思う反面・・・寂しいなあ・・・残念だなあ・・・なんて思う気持ちもあったんだよね」

 それから岳太は「ホントはそんなことを考えちゃ駄目なんだけどね」と自嘲気味に笑った。

 そんな岳太の横顔をミランダは静かに見つめている。

「もしかしたら僕が退院した時にも、同じようなことを考えた子がいたのかもしれないね・・・」

 そして岳太は話を続ける。

 先に退院した友達がお見舞いに来ることもあったが、退院した後で全く会うことがなくなった友達もいた。同じ市内に住んでいてフットワークの軽い子もいれば、遠くに住んでいてなかなか身動きが取れない子もいる。皆、それぞれの生活に戻ればそれぞれの人間関係が築かれる。それは仕方のないことだったし、きっと当たり前のことなのだ。

「・・・それは寂しかったけど、別に悲しくはなかったな」

 岳太はそれでもいいと思っていた。けして強がりではなく、本心からそう思っていたのだ。 

 岳太はそれから言葉を絞り出すように「生きてさえいれば・・・いつか会えるからね」と言った。

 悲しい別れを知っているのはミランダだけではなかった。

「だから・・・みんな・・・無事だとい、いな」

 岳太の声が最後に少しだけ震えた。

 それを聞いたミランダは胸が強く締め付けられた。岳太もあの痛みを知っているのだと思った。おそらくミランダと同じように、岳太もかけがえのない大切な人を失っているのだ。普段の岳太ならけしてこういう話はしないだろう。自分たちではどうすることもできない状況の中にいて、自分たちには何もできない無力感に苛まれていて、だからこそ吐露された岳太の痛みなのかもしれない。

 岳太は海から響いてくるサイレンに向かってつぶやいた。

「僕は・・・悲しいのは、もう嫌だな・・・」

 遠くの空からヘリコプターの音が聞こえていた。

 リビングからはラジオの緊急放送が流れている。

 この瞬間もまだ余震は続いていた。

 そんな状況でも海に向かう車が走っていた。おそらく多くの人が誰かのために命がけで行動しているのだ。自らの危険を顧みずに、精一杯の思いで救いたい人がいるのだ。

 しかし現実は残酷だ。

 時間はけして有限ではない。

 まもなく多くの悲しみがやってくる。

「あたしも・・・悲しいのは、嫌だ・・・」

 ミランダもそう口にしていた。たとえ見ず知らずの他人であっても、こんな形で多くの悲しみを知るのは嫌だった。さっきまでの当たり前の日常が、こんなに簡単に壊れていくのが嫌だった。

 どのくらいの人が自分たちと同じような痛みを知ることになるのだろう?

 ミランダはそう考えると胸が張り裂けそうになった。見ていることしかできない自分が悔しかった。悔しすぎて体が震えていた。何もできない自分を役立たずと罵ってやりたかった。

「ミランダ・・・リビングに戻って休もう」

 ミランダがよほど辛そうだったのだろう、見かねた岳太がミランダに声をかけた。ミランダはその言葉に小さく頷いた。ミランダは手で涙を拭うと岳太の後を追ってリビングに入った。ベランダの網戸を閉める前に、もう一度だけミランダが外を見た。

 そこからは見えないはずの海を、ミランダは必死で見ようとしていた。

 窓枠を掴んだミランダの右手が網戸を閉めるのをためらっていた。空いている左手をぎゅっと握りしめながらミランダは心の底から願った。

 誰か・・・津波を止めて・・・。

 おそらくそれは皆の願いでもあった。

 思いが強すぎたのだろう、ミランダの口から願いがこぼれていた。

「津波を・・・止めて」

 力いっぱい握ったせいで左手に指輪が食い込んでいたが、ミランダはその痛みにすら気付かなかった。

 風が吹いた。

 リビングにいた岳太は窓から強めの風が吹きこんでくるのを感じていた。

 

    ★

 

 この地震による被害は建物の倒壊や土砂崩れ、火災やその他の事故などで百名以上の犠牲者が出た。

 しかし津波による犠牲者はゼロだった。

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