43話 帰省
駅の東口を出て真っすぐ。交差点を二つ通り過ぎたところで右に曲がってすぐのところ。
一戸建ての家やよくあるファミレスやファストフード店が立ち並んでいるような、平凡な風景。
田舎というわけではないので夏休みの名物である、虫を探しに行く少年たちの姿は見当たらない。
とても説明するのが難しい、そんな街のなんでもない駅近くのマンションの一室を訪ねていた。
部屋の呼び鈴を鳴らすと、中からとたとたと走ってくる音がした。
「兄さんですか?」
扉を開ける前に確認をされる。こんな大雑把な確認に意味がないように思えるが、どうやら彼女――妹――は俺の声を聴き間違えることは絶対にないらしい。
「ああ、入江美月の兄の入江零だ」
と丁寧に説明をしてみると扉が開いた。
「足音でほぼ分かっていましたが、一応確認です。すみません」
美月はぺこっと頭を下げた。確認なら顔を見るなど、もっと確実な方法があっただろ、と思っていたがどやら彼女なりに手早く済ませようとした結果らしい。
「入ってもいいか?」
「兄さんに見られて困るようなプライベートゾーンは私にはありませんので!」
はきはきとした言葉で言っては扉をさらに開けて招く美月。え、それって裸も顔パスでオーケーってことですか? いやいや、そこまで広い意味で言ったわけではないだろうし、妹の裸が見たいなんて思うこともないが、決してないが。
……言い訳をさせてもらうと、美月は美少女を絵にかいたような外見をしている、足は細く目はぱっちりと開いていて、栗色の髪の毛がストレートに光沢をもってなびいている。引き締まった体に対し、肉付きの良い太ももやお尻、大きすぎないが十分に主張をする胸。透き通った声は天使と勘違いさせるほどだ。
いや、ここまで語っているのは決して、断じてシスコンだからというわけではない。事実を淡々と述べているだけに過ぎない。
「兄さんが入るのには狭すぎるかもしれませんが…。どうぞ入ってください」
とても申し訳なさそうな顔をして謝ってくるため、高校1年の頃はこれより狭い部屋で過ごしていたなんてとても言えるわけもなく、「構わない」とできるだけ兄貴らしく振舞って中に入った。
居間を拝見させていただくと、そこには今日のために片づけたと思われる綺麗な部屋があった、
「兄さん、私の部屋を一刻も早く見たいという気持ちは嬉しいですが、先に手を洗ってくださいね。病気にならないように」
これもシスコンの一環として、兄貴面して妹の部屋をチェックしようと先走った訳ではない。病気になることがなかったため、手洗いという習慣を忘れていただけだ。
「飲み物はコーヒーでいいですか?」
「ああ、頼む」
「安いもので本当に申し訳ありません。今あるお金で一番良いものを買ったのですが」
「何してるんだお前は!」
俺は確実にシスコンではないが、妹は確実にブラコンである。
俺のことを神聖視している気配がある。どうやら彼女の中では、俺は宮殿か何かに住んでいるに違いない。
手を洗って机に向かって椅子に座っているとすぐに美月がコーヒーをマグカップに入れて運んできてくれた。
クーラーの効いた部屋の中で、ホットコーヒーを飲む。冬にコタツでアイスを食べるほど複雑ではないが、季節に反しているようには見える。
「兄さん、なぜもう少し早く帰ってきてくれなかったのですか?」
「まあ、そうだな、こんな田舎にやってくるのは面倒くさいからな」
「ひどいです!」
俺は今、嘘を言った。妹の顔は毎日見たいし、というか同棲したいくらいだ。いや、シスコン的なやつではなくて、妹が一人で家にいると悪い奴に襲われないか心配だからだ、
でも、俺と一緒にいるべきではない。2年前の事件のことが広まっていない土地に来たとはいえ、俺と一緒に居てはひょんなことから同じような事件が起きてしまうかもしれない。いや、そんな言い方はとても無責任だ。同じような事件を再び起こしてしまうかもしれない。
「高校生活は楽しいか?」
今日、妹のところにやってきたのは、これが知りたかったからだ。妹が高校に入学して以来一度も連絡を取っていなかったから、妹の近況が分からなかった。
「うん、そうだね、順調とは言えないし、楽しくないのかもしれないけど、中学の時よりはうまくやれているの…かな」
急な俺の質問に、口調が自分と対話するかのように柔らかく、自分の生活を回顧するかのように言った。
「うまくやれている」
その言葉には誤りがある。そう思った。
中学の美月は、人間としてこれ以上にないほどうまくやっていた。学生としてこれ以上にないほどうまくやっていた。彼女自身は。
だから、それ以上にうまくやっているというのは、彼女の「うまくやっている」の基準がねじ曲がってしまったのだ。中学時代ほどうまくやることはできないのだから。
「兄さんの方はどうなの?」
雰囲気を重くしてしまったことを案じたのだろうか、話を俺の方に変えてきた。
「そうだな、俺は楽しくやれているな…」
多少の罪悪感を感じながら答えた。美月が満足に暮らせていないのに俺は幸せに生きていていいのかと感じてしまった。
だが、そう思ったのも美月にはお見通しのようで
「兄さんが元気にやれてるのなら良かった!」
と、今日一番の笑みで言った。
「やれやれ、ここに来て本当に良かったよ。元気な妹が見れて俺も幸せだ」
美月が笑っているのを見て、心からそう思った。
「あ、でも兄さん、テストで手を抜いちゃだめですよ!」
「ん? 何のことだ?」
「とぼけないでよ兄さん。この前あった模試の結果、知ってますから!」
「あ、てかお前! あの、『人江澪』って一位の女の子! あれ絶対お前だろ!」
「え、なんでわかったのですか!?」
「東大の模試で1位を取る1年生の女子がお前以外にいたら、日本はもうおしまいだよ!」
「というか、そうですよ! なんで兄さんが1位じゃないのですか! おかしいですよね!?」
「逆切れすんな! 1位以外ありえない兄貴がいてたまるか!」
「妹に1位を押し付けた兄がそれをおっしゃいますか~!?」
「お前は特別だ! 妹の前にバケモンだ!」
「その化け物より化け物の兄貴はさしずめ獣ですね!」
「獣だと知性が落ちるだろ!」
「化け物に知性があると思っているくせに!」
こんな感じのくだらない兄妹喧嘩も、とても居心地の良いものとなった。