104話 闘う者たち(後編)
美月が席に着いて、一呼吸整えたところで2人とも再びペンを走らせる。
「でももう20問以上も差がついています……ここから零くんが巻き返すことは……」
「大丈夫ですよ、京華さん」
圧倒的に絶望的な状況に諦めの声を口にしてしまう雨宮だったが、高宮が彼女の肩を叩いて安心させる。
「でも…」
「だから大丈夫ですって」
あまりに心配する雨宮に苦笑いしながら応じる高宮。
「前に言ったでしょう? 零さんは神宮家において最高の才能を持った人間だって」
「言いましたけど…」
少し勿体ぶる高宮に対して、雨宮はまだ不安そうだ。
「もーれいにゃん、もったいぶってないで教えてよー!」
「ふふ、いえいえ、すみません」
大宮からも催促される。
「まあ見ていれば分かるものなんですけどね」
と枕詞を一つ置いてから、高宮は説明する。
「零さんは――ゾーンに入ることが出来るんです」
「ゾーン?」
聞き慣れない単語に思わず聞き返す大宮。
「端的に言ってしまえば、ゾーンというのは人間が無意識にかけているストッパーを外している状態みたいなものです」
「ストッパー?」
ストッパーというのは、零が先ほどまでかけていたものと同じものだろうか。そう思って大宮は聞き返したのだが、高宮は違うという。
「あれは零さんが精神的に無意識的にかけていたものです。それとは別に人間というのは本能的にストッパーをかけてしまうものなんですよ」
「へぇ~」
この話には音宮も興味をもったのか、いつもより深い相槌を打っている。
「まあ、それでそのストッパーが外れた状態をゾーンと言うのですけど…飛鳥さんもそれに近いことは体験したと思います。ほら、部活の大会とかでいつも以上に集中できることとかありませんか?」
「あーあるなー。なんか妙に頭が冴えて現実がコマ送りになっていく感覚だよね?」
「それです」
さすがの大宮。高宮の予想通り、ゾーンに類する状況になったことがあるらしい。
「ゾーンに入ること自体難しく、不特定です。それに入れることがあってもそれは一人の人間に着き一つの分野でしょう。飛鳥さんなら陸上、沙彩さんなら創作しているときに一度はあるでしょう」
「うん~、そうね。絵を描いてるときはたまにあるかも」
音宮も同じ感覚を感じたことがあると言う。
「実際私や京華さんも感じたことがあると思いますが、それはおそらくゾーンではありません。その一歩手前、フロー状態というものです」
「フローとは?」
高宮が指を口に当てながら首をかしげる。
同じようにポカーンと呆けている雨宮と音宮を見て、高宮は説明を続ける。
「ゾーンの一歩手前の状態と言えばわかりやすいですかね。思うように体や頭が動くような状態です」
それは今は関係ないですけど、と高宮は話を元に戻す。
「つまり、零っちは私たちよりも上の状態になれるっていうこと?」
「ええ、そういうことです」
高宮以外の3人が思わず息を呑む。
あれだけの実力があって、さらにそれを強化できてしまうなんてどれほど入江零という人間はすさまじいのか。
「さらに」
3人の反応が予想通りだったのか満足そうな高宮が、この後の反応を予想して思わず微笑みをこぼしつつ続ける。
「零さんは、運動、勉強、芸術。どの種目、どの教科、どの分野でもゾーンに入れます」
「……」
もはや何を言っているのか分からない3人。
理解することを放棄して零の様子に視線を向ける。
「な…」
明らかにおかしい零の速度に美月は呆気に取られてしまっている。
(兄さんいま、60問目だったはず……難しいはずなのに、10秒もかけなかった⁉)
それどころか、さっきからページを繰る音が止まらない。絶えず聞こえている。
これが零の本気。美月が刺激してしまったことによって目を覚ました獣。
もはや同じ人間なのかを疑ってしまいたくなるレベルだが、それでも。
(さすが兄さん……そうこなくっちゃ!)
人間離れした力を見せつけられそれでも笑う美月。残り25問。
(ふっ、美月もさらにギアを上げたか…)
美月の解くスピードが明らかにさっきより一段階上がっている。
妹もあれで少しは加減していたのではないか、と笑ってしまいたくなる。
だが。そんなことは今の零にとっては関係ない。
(脳のリソースを全て問題につぎ込む…! もう余裕はない…っ!)
さらに感覚がシャープになっていく。ここまで来るともはやページをめくるその動作が億劫になってしまう。
刹那のうちに万を超えるパターンを想像し、その中で問題に会うものを選ぶ。
そうして1問1問、瞬殺していく。
(この勝負、勝たせてもらうぞ! 美月‼)
「なんなんだこの戦い…」
「目が回る~」
前半とは比べ物にならない速度で解いていく零と、零に追いつかれないように必死に逃げる美月。
だが、明らかに。
「差が縮まっていますね…」
雨宮の言う通り、見る見るうちに差が縮まっている。さっきまで20問以上もあった差は、もう10問もない。
「あとは美月さんが終わるのが早いか、それとも零さんが追いつくのが早いか、ですね」
美月は今90問目を解いているところ。
それに対して零は先ほど80問目を解き終わっている。
もはや4人ができることは祈ることだけ。零が勝つことを。
そのはずなのに。
「こっちまで熱くなってくるなー…!」
「ええ、はしたなくも昂ってしまいます」
こんなに白熱した勝負を見て、もはや勝敗などどうでもよくなってきていた。
4人が祈るのは零の勝利ではなくなっていた。
「もっと見ていたいなぁ」
だが終わりはもちろん来て。
「――終わった」
先に声を上げたのは零だった。
これで二人の闘いは一段落とさせていただきます。
ここからはいつも通り2日に一回のペースで更新させていただきます。




