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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
9/12

 古くなって、くすんできた家中の物に、いちいち文句つけ、あれはもう使えなくなりそうだ、これはもう買い替えたほうが安くつくとか、両親の懐事情もおかまいなしにいちゃもんをつけるチンピラみたいにエイコは、エイコのやり方で両親に甘えてみせる。

「そんなこというんだったら、お前が買ってこいよ。せっかく育ててやったのに、家に金も入れないで男としけこみやがって」

「そんなことしなくったって、今日の流行り具合をみたら、大丈夫だってことくらい分かるわよ」

「こいつぬけぬけと、ほら、晩酌しろ」

 父のコップにビールを注いでやりながら、「缶で飲めばいいのに、コップ洗う手間が省けていいでしょう」

「こいつは情緒の分からない女だな。わざわざコップに注いで、ビールの色見ながら飲むのがいいんじゃねえかよ。缶の成分表示やらアルコール度数が飲み応えをうまくしてくれるかよ」

「男ってめんどくさい」

 おまえは結婚できない女だな。父は娘の注いだ、泡の多いビールを、それでも文句も言わず飲んでいた。

 母がエイコにもつまみを用意しようかと訊いてきた。

「わたしはいい。寝にきただけだから」

「なんだ、男とこじれたのかよ」

「すぐ勘ぐる。やっぱり男っていやだわ」

 今日はやけに絡むな、と父は多少控えめになり、まあ、なんでもいいや、別れたって次があるだろう。おまえもまだみてくれで男を捕まえられそうだからな。

 エイコは、「お父さんがそうだから、わたしの男の趣味はおかしくなったのね」

 吐き捨てるように立ち上がり、お風呂お先いい、と母にことわり洗面台に向かう。

 母が後からやってきて、

「あんた妊娠したんじゃないの? わたしは別になんにも構わないけど、お腹が大きくなる前に式をあげたいんだったら、立て替えとくわよ。おとうさんには内緒でね」

「くれるんじゃないの? 」

「いやよ。老後の蓄えなんだから。ちゃんと返してもらうわよ」

「誰も金借りに来たわけじゃないから。それに式なんてあげなくったっていい」

「ふうん、それじゃあ妊娠は本当なのね。まあ近いうちにおとうさんにも教えてあげなさいよ。あの人こういうことってすねるから」

 エイコはやっぱり母と一番気が合うから、母と会話するのが気晴らしになる。帰ってきて正解だった。

「今度彼、連れて来るから」

 エイコはさっと洗面所の扉を閉めた。


 

 次の日、昼過ぎまで実家で過ごし、母にお土産の食料を頂いて、今日ムツオが帰ってくる日だから、ちょうどいい、今夜は豪華な夕食にしてやろうと考えて、アパートの階段を昇った。

 その音を聞いて、隣の部屋の扉が激しく開いた。トモユキが、手にメモ用紙のようなものを握り締め、お願いがあるんですがいいでしょうかと、いつものように、必要以上の謙虚さで話しかけてきた。トモユキの表情は差し迫ったなにかを背負っているような必死さが見て取れた。

 なにがあったのかは、普段の親子関係から大体想像はつくが、一応訊ねる。多分母親が帰ってくるまで待たせてもらえ、だろうとエイコは思っていた。

 トモユキは不登校になっていた最近の自分の事情と今まで母から貰い続けた、虐げられる苦しみを語り、母とはもう一緒にいるのに堪えられなくなったことを涙目で訴える。

 当ての外れたエイコは、気持ちを切り替えて、自分はどうすればよいのかと改めて問う。

トモユキはすでに児童相談センターに電話を入れていて、センターの職員から、誰か信頼の置ける人に頼み、こちらを訪ねることはできないのかといわれ、始めはムツオに頼むつもりだったが、まだ実家にいるから無理だと知っていたから、お姉ちゃんの戻ってくるのを待っていた、とエイコに告げ、一緒に行ってくれませんかと、おどおどした態度だが、真剣な眼差しでもう一度お願いしてきた。

 エイコは昨日実家に帰ったことと、のんびり帰宅したことが、急に申し訳ないことをしたような気になり、すぐに児童相談センターに連れて行くことを安請け合いしたが、その所在を知らないことに思い当たる。

 トモユキは住所を書きとめたメモ用紙をエイコに手渡し、母が帰ってくるまでにここを離れたいのだ、と強調して懇願する。

 トモユキの周到さに感心しつつ、大丈夫だからね、そういって手早く身支度を済ませ、念のためにトモユキにも着替えを用意させた。最悪一時保護される可能性のあることも考えたうえでのことだった。以前医療事務をやっていた時そういった親子が来院した際、同僚に聞かされた一時保護のことを思い出し、タオルや歯ブラシなどもバックに詰めさせる。母親が帰ってくるまでに家を出よう。

 エイコはトモユキの手を引き、センターへ向かうために駅に戻ろうとしたが、途中のバス停の時刻表を見てあと数分でセンター行きのバスが来るので、こちらにしようと二人はバス停に立ち待つことにした。

 立ち止まり待つという行為は、エイコの心内に少しの隙を生み、トモユキの手を引き出かけたのはいいが、と急に不安が起こる。

 トモユキの母はどう思うだろうか。わたしのことを逆恨みしやしないか、それでアパートに居づらくなりやしないだろうか、暴力がわたしにまでむけられることになっては、おなかのこどもの健康状態に差し障る。トモユキには申し訳ないが、わたしひとりの手には負えない問題のような気がしてきて、エイコの良心はしだいに萎んでしまい、いつバスが見えてもおかしくない忙しい状況で、トモユキと手を繋いだまま、

「ちょっと電話してみるね。向こうの人にもわたしのこと言っておかないと」

 トモユキの手を離し、手渡されたメモを見ながら携帯の番号を押していく。

すぐにつながり、センターの女性職員の甲高い、受け付け慣れした口調を聞いて、エイコは幾らかほっとする思いになれた。電話越しに人の良さそうな暖かさが感じられた。

トモユキのことを話すと、すぐにああ、あの子ですか、とトモユキからの電話を受けたのは自分だったことを告げ、おおよその事情は分かっていたので、エイコからはほとんど話すことがなかった。

 電話の向こうの女性がエイコの名を訊ねてきた。エイコはその言葉を遮るように、自分のことがトモユキの親にばれたりはしないのか質問を返した。

 女性職員は、はっきりと守秘義務は守られるものだから大丈夫です、と答えた。それからエイコを通報者として扱うことと、それによって聴取をとること、書類に記入してもらう必要のあることも説明してくれた。

「この子はどうなるんですか? 」

 それはまだなんともいえないです。

その言葉に自分とトモユキの救いを突き放され心細くなってくる。

職員の話の続きを聞く限りでは、母親と一時的に離れたほうがよさそうではある、と今の段階ではこちらにまずその子を連れてきて話を詳しく訊かないことには動きようがありません。またエイコの気がかりを拭ってはくれない答えが返ってきた。

 確かに一度も本人に会わない今の段階で答えを職員に求めるのは無理があると思ったけれど、エイコとしてはこの落ち着かない不安を治める言葉がほしかった。

 今そちらへむかっている途中ですので、とエイコは伝え、職員も大丈夫あなたのことも任せてください。匿名性は守られますから、と切り際に穏やかな声色を聞いて、励まされたようにエイコの気は軽く、普段の強気になれるようだった。

 バスの中で二人は立ち、吊り革をつかめないトモユキの支えにエイコはなってやり、トモユキは必死にエイコの腰のベルトを握ってきた。

 それを見ていたすぐ隣の座席に座っていたおばあさんが、「ぼく、ここに半分かけなさい」

 おばあさんは一人用の座席の、肘掛に座るように誘ったが、控えめなトモユキは、エイコのベルトから肘掛へと支えを移し、「これで大丈夫です。ありがとうございます」と上手にお返しの言葉を述べた。

 おばあさんはトモユキの礼儀正しいことと、その子を連れているエイコまでも褒めてくれた。

 わたしは親ではないんですよ。エイコが答えると、「あら、二人があるから、上の子かと思ったわ」

 言い当てられたことと、自分が母になっていてもおかしくない歳に見られたことに、年寄りの経験からなる洞察力の優れていることに、「何で分かったんです? まだお腹も目立ってきてないのに」

「そんなのは顔で分かるわよ。でも、初めての人には見えなかったわね。一人くらい産んでいそうな度胸がありそうな人だと思ってたから。気を悪くしたらごめんなさいね」

 エイコは片手を振って、そんなことありません。驚いて、嬉しかったくらいですから。おばあちゃんの初産はどんな風だったんですか。よかったら聞きたいんですけど。

 いかにも年寄りの話したがりらしい、そのおばあさんは、自分の遠い昔の腹の子を宿したことを、自分のは安産だったから、一時間もかからなかった。二人目の子は逆子だったから帝王切開をやったのだと、傷口の残った痕あたりをさすり、今はこんなには傷の残ることもないし、逆子も直せるらしいから、あなた達の年代の出産は生き死にの問題にはならないでしょうと、慰め出来る限り穏やかでいることを心がけなさい。

 腰をちょっと浮かし、降車ボタンを押し、ここいいわよ、どうぞ。

 そういい残し、バスの止まらぬうちから降り口へ座席を伝い向かっていった。

 おばあさんの温もりの残った座席に、エイコはトモユキを座らせ、自分はトモユキを周りから隠すように彼の横側に、誰もこの子を傷つけさせないとばかりに仁王立ちするよう、力強く立ってみせた。



 センターは思ったよりは人の少なく、受け付けであの職員の名を出し、すぐに別室へと通された。

 巻髪の、所々飛び出た毛を直しもしないほど、その職務に真剣なのだろうと思われるほど身なりに気を使わない、地味な紺色で全体を彩った四十過ぎほどのやせ気味の女性が二人の前に立ち、自分の名を呼び、よくきてくれましたね、とトモユキの頭を撫で、「もう安心だから、ちゃんと、おうちでのことを話して頂戴ね」

 それから、あなたもありがとう。よく勇気を出してこの子を連れて来てくださったわね。

 エイコは、それで自分は何をすればいいのか訊き、女性職員は、児童虐待通告書と書かれた書面を見せ、「もし、仮に虐待がなかったと判断された場合でもあなたがその責任を問われることはありませんから、その旨承知された上で、こちらにご記入なされてください」

 書面の一番下に、通告者の氏名と住所に職業、電話番号を記入する欄が当然ながら空白になっているのを目の当たりにして、

「本当に大丈夫なんでしょうか? 実はわたし妊娠中でして、そのもし度々家に連絡をされるようでしたら……」

 エイコの隣に座るトモユキが、ごめんなさい、と頭を下げた。

 エイコは赤面し、恥じ入ってトモユキを抱きしめてやった。

「わかりました。書きます」

 エイコはしっかりとした肉筆で記入欄へボールペンを走らせた。

 記入が終わり、トモユキとともに母親の虐待の様子を内からと外からの様子をともに語り、それが済むとエイコはすぐに返されることになった。これからのことはセンターが一手に引き受けるので、エイコに面倒が行くことはまずないという説明も受けた。不安がっていたエイコに女性職員は、あなたのことは秘密ですから、あまり深く心配なさらずにと諭され、恥ずかしさでトモユキへの挨拶もそこそこにセンターを出て行った。

 思っていたよりもあっさりとしたものだと呆然としていたが、女性職員のいっていた当分センターでトモユキを預かることになることを思い出し、最悪の場合他県の施設で育てられることになる、という一言がどうにも頭に残り、これが最後の別れとなるかもしれないと思うと、別れ際にもっと元気づけてやればよかったと、無性に涙がでてきて、今までどうして、優しく気にかけてあげなかったのか、そう後悔の念にかられ、センターの、肌色の壁で塗られた建物の奥にいる、トモユキの顔がもう一度みたくてたまらなく泣きじゃくり、自分の抱える不安と一緒に涙ごと流してしまいたい心情になった。


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