八
出産に関する知識を少しでも増やそうと、エイコは本屋で目についたものを摘み読みし、どれかひとつに決め、レジに持って行きたいのだが、どれが良いものなのかいまひとつ決め手に欠ける。
一時間も経とうとするその本屋に腰の痛みと、脛に痺れを感じつつ、とりあえずムツオにメールでも送って相談しようかと手を止める。
煮え切らない彼の返答が容易に想像がつく。本当にムツオとでいいのだろうか、と一人で部屋にいるとそういった不安に苛まれるので、自然とエイコの帰宅は遅くなっていた。
あの部屋に一人でいたら、出産は本当に正しいことなのだろうか、と思われてくる。ムツオにしっかりとした生活観を示してほしかった。頼りなさは優しさと一応の繋がりがあるのだから、女に対し手をあげないし、やかましくするわけでもない、外見に隠された優しさにいち早く自分だけが気づいたからこそ、自分がムツオを彼氏という対場に置くことができていた。
それは確かなものではあったが、初めての妊娠は、エイコをつねに不安な方へばかり駆り立てた。
感情が乱れ安定しない自分に戸惑い、無性に泣き出したくなる夜もあった。そんなそぶりは一度だってムツオの前では見せなかったのは、年上というだけではなく、なにか男に弱みを見せるのが躊躇われる性分からくるものだった。
エイコの両親は定食屋をしていて、時々エイコも仕事に借り出されることもあり、大人の汚らしい会話や、作法の、まるでこどもじみた態度を、何度も目の当たりにすれば、こどもの頃から大人というものをなんとなく、そういうものなのだろうと達観していた、同年代の子とは雰囲気の異なる、こどもであるのに世間擦れのする、大人びて見える子に育っていった。
結婚したら、こどもを産むのも当たり前のことなのだろうと、そんな風に他人事にしか考えていなかったが、いざ自分がその立場におかれると、それまでとは違う、現実の問題がエイコの精神を臆病にさせていった。
考えが感情と絡まりあって、心の身動きのとれなくなり、たまらず手にした本を戻し本屋を出る。
今日は実家に泊まろう。そう決めて、エイコは駅へと引き返しながら、実家への電話を入れる。
呼び出し音が五回、六回と鳴ってもうんともすんともいわれない。それでも店の事情をわきまえているエイコは辛抱強く鳴らし続ける。
はい、もしもし、と母が、こんな時間にかけてくれる客を嫌っているのが声で理解できた。
「あら、あんたなの。え、いいわよ。じゃあ忙しいからまた後でね、はい」
慌しく言い終わるとすぐに通信を切ってしまう。改札をくぐるより早く切れた電話も、この時間帯ならしかたがないことだった。夜の一番繁盛する時に娘からのつまらない電話など商売の邪魔をするだけだといつもなら割り切れるのに、ホームに順番待ちで並ぶ今はどうしても割り切れない気持ちが内心あった。
母に雑に扱われたことも普段ならどうということもないのに、今日に限って見捨てられ感がまといつき、しゃくに障る。
それでもあの部屋に一人でいるよりかは気も休まるだろう。駅前の本屋に寄ったのも、今更ながら、はじめから自分は実家に戻るつもりでいたことを予見してのことだと思われてくる。
ムツオとやった大喧嘩のことが脳裏をよぎり、あの時も実家で一晩過ごしたことを、わざと俗っぽく意味有りげに黙り込んでみせたのも、今にしてみれば、あれでムツオの気を惹こうとした自分が馬鹿みたいで、ムツオがそのことで自分のことを今も疑っているのなら、きちんと弁明するべきだったと省みたが、今更そんなことをしては却ってなにかあったような誤解をあたえるだけだと元の所思に立ち返ってくる。電車がエイコの髪を大きく乱れさせ、髪を片手で整え直し車内の座席に腰をおろす。
両親を眺めていたら簡単そうに思えていた結婚と出産が、これほどまでに重く圧し掛かる問題なのに、このうえさらに子育てといずれ職場復帰も考えなければならない将来に、エイコの心身は疲れ果て、降りるはずの駅を過ぎても眠りから覚めず、束の間の休息を続けていた。
実家の定食屋の明かりが落ちていないけど、エイコは、裏口まで回り勝手口から入るのは面倒で、店の暖簾を慣れた手つきで払いのけ、扉を控えめな音をさせ開く。
「おう、エイコちゃんじゃないか」
なじみの客の一人が、セミロングを明るめの茶色で染めた、時間帯に不釣合いな大人の女が、成長したエイコであることを目敏く言い当てると、店内に懐かしさのざわめきが起こった。
エイコはわずらわしい接客を出来ない性分だったから、知り合いのおじさんにするような、なおざりな返答で、今日は疲れてるの晩酌してあげたいんだけど、お母さんにやってもらってよ。
「あいかわらずぶっきらぼうだな、エイコちゃんは」
なじみの客は小学生の頃からそうした接し方で配膳を手伝うエイコを知っていたから、酔いも相まって、笑い上戸が勢いを増す。
今夜はエイコちゃんに会えた記念だ、もっと金を使ってやるからつまみも酒も追加だ、おやじ、と気前のよい態度をみせ、店内は閉店間際の、季節はずれに花火の、最後の一発を打ち上げたような活気にあふれた。かたわらにいた客の数人から、そのやりとりを感嘆する声があがった。