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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
7/12

七.

 友人は、仕事終わりの公務員そのままの格好で、ムツオを繁華街の人通りの寂しい路地に誘う。

 派手なネオンで飾られたビルの二階に初めて訪れたムツオは、背中越しに友人の、常連のニオイを嗅ぐような心地がした。

狭い通路に同じ間隔で鉄扉があり、その幾つかは半開きにされているにもかかわらず、室内からは人の気配がほとんど感じられない。代わりに濃い紫やピンクの視界のぬかるむようなぼんやりとした照明が、その場での出来事を秘することを、訪れる人々へ黙示しているようだった。

そこいらの扉から漏れている艶やかな照明の色を、誰彼に踏み散かされた汚い床に映す通路を、無関心に奥へ歩む友人の後を頼りない足どりでムツオは追う。

行き止まりまで来たところで友人が左手にあるドアノブをつかみ、ここだ、とムツオを振り返らず、おさえた声で室内へと促した。

「どうぞこちらへ」

 ぼうっと室内を眺めていたムツオの肩をこづき、友人は黒服のボーイに連れられ店内の中心部に取りつけられている、ひと際大きく見栄えのするシャンデリアの真下にある、オレンジの灯りに輪郭を暈しあらわにさせている、『コ』の字型をした革張りのソファにもう腰かける寸前で、せせら笑いムツオに手招きをしている。

扉のすぐ横に会計のカウンターがあり、案内係が二人いる。一人は友人を席へ案内しこちらへ戻ってくる途中だった。カウンターの奥は従業員の控え室らしく、黒いカーテンの隙間から、煙草を吸っている男の姿がみえた。じれったそうにもうひとりのボーイが中央の席を指しムツオに声をかけてきた。あわてて友人の方へ小走りにかけよった。

「はじめてだったか、こういう店?」

「いや、それよりユウキのところはいつもこうなのか? 」

 ムツオは、ユウキが遅れて来ることを友人からさっき知らされた。ユウキの工場は三交代制だから、そういう時もあるのだと友人は特別なことではないと言い伏せた。 

ボーイがグラスを置く際に指を滑らせ、テーブルとグラスがぶつかり、ムツオの神経を乱す音をたてた。それから眼をそむけるようにムツオは左右に視線を移した。似たようなソファとテーブルが窓ぎわに三組、控え室側に、二組の扉に近い席に友人とムツオが座っていた。

室内は狭く、客同士が顔をあわさずにすむよう互いに背を向ける設置ではあったが、入り口からのぞいた時は正面の窓ぎわの一席だけに三人の客がいた。あまり繁盛している様子ではなかった。

ムツオが居る脇の席は、客の帰ったあとのグラスやフルーツの皮だけ載った器を片づけるボーイの退屈そうな姿があり、それを友人に訊ねると、店の営業時間が十二時までだから、もうこの時間は客もまばらなのだと教えられた。

ムツオは携帯の時計で現在の時間が十一時を過ぎていることを告げる。ユウキの姿はまだ見えない。

「大丈夫、四十分単位なんだよ、ここは」

 友人が、五千円あれば充分だといったのはそのことか、そうムツオは尻に手をあて財布をジーンズ越しに確かめる。

「延長はできないけどな」

「別にするつもりもないよ。でも、おまえのお気に入りっていう子を早くみたい」

「だから客の少ない日と時間帯を選んできたんだよ」

 高校時代からの付き合いのその友人は、ムツオが専門学校に通っていた頃、ムツオの第一志望であった大学での生活を、月に一度くらいの間隔で会っては楽しそうに聞かせてくれた。

実家を離れた土地で唯一ムツオのことを知るその友人が、彼にとって救いとなり、ムツオの第一志望での大学生活を楽しむ彼を僻むこともなく、特別に通いたいわけでもなかった専門学校での二年間をムツオがなんとか過ごすことが出来たのは友人の助力なくしては果たせなかっただろう。

あの頃の自分はよく朝夕の新聞配達と専門学校の往復という荒業をこなせていたものだ。

それには父への反発という原動力もあったが、それだけでは成し得なかったに違いない。

ムツオの受け持った区間は朝刊が、スポーツ紙、英字新聞を含め三百部にもなり、夕刊でも百五十部を切ることはなかった。

専門学校から戻るとすぐに夕刊を配り、その後用意された夕食を済ますとすぐにチラシの折り込み作業にかかる。それから次の朝三時半には起きなければならなかったから、夜の九時には寝てしまうので、テレビにもほとんど関心がなくなった。

修行僧のような生活の潤いが、その友人とたまに会って飲むことだった。二人とも上京しすぐに酒を覚え、未成年の頃から記憶のなくなる感覚に憑かれたように酔っ払うことを楽しみとしていた。器用な友人と違い、気難しいムツオは、友人だけが“友”であった。

ムツオは感謝という言葉を彼に対しては口にすることができそうだったが、未だ言えずにいた。今更ながらに自分を“ガキ”だと恥ずかしく思われてならない。恥ずかしがることなどない。はっきりありがとうと言えばいいのだ、と心の中では強気になれるのだが。


ボーイに、友人が今夢中だというその子を指名してから数分が経つ。控え室と店内を隔てる壁に、ムツオたちは向かい合い座る格好になっている。その薄壁からすました笑い声とともに、カウンターの奥から女が二人、こちらへ近づいてきた。

ユリという名前の女が、二人の前に立ち、後からもうひとり女が来てムツオの隣に座り名刺を差し出した。その女は名乗らないで、ムツオの横顔をのぞきこむように頭を下げた。

「わかんない? 睦夫君」

 ムツオは名刺にある名前をもう一度みて、友人の方を振り向き、顔をしかめる。

「本名じゃないし、ちょっと無理かもな、こいつには」

 クラスが違ったし、と友人はそえ、その女の本名を気のない調子で早口に言った。それでもムツオは理解できずにいたが、高校時代の友人の彼女だということをてれくさそうな彼から聞かされ、ようやく学生時代のひとつの記憶に彼女の存在をみつけた。

 ミチと差し出された名刺にはある、その本名はユミコに対するムツオの印象は、友人をわがままにふりまわし、勢いのある、その頃のムツオには近寄りがたい、強気な女というふうだった。

ミチはいま、友人にだけ、くだけた話し方をしたが、ムツオにはいくらか遠慮がみられ、二人の間にミチが座り、三人の会話がはじまると、ユリという高校を中退したばかりのなれなれしい女は、とりとめのない話題で会話に入ろうと試みるが、そのつど三者共有の昔話に弾きだされ、そのうち諦めたらしく、せっせと水割りの氷にウイスキーを注ぎ空いたグラスをうめることに専念し、その合間に三人を恨めしそうに眺めていた。ユリがひとりごとのように、ミチの子供のことを訊ねると、その場から瞬間、笑いが消えた。

「うん、元気よ。お母さんになついちゃってるから安心よ」

 そういえば、睦夫君知らなかったわね、わたし二歳になる男の子がいるの。

 ムツオがなにも言わないうちに、悪いことでも吐き出すように一息で、三ヶ月前に離婚

してから実家へ戻り、子供のためにこの店で働きはじめた近況をのべ、少し間をおき、

「結婚はしないの?」

 そう訊かれ、ムツオはおもわず大声で抗議しそうになった。

「いや、まだ……」

 ミチは、ひと月のうちに常連となっていた友人から、あらかたのムツオについての最近の事情を会話のつなぎに聞かされていたようで、エイコの妊娠にさえ自身の経験からムツオへの批評まで加えてみせた。ムツオはあの浜辺で、懐かしさからしゃべりすぎていたことを今後悔した。

ミチのそれはエイコを擁護するもので、ムツオの立場など男の勝手な言い分でしかなく、論ずるに足りないという。

多少は離婚相手との混同がみられる点がいくつかありはしたが、全体的にムツオはそれを頷いて聞くことができた。それでも理屈にそぐわない否定的な感情を捨て去ることはできずに、エイコとの結婚を心配するミチの母性がみせる暖かみのある表情は、ムツオにとってはたんに現在の不安や恐れを煽るだけの効果しか生じさせなかった。

その後遅れて、汚れた作業着のままでユウキがやってきた。

久しぶりの再会をユウキは心から喜び、友人から聞いていたらしくエイコの妊娠も知っていた。

「結婚は大変やぞ。うちも一人ガキがおるけど、嫁と二人がかりでもかなわん。ガキの相手は疲れる」

 その表情からは辛さなど感じられない。男気溢れるユウキは性別を選ばず好感があった。

頼りがいのあるユウキを妬ましく感じることもあったムツオにしては、当時のユウキは自分とは対照的な位置に思われた。

毎日が不愉快でたまらないムツオは、他人へも不愉快さをばら撒いていた。自分のことを病原菌だとも弁えていたうえで、周りにも自らの不機嫌を伝染させていった。

そんなムツオに対してもユウキは彼に接する態度を崩さなかった。ムツオもユウキと友人だけには心を開き、親子関係の都合よくいかないことを打ち明け、慰められていた。

あれがなければ卒業まで自分は持ち応えられなかったかもしれない。ムツオはこの場で礼をいってもいいだろうか、二人は不思議がるだろうかと、もう酔いでふわりとする頭でそんなことを考えていた。 

 かけつけでビール中ジョッキ三杯飲み干し、次は焼酎に手を出そうとするユウキを友人がたしなめた。

「よかたい。久々の再会だもん、なあ秋山」

 ムツオは頷く。友人はわざと声高に、

「お前下戸のくせして、無理すんな。運ぶとはおれぞ」

「しったことか、嫁に向かえばたのむけん、よか」

 ミチがユウキの嫁の擁護をする。それにもユウキは堪えない。

三人の会話の流れから、ユウキの嫁は控えめで、男に身を置く女性であるらしい。今時珍しい、とムツオが口にする。

「そうぞ。うちの嫁さんは最高たい。よかぞ結婚は」

「お前、さっきと言いよることの違うぞ」

 よかよか、とユウキは客の少ない店内にしゃがれた笑い声を響かせる。

 それからこどものことも話し出し、自分は野球をやらせたいからと、もう幼児用のグローブとボールを買ったことも話した。

「去年産まれたばっかりで、気の早すぎるわ、こいつは」

 友人の言葉が、ユウキが来てから汚くなったことにムツオは気がついた。同じ速さで別のことにも気がついた。

 この土地の言葉を“汚い”と表現した自分を、ムツオは恥じた。なぜ“汚い”と感じたのだろうか、と今はそんなことを考えたくはないムツオは、気を逸らそうと、この土地の話題を二人から聞き出そうとする。

 ユウキは剣道のことを話し出した。ムツオの故郷は剣道、柔道が盛んで、中学まではムツオも剣道部に所属していた。

「なんが宮本武蔵か。あれはよそもんだろが、あれじゃなくてちゃんとおるだろが、地元の英雄が」

 ムツオは丸目のことだと分かった。それくらい、この土地で剣道をやっていれば一度は聞く名前だった。

「丸目蔵人介長恵がおるのに、なんでよそもんにたよるかなぁ、連中は」

「丸目は自分のこどもば殺しとるけん、ウケの悪かとじゃなかか」

「たんにマイナーなだけやろ」

 こどもに関連させ無理に方言で答えたムツオに、友人が素早く返した。ユウキがそれに噛み付いた。

「丸目がマイナーって? お前はなんも知らんとな。ムツオ教えてやれ、こんしったかぶりに」

 友人がムツオより先に口を開けた。

「お前のおかげで、おれも剣豪マニアになったと」

 ユウキが鼻で笑った。それには不愉快さは見られない。おそらくいつもこんな調子なのだろう、とムツオは自分がいつの間にかよそ者になっていたことを痛感させられた。


 店を出るとすぐにユウキの嫁がやって来て、酔っ払いに肩をかすのを友人が手伝い助手席に乗せると、ゆっくりと運転し帰路を行く、その優しそうな女性が、ユウキのような男をいかにも好みそうだ、とムツオが納得し、その後友人と二人で酔い覚ましついでに途中まで歩いていくことになった。

その間、友人がもったいぶってミチと付き合っていた頃の、ムツオにはどうでもいいような出来事を、不意に思い出したようにしゃべり、言い終わると黙り、また突然愉快そうにひとり面白がる。

視線は歩く方に注がれ話題も一本調子で、ムツオのことなどおかまいなしといった感じで続けている。

最初は適当に聞き流していたムツオも、あまりにも友人のしつこくこだわる様子に考えが移行し、ふと、あけすけな態度にまわりくどい性格を隠し持つ友人の性格に思い当たり、それでもいじわるく、アルコールで濁った黒目にほとんど瞼をかけ、友人の耳元で囁くように言った。

「彼女と付き合うつもりなのか」

 店を出てはじめて二人の視線がはっきりと合った。

「でも今度は子持ちだぞ、おれは別になにもいうつもりはないけど」

 立ち止まっている友人を追い越し、ムツオはエイコのことを考えないようにしようとすればするほど、よりはっきりと妊娠や結婚が差し迫ったものに実感されてくることを煩わしく、でもたぶんそうするしかないことも同じくらい身に感じていた。

 先ほどとはうってかわった友人への憤りの原因はそれにあった。

 他人の子をいとも簡単に背負うと言える友人の誠実さがムツオには当て付けに感じられてしまっていた。

 おれだって出来る、とはっきりとは言えない悔しさもあった。自分にはうわべだけなら演じきれるだろう。でもすぐに見抜かれてしまうだろう。以前の自分のように、父の自分に対する気持ちを敏感に感じ取れていた“感受性の塊”のようなこどもの眼差しで、自分の子も、父の“心あらず”に気づいてしまうはずだ。

 本気になって愛してあげなければいけない。そもそも自分のは、本当の子なのだから、友人とは違った容易さがあるはずなのに、友人よりも臆病になっている自分が、ムツオには悔しくて仕方なかった。

 どうすればこどもと共に生きていけるのだろうか……。恨まれることなく、成人したその子と飲み交わす日は、自分には訪れるのだろうか。

 良い父親のイメージがムツオにはなかった。

その欠落した部分を埋めるために、何を持ってすればあてがえるのかが分からなかった。

 どこまでも自己憐憫から離れられないムツオが、いっそ自らの命を絶ってしまえば、この因縁を終わらせることができる、と父から受け継いだDNAなどこの世に残してはならないような気がしてくる。

 後ろを振り返ると、俯き悩む様子の友人もまた、自分と変わらない若者なのだと、幾らか気分も落ち着いてくる。

友人の悩み考え込む姿は、今のムツオには、ほとほとありがたかった。


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