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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
6/12

 帰郷した翌日の朝は気持ちも沈みがちで、それまでに何度も繰り返してきた親子の確執が昨夜も失われずいたことを再確認しただけで、エイコに語れるような良い進展は全くなされなかった。

夕食の静けさに痺れを切らしムツオが、

「そういえば、ミイはどうした? 」

 母の箸が止まり、表情も曇る。

 その、ミイと名づけられた猫を父が拾ってきたのは、ムツオが高校に上がる頃で、会社帰りに車の窓から確かに、目も未だ開ききらぬほど産まれて間もない子猫がいたのだ、と父は必要に母に繰り返し話し、夕食後思い立って、その場所まで戻り、語った通りの生後間もない子猫を父が連れ帰ってきた。

 父にしては珍しい行動だったので、ムツオはその時の、

「今日からこいつを家で飼うぞ」といった父の笑顔だけは、良い印象をもった。それも子猫が成長し子を産むまでのことだったが。

 ムツオが高校を卒業するまでの時間に、ミイは七匹の子を産んでいた。

しかし、ミイが成長の過程で、テーブルの食べ物に手を出したり、壁に悪戯したり、床に毛玉を吐いたりするようになってからは、それを嫌った父が、外飼いをするようになった。

 七匹産まれた子猫達は成長しきらぬうちに全て家から居なくなってしまった。

 まず、最初の一匹が車に轢かれ道路脇に転がっていたのを母が翌朝見つけ、部屋飼いに戻そうと父に催すも、反対され、同じようにして三匹が轢死し、いなくなった。

 残った子猫の内一匹は父の知り合いに貰われていったが、最後の一匹は弱りきって、草むらの中に蹲っているのを、ムツオが連れて帰ってきた際に父が、猫は自らの死期を知ることができ、その時は死に際を誰にも見せずに逝くのが猫にとっても“誇り”なのだから、余計なことをするなとムツオを叱り、元いた草むらへ戻すように命じた。ムツオはそれに従わなかったが、やがて力尽きた子猫は家の外で短い命を終わらせた。


 そして、その儚い寿命を迎えた子猫たちを産んだ母猫さえ、父は最近、去勢をさせたらいいだろうと最後までごねた母の言葉にも、「去勢は、人間の傲慢さだ」と耳をかさず、ご丁寧にも車で、一時間も離れた山の中に放り捨てていたことを、母に前もって聞かされていたムツオが皮肉るつもりで、わざとその場で母に訊ねたのだった。

 無言という言葉が噛合い固く離れず、誰も答えてはくれなかった。

ムツオは父を挑発するために帰郷したのではなかった、と悔やむが手遅れなことは無言が証明してくれていた。

 黙っておふくろの味を噛みしめるムツオは、ミイと自分を重ね合わせ憐れんでやる。

いかにもこの男らしいやり方だ。自ら拾った生命に責任を持たず、あまつさえ去勢をさせることを、非人道的だと、自身の行いに矛盾した理由から拒み、かといって、保健所に連れていき、猫殺しの罪を自ら負うことからも逃げ、中途半端にその問題の核心ごと投げ捨ててしまう、そんな卑怯なやり方は確かに父にしかできない。つまりはこの男は卑怯者なのだ。

自分で産んだ子にすら責任を持とうとしない。そんな奴を父などという必要がどこにあるだろうか――。

今度はムツオの箸が止まる。

 自分も父と同じことをしようとしていた自分の行いに気がつく。

父と子の“輪廻”とでもいうのだろうか、そこから逃れなければ、自分の子も同じように父となった自分を恨むに違いない。おれはそうならないためにここに来た。抜け出してみせる。父と同じ人生を辿ることだけには、最後まで抗ってみせてやる。

エイコと結婚し、両親とは違うかたちで家族を築いてみせる。おれは同じ轍は踏まない。 

 そう誓い、自分の中にある“父”を殺してしまうことが必要なのだと、ムツオは改めて感じさせられ、箸が折れるくらいに力をこめ強く握った矛先を両親の目の前で、白米のど真ん中に突き立ててやった。


昨夜の出来事を思い返し、ムツオは母にも優しくなれない点があることも見逃しはしなかった。

 これほどまでに悩み苦しむ自分の、大きな問題の中心にある、父と子の確執を、母がまったくといっていいほど軽視するのは、ムツオには歯痒さの範疇を超え理解に苦しまれた。

父と自分がひとつどころに居ればどういったことが起こりうるか、つねに現場に居合わせていた母が予期できないはずはないのは疑いのないことで、あえて素知らぬふうを装うのも、ムツオにとってはなはだしいかぎりで、見破られるのを承知のうえで、できるだけムツオと父を近づけようとする、母の無策な愛情にも、うんざりしすぎているのだから、と母の思惑に沿うよう自身の態度を改めることはしてやれないほど、ムツオはその問題に疲れきっていた。

ムツオは実家に着いてからすぐに腹を下した。

 学生時代もその家の中でよく下痢をした。神経症の耳鳴りも頻繁になっていた。

それを二人に告げ、自分の神経が正常な親子関係を築ける状態にはないことを訴え、両親も素直にそのことを理解してくれるのならば、なにも他人行儀にそういったわるい兆候をひた隠すこともないのに。感情の激昂だけで父との接近を拒む幼稚な行動を飽きもせず昨夜もやりそうになったわけだから、ムツオとしては一度でも父親が、例の、相手のいうことをはじめから疑い怪しむ、あのしかめ面と会話の途中に見せる鼻笑いを、どうにか話の終わるまでは控えてくれる思いやりが息子としての自分にあってほしいと願ってやまない。

 しかし、今朝も相変わらずの不愉快さが食卓で起こったのは、めずらしく食パンを買ってきたことを喜ばしいことのように報告する母の、なにげなくムツオの近況を尋ねたことに発端があった。

 テーブルで食事をするのはどれくらい久しぶりのことかを訴えながら、忙しく手を休めない母が、ムツオのためにと買い置きしていた、未開封の紅茶の包みをわざわざ目の前で解き、以前の好みを今も当然続いているものとする母の、精一杯なやさしさは、父のそれとは異なる親子のきずなの縁切り難く在るのを目の当たりにした、ほどよい懐古の心地がムツオに素直な嬉しさを与えた。

「お父さんと二人っきりになってから、朝はいつもご飯にしたのよ。でも、パンもいいわね」

「そういえば、すぐに腹が減るからって、一時期和食に変えたことがあったよな」

「そう。でも、あんた朝からご飯は入んないからって結局やめたけど」

「胃がうけつけなかったから。むりに食おうとするともどしそうになったし」

「そうだったの? 気づかなかった」

 顔を近づけすまなさそうに、息子の成長をここぞとばかりに十代のそれと比較しようとする母親の目線がすぐに逸れてしまったのは、ムツオの頭上をかすめ背後に立っている父の無愛想のためで、その際母が不安そうにムツオへ、意味深な合図の一瞥を向けたのには、おもわず目をそむけてしまったほど、今までとは違った形に母の親しさが憎まれじれったく、父に声をかけ、向きなおってムツオの方から折れて、父になにかいいなさいと眼つきで促す母の装った会話を、ムツオは以前もそうしていたように、黙りこむやり方ではねつけた。

 父親はテーブルの上座にあたる椅子に手をかけ、そこに父が座ることは承知のうえで、あらかじめムツオは離れた場所に席をとっていたが、そのことで父が不愉快になりはしないか、それですべてのことをどうでもいいと投げ捨ててしまうおそれはあったものの、やはり父と距離をおくのが、ムツオとしても平常を保てるし、朝っぱらから畏まったりはしたくなかったからと、下座の向き合わなくてすむ側の席をとっていた。

 腰をおろし父はすぐに新聞を広げ、ムツオの視界を遮る位置から、

「まさかおれもパンじゃないだろうな」

「ちがうわよ、ちゃんとご飯も炊いてあるわよ」

「ならいいけど……」

 父は食事に関心がなさそうに、顔の前に広げた新聞の文字に偏執的な注視をやり、母の気忙しくする一連の動作に無駄がないほど洗練されていることにも、微塵の興味も抱いてはいないのだろう、とムツオが、これは本当に自分の父親で間違いないのか不安になっていたこどもの頃を思い出した。

 ムツオの幼児期に残る記憶の父は、母に関連したものにだけあって、それ自体では際立つことのない、母との思い出の挿話的なものにしかなかった。

 父は家庭内のもめごとが収拾の見込みのみえないような時は、帰宅の遅れることが頻繁になり、ムツオがそれを意味のないもののように扱うことはまずなく、むしろそういったことにこそ父の本性をほのめかす、ムツオにとって意味のある些細なできごとなのだからと、父とどうにかして接近を試みるべく苦心する当時のムツオは、しつこくそのことで父を問いつめた。

 はじめは適当にあしらうつもりでいた父親も、しまいにはいつものしかめ面をもってゆっくり、それでも確実に幼いムツオの深部を貫く無言の威圧に、こどもの彼は好奇心を体内に縫いつけられたように、感情を表立ってあらわすことをさせてもらえなくなった。

 ムツオが、父に近寄らぬようになってからは、いざこざも自然に消失していき、むしろ父が家に寄りつかなくなることを望むように考えが固まり、ムツオは母との二人きりの生活に、父の存在が不必要だとさえおもうようになっていた。

それも母が抵抗を示すまでの短い期間だけで、ある時から、よそよそしくムツオに接する態度を崩さなくなった母は、ムツオの行き過ぎた感情を危険なものと感づいたからだった。

 高校を卒業する半年前には、あとわずかな友達との仲を存分に利用して、今度はムツオがなかなか家に帰ろうとはしなくなった。

そのことで父に咎められると、腹立たしさは最高潮に達し、受験と両親とののつながりに苦心し目眩のするあたまで生活していた当時の彼は、母にまで見放されたと感じるようになってからは、素行が目立って悪くなった。 

親子のふれあいなどは求めていないと強がる自分を認めきれず、心の奥深いところでは強く求める自分との軋轢に堪えきれず、閉じ込めてはおけなくなったそれは、ムツオに猜疑心を植え付け、なんでも喧嘩のきっかけにした。

 ただ話しかける誰にさえ八つ当たり、些細な言葉の裏を勝手に読み違え噛み付いた。

そのうち親しい友人のほとんどがムツオを避けるようになった。理不尽な怒り方をするムツオは、周りの受験生にとって邪魔者でしかなかった。だれも理解してはくれない苛立ちは成績までも悪くした。そして父親との殴り合いでの別れ。

 受験勉強が嫌いだったわけではない、この家はそれが出来る環境にはなかったからだ、とムツオは受験の失敗を両親のせいにして、なんとか心の安定を図っていた。そして、そう思った。

 今、両親の片方が死んだとして、自分がすこしでも感傷的になれるような気がするのは、父が亡くなった時の、母の泣きくずれる姿に限ってだと。

 まだ椅子に落ち着こうとせずに、父とムツオのために朝食の支度をすすんでおこなう母が、あわれまれて彼の目に映り、一人残された母がこの家にどうして生活の目的を見いだそうとするのかを、自分はきっと他人事のようにしか悩んであげられないだろう。

 その場合、母が実家を自分とエイコに明け渡す代わりに同居を申し出たとしても、自分はエイコのような寛容な返答はできないだろう。エイコならば、母を受け入れる度量があるだろう。自分のような男でさえ包み込んでくれるのだから。

 そう考え、今更ながらにエイコの母性に自分は引かれたのだと再認したムツオは胸の恥ずかしい疼きを感じ、それ以上母のかいがいしくするのを眺めてはいられなくなり、それでも父の手前、食べないまま逃げ出すわけにもいかず、恥ずかしさと、まだ十代の頃の、両親への抵抗と、逃避と葛藤が死なずにムツオのなかで潜み、活動をつづけていたことを、憎き敵の生き残りのように止めを刺すべく、空想にうかぶ意識の中を、手と口だけは現実に置き、追いかけまわしてみたところで、現れては消える身の不確かなそれを完全に殺すことなどできそうもなかったし、その殺害方法をもムツオ自身考えあぐねていた。どうすれば、自身の内にある“父”を殺すことができるのだろうか、と。


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