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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
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 海沿いの家というものは、そこに憧れる人々の羨望なども、その土地に住み慣れると案外面倒ごとの多いことに気づかされるはずだ。常に海況の変動を気にし、そこに住む人々にとって無作為な自然の働きがいちいち神経に障る。

 道路一本挟んですぐに浜辺があるムツオの実家は、家の傷みが早かった。木造のベランダが潮風に腐敗し、結局また作り直すことになった際、建築業者が『錆びにくい鉄筋』にしましょうと勧めるのも聞かず、父は家の外観を重視して頑なに木造に拘った。実に父らしいつまらない拘りだ。

 そんなことを考えながらムツオは空港から市内へ向かうバスを実家付近で降り、そこからは海岸沿いを歩いて行くことに決めた。

 ムツオが、久しぶりの光景を脇目に歩き、今朝のことを思い返す。

 玄関先で、学校へ向かうトモユキに声をかけられた。親しみの込められたその声で、この間のお礼を述べ、普段着のムツオが大きめのバックを肩に掛けているのを不思議そうに、どこかへ出かけるのかと訊いてきた。さすがに目敏いな、とムツオが感心し、

「これから、実家に帰るんだよ。お土産買ってきてやるからな。田舎だから期待はすんなよ」

 この間トモユキの母親が菓子折りを持って訪ねてきた。そのお返しのことも考えてのことだった。

「いってらっしゃい」

 トモユキが鉄階段を鳴らし降りて行く。いってらっしゃい。その言葉をエイコもその日ムツオにくれた。

 トモユキとゲームをした日から一週間が経っていて、その間、エイコには自分と父の確執のことを説明し、まず自分一人で報告してくることを、なんとか了解させた。

 ようやく重い腰を上げてくれたのかと、エイコはその日からムツオを不安にさせるほど、優しく接してくれるようになった。

 七日間は同棲を始めた頃に戻ったような、新鮮さがあって、よく話もした。口数がお互いに増え、よく笑いもした。

 こんなことで展開が良い方へと運ぶのなら、もっと早くそうしていればよかった、とムツオが、自分の精神の未熟さを反省し玄関口で靴を履く背中に、エイコの激励の声が飛んだ。

「ムツオ、いってらっしゃい。がんばって」

 鉄階段の上から、学校へ行くトモユキのランドセルが跳ねているのが見えた。

ムツオも浜辺の、半分砂に埋まった石造りの階段を同じように跳ねて降り、砂浜へと踏み出した。

 ほどよく乾燥した砂浜は風もなく、そこから水平線を見渡せば、海洋タンカーや漁船が白波の尾を引きながら海上を横切って行く後ろに、普段なら霞がかる隣県の島がはっきりと拝めるほど、今日の空は晴れ渡っていた。

 ムツオは、エイコにまた以前のような感情を抱くことができたことを、本心から嬉しいと思えていた。

 たまたま、同僚に誘われた飲み会でのよくある出会いから、よくもここまでの関係になれたものだ、と安っぽい恋愛にしか捉えていなかった以前とは違い、最近のムツオは、二人の間には強い結び付きの“巡り会わせ”があったのだ、とその発見に悦び、穏やかで、前向きな居心地の良さをエイコから感じ取れるようになっていた。

 再びエイコのことを愛おしく思えるようになれたムツオ自身も、エイコに再び愛されている、と信じられるようにもなれていた。

 結婚と出産にも迷いはない。上手く運んでくれるはずだ、と固く砂上を踏みつけ決意を新たにするムツオのもとに、懐かしい友人の顔がこちらに近づいてきた。

 小学生以来の付き合いのあるその友人は、大学受験を失敗したムツオに最後まで、浪人生になってでも進学しろ、と言ってくれた。

 友人はムツオの第一志望の大学へ進み、帰郷しこの土地で働いていた。

こんな田舎じゃ楽しみは飲むことくらいだ、と友人は市内のほとんどの“飲み屋”を制覇したことを退屈の証しに、おまえも引き込んでやる。はまってる店があるんだ、今度そこへ行こう。

 そういってムツオに飲む約束を取り付けると、恥ずかしそうに足元の砂を蹴る。その友人の蹴り上げた砂の行方を目で追い、ムツオは学生時代と現在の、石階段の階数が違うことに思い当たった。

 ムツオが浜辺の砂の嵩が前よりも増していることを友人に訊くと、今夏にこの市にしては大規模な催しがあるので、浜辺に散らばるごみの全てを人の手でやっていては開催日に間に合わないから、もとあった砂の上に大量の砂を覆い被せて、強引にごみを隠したために嵩が増えたのだと教えてくれた。

「えらいさんもくるからって、あわててこんなことやったって、なあ?」

 田舎者はこれだから、せっかくの砂浜がだいなしだ。おれたちの世代がこの田舎を変えていかないと。年寄りの脳はもう修正がきかんから。

 そういきりたつ友人は、いつの日か、機会をみて市長にでも立候補してやろうか、とそれは冗談だから、とすぐに取り消す。

 ムツオは、それは彼の本心であると理解していた。本来、生真面目な彼だから、真剣にこの土地の行く末を考えているのだろう。それに比べ、ムツオは自分の人間の小ささに恥ずかしさを覚えた。この土地の将来を真剣に考える彼の前では、自分の抱える問題が些細なことのように思えてしまうと。

「こんど陶器市をやるから、よかったら来てくれよ」

 ムツオの市は陶器の窯元が多くあり、陶器はこの土地の特産品の一つでもあった。友人は、せっかくの特産品も年寄りのアピール不足でいまひとつ認知度に欠けると憤慨し、

「おれたちが率先して行動を起こさんと何にも変わらん。じいさんどもは保守的でいかんし、おっさんらは安易に都会に迎合して、テレビ見て二番煎じの町興し企画立てよる。  

 去年、下嶋建設が上場したって喜んどったけど、あの連中は、株式上場がステータスだとまだ信じとる。東京には無理やけん、千葉とか、岐阜あたりに支店ばだそうとしとるって話も聞くけど、なんで地元を大事にせんかな、あいつらは。

 西野鉄工も、いまさらISO取得したけど、金で買っただけで、毎週の会議もしとらんし、作業場でヘルメットの首紐絞めとらん奴もおる。規定なんて守っとりゃせんわ。ユウキがあそこで働きよるけん、よう愚痴聞かされるわ」

 同級生のユウキは父が自営業で鉄工所をやっていたため、小学生の頃から、おやじの後を継ぐ、を口癖のように言っていた。

 高専で五年間学び、父親と二人三脚で最近まではうまくやっていたが、父親が仕事中事故に遭い、今も市内の病院から出られない状態なので、鉄工所をやむなく閉めたのだということを友人はムツオに語った。

「ユウキはしかたなく働きに行きよるけん、上司とようけんかしてくる。そん度に飲みに付き合わされると」

 ユウキは父親のことを慕っていた。冗談でも悪口を言えばむきになって飛びかかっていくほどだった。学校帰り、父親を馬鹿にされ、四対一でけんかをしているユウキの、荒ぶり、ランドセルを振り回す勇姿をムツオは思い出していた。父を慕い、後継ぎを目指す人生を迷いもせずに自ら選んだ彼をムツオは羨ましくも思っていた。ユウキの父もムツオにやさしく接してくれ、この家の子になりたい、と言ってみたこともあった。ユウキの父は、

「じゃあ、ムツオも工業高校に進学してもらわんとな」と冗談まじりに答える。

 ユウキの父の子供に本気でなりたいと考えていたムツオは、やんわりとした拒否を子供ながらに感じ取り、ユウキの父に対し、その後それを口にすることはしなくなった。

「ユウキにも連絡してみるけん。三人で飲もうや」

 ムツオの知らぬ間にこの土地も変化しつつあった。彼らに随分と差をつけられた、とムツオが並んで砂浜を歩く友人の横顔を見つめ歯軋りする。こいつは大人の顔つきになっている。学歴だとか、そんなものではない差がついたのだ、と嫉みをともなって。

 砂嵩の増した浜辺は時々足元深く沈んでいくような感触があった。まだ新しい砂が所々に入り混じっているのだろう。


 浜辺から歩道に上がり、再会に満足した友人は反対側の歩道へ渡った。こちらに手を振る友人の去っっていくのを確かめ、感傷的になったムツオが、潮の微かな匂いを鼻孔に感じているその海岸沿いの、舗装のまずいデコボコの歩道を、大型の犬に牽引されるように手綱をとられ、たるんだ腹を大きく跳ねながら走る父親らしき男の後を、かわいらしい駆け足で女の子が追って行く姿が見えた。ムツオはその場に立ち止まり、懐かしい光景を思い出すような心地でそれを眺めていた。


 ムツオが、実家に辿り着いたのは夕食前で、母の玄関先に出て待っていてくれたことには少なからず心の暖かく、故郷を懐かしむ類いの感情になれたが、居間に用意されていた夕食の場に父の無愛想をみつけると、ムツオは自然に子供の頃の窮屈さが蘇ってきた。

 ろくに挨拶もせずに二階へ上がり、学生時代の唯一の落ち着ける場所だった六畳間へ向かう階段のきれたところで立ち止まり、違和感を覚え室内を注視した。

 そこにあるはずの学習机がないことは階段越しからでもはっきりと分かった。学生時代は狭かった空間が今は広く感じられ、その瞬間、ムツオは部屋から拒絶されている、とやはり一筋縄では行きそうもない父との確執の根の深さを再確認せざるをえなかった。

 自分の縄張りを懐かしむと同時に、他者の異臭を嗅ぎつけたような、相反する感情が一度に襲いかかり、この家にはもう安息を与える場所はどこにもなくなってしまったことをムツオへ伝える室内の模様替わりに、両親の、とりわけ父の、ムツオへの思惑が覗かれた焦燥感に付け足すよう、冷えた汗の小玉が背筋をなぞる。

 まだ記憶も不確かな幼少期の夜にこの階段から転げ落ちたことをムツオは思い出した。何をしたかったのか、当時のムツオが階段ぎりぎりにつま先立ちでいるというおふざけをしていた際、足を滑らせ後ろ向きに階下へ落ちていった。突然のことに痛みも感じず、まず父と目が合った。

「夜中にうるさい、早く寝ろ」

 確かに父はそう怒鳴った。ムツオは右腕を骨折していた。父の自分に投げつけた言葉を母に訴えれば、

「そんなことお父さんが言うわけがないでしょう。あなたはまだ小さかったから、記憶が曖昧になっているのよ」

 母はどこまでも、家族のきずなを疑わず信じる人であった。それが当時のムツオには、母が、父に肩入れしているように思われ、一人怒り出すムツオの心中を察してはくれず、きまって母は、

「何が気にいらないの? お母さんには分からないわ」

 自らの口から言いたくない、気づいてほしいから、親ならば、とムツオが黙り込めば、母はますます自分の息子は生来から難しい性格なのだと決め付けるばかりだった。

 この階段も憎らしい、とムツオが洞穴のような暗がりの階下から吹きあげてくる冷気の出処へ、憎悪を込めた一瞥をおくってやると、そこから母の快活な呼び声が返ってきた。



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