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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
4/12

 その日はエイコの帰りが遅くなることが前日に分かっていたので、ムツオは弁当を買い一人簡単に夕飯を済ませていた。

 夕飯時にエイコの姿がないのは久しぶりだった。結婚を渋るムツオに対しても、エイコはなんだかんだいいながらも、夕飯の支度を行い、時々、気の利かないムツオに八つ当たりをしたが、エイコのムツオに対する気持ちは依然として一途ではあった。

 一人で部屋にいるとエイコの小言が聴かれないのが寂しく思えることもあった。

同棲が一ヶ月目を迎えようとしていた頃にやったケンカの後、エイコが初めて外泊をした。

 次の日夕方遅くまで、丸一日帰ってこなかったエイコにムツオはしつこくどこに泊まったのかを追及したが、彼女は友達の家に、としか言わず、その内容もひどく曖昧で、エイコ自身歯切れの悪い返答しかできないことのもどかしさに我慢できず、感情的に理屈の通らないことでムツオを逆に責め出し、しまいには泣きだし強引に追及を逃れようとする。

あわてたムツオが、気まずいままにさらなる追及を怠ったのがいけなかった。  

 あの時、エイコはどういう心境で答えを濁したのか、真実をムツオは知らされず、しこりを残したままでいたため、ふたりの関係には急速に倦怠が訪れた。 

 そんな時期に妊娠のことを聞かされても、引き際を強引に呼び戻された驚きに茫然とたちつくすことしかできなくて、ムツオはああいう煮え切らない態度しかとれずにいた。

 二人の付き合いは一年を越えていた。ムツオがその間に、三つ年上のエイコとの結婚を考えたことがなかったわけではないが、ムツオにとってそれは想像の枠内でのことで、普段のじゃれあいで使う言葉程度でしかなく、本心でエイコとの結婚を望むようなことはありえなかった。まして自分の子供など作るつもりはもうとうなかった。

 情など微塵もよせつけない非情さで中絶手術をうけろ、とわがままを前面に圧しつけられたらどれほど晴れやかな気持ちになれるか。

 エイコとの同棲をこれ以上できないのは、ムツオ自身、彼女に幾度となく必要性を探した末に、もう快楽しかないと結論づけ、不毛な性交をいろんな趣向で何度も強いても、以前と同じ快楽さえエイコからは見出せなくなっていたからだった。

がむしゃらにエイコとの関係に必要性を求めSEXをした結果、ゴム無し、というムツオが望んだこととは逆の結論がでてしまった。

そして妊娠……。

 結婚を躊躇い、自分の子供を持つことを嫌うムツオがゴムなしでの行為にすがりついたのは、ムツオ自身無策すぎた、と今更後悔しても遅く、彼女の存在とこれから産まれてくるであろう子供はムツオには重荷でしかなかった。自分には二人分の人生を背負える度量などありはしない、と悲観さえして。

 エイコと胎内の子に消えてほしかった。同棲を終わりにしたかった。最近のムツオはそんなことに夢中で思考を馳せていた。

 でも、世間体に足を止めてみると、それがどんなに身勝手な行為かを知らないほどムツオは無教養ではなかった。

道徳にやかましかった父親に叩き込まれた、世間への配慮という考え方は、容易く出産する同世代の若者とは違い、中途半端な学力から蓄えられた知識や道徳観がムツオの出口の邪魔をする。自分にもあいつらのような短絡さがあれば、と厳格だった父親のことをまた憎む。

 悪いことは父親のせいにしてしまえばいい。あれが父親であったばかりに自分はこんなことで苦しんでいるのだ。

その為、未だ別れ話さえそのきっかけをつかめずにいる。次はエイコへと矛先が向かう。なぜ、おれの苦しみを理解してくれないのか、と。

おれはお前達のせいで縛られたんだ。どうしてお前達の方から、おれの苦しみに救いの手を差し伸べてくれないんだ。

そう彼等を責めたててやりたいとは思っても、それが成しとげられないのは、ムツオの心底に深く刻まれている、父親の“しつけ”にあるということを彼自身が自覚しているからにほかならなかった。

 その“しつけ”が表面に浮かんでこないよう、意識的な努力を強いてはいたが、たいして役にはたたず、仕事中空想の中で、残虐な仕打ちで父親とエイコを懲らしめている自分に気がつけば、はっと驚き手を止めることも少なくなかった。ムツオはよく親方にそのことで注意を受ける回数が増え、叱られることに未だ慣れないムツオのプライドが、こんな底辺層の仕事など辞めてしまえ、と訴える。


 扉をたたく音に意識が現実へと移り、テーブルの下で拳を固め、空想の中で息巻く自分をそこへ置き去りに、ムツオはあわてて玄関へ返事をやる。

「……すみません……となりの高橋ですけど、鍵を……忘れて、お母さんが……帰ってくるまで、待たせてもらえって……」

 トモユキが、半そでと半ズボンの制服だけで寒そうに膝を擦りあわせ、扉を開けた時よりも深くおじぎをした。

 まだムツオがなんとも言わないうちから、もう室に入れてもらえるものと判断したのか、片足を半開きの扉の内側にかけトモユキが上がりこもうとするのを、ムツオは反射的に体を傾け防いでしまった。

 トモユキのおどおどした態度がそうさせた。そのまま無言でいると、ムツオが声をかけるまでその場におとなしくしているトモユキを憐れむことができたのを確認してから、ムツオが室内へと促した。脱いだ靴の向きを直し丁寧に揃えるトモユキに、ムツオは自分と同じ類の“しつけ”の匂いを嗅ぐ。

 ムツオはトモユキに虐げられる人間の特性を認めていた。学校でも虐められているに違いない、と勝手に決め付け、ムツオの胸中にもむず痒い高ぶりが湧きあがる。

怨みもない相手に対し、こいつを虐げてやりたいという理不尽さはそんな時に起こるものだ、とムツオもかつてクラスメイトをいじめ、また自分がいじめの対象にされた過去を思い出す。トモユキは嫌な思い出ばかりをムツオの脳裏に蘇らせた。

 鼻をすすり、エイコのイスに座るトモユキの足先が床に届かずに震えていた。

今し方入れたばかりのポットのお湯で作ったコーヒーに、ミルクと砂糖をたっぷりと馴染ませるようにかきまぜトモユキに差し出す。

「熱いから気をつけて飲めよ」

 砂糖は足りたらしく、トモユキは苦い表情を見せなかった。ムツオが、

「これも食べろよ」と食後のデザートにと買っておいたカップケーキをトモユキへ与えた。

 申しわけなさそうに、すみません、と呟く臆病なトモユキに、ムツオの支配欲は助長し、テレビ台の内にあるゲーム機の電源を入れる。コントローラーを二つ、ソファのあるテーブルに置き手招きする。

「サッカーゲーム、できるか?」

 冷えきった口内の粘膜を刺激され、ちびりちびりと用心深く口をつけコーヒーを飲んでいたトモユキの瞳の内が大きく開いた。

「それ、やったことあります」

スプーン大盛り四杯も加えた砂糖の甘ったるいコーヒーを両手でしっかりと握り、トモユキもソファのあるテーブルへと移動する。

 サッカーゲームは、ムツオの得意なもので、トモユキの操作が初心者並だと分かると、先取点を取り、力の差を見せ付けた後、多少てこずる演技をしてから、トモユキにも点を取らせてやると、最初よりかはトモユキの心もうちとけた様子で、子供の無邪気な喜ぶ姿は、ムツオの邪心をほぐしてくれるようだった。

 しかし、親しみをすぐに通り越しあつかましさを隠しきれなくなったトモユキが、カップケーキの欠片を床へこぼしても気づかずゲームに夢中になっていることで、ムツオがそれに気が障り、あの母親の怒りはおそらくそういったところに原因があるのだろう。そう考えると、ムツオには母親の、トモユキを毛嫌いするのも少しは納得できた。

「ほんとおまえの母ちゃん悪い奴だな。おれだったら絶対殴るな、あんなにうるさくやられたら。おまえ、なんで反抗しないんだ? 内心頭にきてんだろ?」

 唐突すぎたのか、トモユキはなにも答えなかった。ムツオがストップボタンを押して訊ねる間、トモユキはコーヒーをすすっている。もう冷めてきたのか、ちびちびとは飲んでいない。

 そのしぐさの奥にある、隠そうとする意志をムツオがつまらないものだと嘲った。

「おまえの母ちゃんの大声がいつも聴こえてくるんだよ。全部知ってるよ」

 トモユキが意外だという風にムツオを見つめる。そのままの姿勢でかたまり、何かを言い渋っているようにも見えた。

「好きにやればいいんだよ、あんな母親なんて邪魔だろ」と、力ずくなら男の方が――、そういいかけトモユキの、全身が細くできた肉の足りない体では、女といえどあの母親を屈服させることは無理かと思い直して言葉をそこで漂わせたまま、トモユキの反応を待った。

「……あたまにはくるけど……」

 カップのふちから口を離さずに、息をつぐわずかに唇を動かし、ようやく一声を発した。

 脳内で、励ましの言葉でもかけてやろうと、ムツオが半端な学力で気の利いた言葉を構築しようとしても、出来上がった文句はどれもいまひとつ極まりに欠ける。

 壁掛け時計の針の行方はムツオの焦りを煽り、はやく、はやく、言ってやれ、と急かす。

ムツオはゲームを再開しようとだけ言い、それからは二人ともテレビの画面だけを見て指先を動かすだけだった。

 コントローラーのボタンがカチャカチャと室内を賑わす。ゲーム音の歓声の中、ムツオが追加点を決めた。

 首を左右に動かし自分を責めるトモユキに、あの母親でもいないと困る状況に陥ることを子供ながらによくわきまえているらしく、母親の悪口は言いたくても言えないのだろう、とムツオは考え、実際子供一人では生きてはいかれないのだから、どんな親であろうとすがりつくしか道はないのだ。


 ムツオは、どうすればスルーパスがうまく出せるのかを実演して見せる。そしてさらにトモユキから点を奪う。トモユキも焦れてきたようで、むきになって教えられた通りにパスボタンを押す。フォワードに渡ったボールを奪い取るのは簡単だったが、ムツオはわざとシュートコースにディフェンダーを向かわせなかった。トモユキが二点目を取った。ゲーム内では、彼を褒め称える実況が流れ、トモユキはガッツポーズをしてみせた。ムツオが「今のは良かったよ」と手をたたく。誇らしくガッツポーズをしているトモユキの顔にはもう恥ずかしさは見られない。

 玄関が開いたのも気づかずムツオ達はゲームに没頭していて、エイコの“余所行き”の声に、トモユキが先に反応し、お邪魔しています、とお辞儀する。

 エイコの機嫌は良いようだ。ムツオに、

「子供にコーヒーなんてだして。ミルクティーでもだしてあげたらよかったのに」

 そういって、トモユキに苦くなかったかと訊いている。エイコは笑顔を崩さない。

 トモユキが甘くておいしかったです、と答えると、ムツオが経緯を話す。

「じゃあ、夕飯も食べていったら? わたしもこれからだから。ムツオはもう食べたの?」 

 エイコの発する言葉には嬉しさが含まれているようで、付き合い始めの甘ったるい心地にムツオを誘う。ムツオはトモユキに母親の帰宅時間を確認し、まだ時間があると分かり、エイコと一緒になって食べていけと勧める。

 トモユキもうわべだけの抵抗で、本心では期待していたらしく、すぐに折れ、わかりました。ご馳走になります、と深々と頭を下げる。

 さっそく準備に取り掛かるエイコを背に、ムツオとトモユキはゲームを続ける。これが、家族なのだろうか――

 おれが父親だったなら、ともし自分がトモユキを育てる立場だったなら、うまくできるだろうか……。 

 共働きで、トモユキは自分達よりも早く家に帰ってきて、ゲームでもやって夕飯までの時間をつぶしている。そうして、エイコがまず帰宅して、夕飯の支度を始める。エイコとトモユキがなにかしらの会話を交わしている時に、ようやく自分が帰ってくる。

 トモユキは自分を急かす。早くゲームをやろうと。夕飯が出来上がるまでトモユキと遊んでやる。父の威厳を保つため簡単には勝たせてやらない。たかがゲームであっても。

負けて悔しがり、それでも食い下がり、むきになって自分に挑んでくるトモユキをあしらうようにさらに負かしてやる。 

 その光景を微笑ましく名残惜しそうにエイコが「トモユキ、もうごはんできたから、明日またやりなさいよ。お父さんだってお腹空いてるんだから、ね」

 食卓のテーブルを三人で囲み、ゲームの話で盛り上がる自分とトモユキのごはんをよそいながら、エイコも会話の間隙を狙って話題に入ってくる。また成績の話か、とトモユキがうんざりする。トモユキはちゃんと勉強してるから大丈夫だよな、と自分が頭を撫でてやる。

 男同士の結束にやきもちをやくエイコの表情さえも夕飯の添え物のように鮮やかに感じられる。

 その食卓には確かに自分が本当にほしかった“家庭”というものがあるに違いない。

そんな未来なら結婚も良いものかもしれない。

うまく父親になれるだろうか……。

 自分の父親との仲さえ険悪なのに、自分の子供とまで確執が起こる“板ばさみ”にあうような人生だけは避けなければ、とムツオが自問自答を繰り返している間もコントローラーはカチャカチャと音をさせていた。トモユキが同点ゴールを決めてはしゃいでいる姿が、ムツオに実家への報告へ向かうことをようやく誓わせた。


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