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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
3/12

 二日連続で雨は降り続き、昨日の仕事はタカアキの予想どおり、たいして作業もはかどらず昼前におわった。

 昼飯も食べず引きあげるムツオ達を呼び止め大工が、早く足場を組んでくれないとこっちの仕事にひびくと、来月中には建て終える予定になっていることをしきりに口にだし咎めた。

 建築の完成予定というのは大工のもっともな言い分ではあったが、この仕事にまだ慣れていないムツオには、さして問題にならなかった。どうせいつまでもそこで働くつもりもないのだし、足場を組むだけが自分の職域であって、大工や左官の仕事に支障をきたそうが、自分はひたすら足場さえ組めば給料を貰えるのだから、それでいいと考えていたので、とくに偉そうな物言いの大工には、私情からくる嫌悪感もあり、何を言われてもとりあわないようにしていた。

 ある日、二階から金づちが落ちてきた際にも、それがあの大工の醜くたるんだ下腹にまかれた釘袋からこぼれた物だと分かると、頭上から薄毛の下の、赤く日焼けした皮膚を照らした大工が、ボウズ、すまん、投げてくれ、と何度声をかけようが、傍で見ていた親方に命令されるまでは、大工の握った金づちの柄を、ムツオが自らの意思で握ることはなかった。

 それからは大工の方でも、ムツオを嫌っているかのような態度を隠しもせず見せていた。

 その大工の顔を今日は見なくてすむのだと思えば、普段なら塞いでしまう雨音にも、隣に住む親子の、母親が十歳になる息子を叱りつける大声ほど気にならないでいられた。

 二部屋ある六畳間のベランダ側をムツオの自室としていた。そこはちょうど隣の住人が居間に使っているらしきところに、壁一枚で接していた。壁はセメントで固められただけのもので、さわると光沢のある砂利が指に残り手抜きのようにもみえるのが、築四十年と聞けば納得もできた。そのセメントの壁をやすやすと突き破り、隣の住人の罵声はムツオの耳にはっきり届いてくる。

 隣の三十六歳になるという母親の気違いじみた叫びが昼夜問わずに行われることを知っていれば、いくら家賃が安いからといってもムツオは引っ越し先にそのアパートを選ばなかった、とエイコと二人悔やみもした。

 エイコの話によると、隣の住人は病院の事務をしている母親と、小学四年生になる息子の二人暮らしで、夫と離婚して二年が経った現在では子供を引き取ったことをひどく後悔するふうなことを、買い物帰りのエイコに玄関口で長々と漏らしたことがあったらしい。

 ムツオはその隣人を密かに毛嫌い、冷淡な態度を守っていたが、十歳の息子には比較的好意を持って接することができていた。それには同情が大半を占めた感情がこめられていたからで、その男の子のためにと、仕事帰りにお菓子を買ってきたことも何度かあった。

 ただ、ムツオにはその親子を理解できないところがあり、その一つには、十歳の男の子は言葉も丁寧で、敬語を無視して喋るムツオやエイコにさえも、その年齢に似つかわしくない丁寧さを表し、お菓子をあげた時にそれは際立ち、おおげさに頭を下げ、ありがとうございます、と早口に部屋へ走って行く。それほどに、他者の心を不快にさせない術を身につけているその子が、こと母親とのコミュニケーションの場においては、ただの“こども”に成り下がってしまうことが、ムツオには理解しがたく、おそらくは母親の気紛れにつきあわされただけで、子供には非はないと結論をつけ、おまえ、最悪の母親に当たったな、と言って男の子をなぐさめたりもした。

 常に母親の機嫌に鋭い感覚を保持するその子が、毎日のように母親の神経を逆なでしている現状も、ムツオには不思議でならなかった。何度も同じ理由で、母親が怒っているのもムツオには不可解であったし、敏感な男の子がいつまでも母親の気持ちを感じとれないはずはないから、そのうち母親も叱る理由が尽きて、夜中に男の子の、ムツオの胸を締めつけるような、細く泣きじゃくる声も、いずれ聞かれなくなるものだと放っておいたが、いまだにそれはおさまることがなかった。

 その得体の知れない母と子の関係は、ムツオには全くの他人事にはならない理由は、充分彼自身も理解していた。

ムツオは、それを思い出すと、憎らしさが勝り、彼を冷たくあしらうこともあった。

 外階段で男の子を見つけても、いつものような、同情からの優しさは影を潜め、無関心を装い階段を降りて行く。

 男の子も、ムツオの不機嫌を察知すると、いつもの挨拶が出来なくて、じっと階段の中ほどに立ち止まり、何事もなくムツオが通り過ぎていくことを祈るふうな眼差しをおくるのが精一杯らしく、ムツオの姿がなくなると、安心して自らも鉄製の階段をカッ、カーン、と踏み鳴らしていった。その鉄製の階段が今同じように響くのをムツオは聴いた。玄関の鍵穴をこねくりまわす雑な音がした方を、意識的にムツオは振り返らなかった。    

 雨音がうるさくなってきた。

 買い物袋を片手に提げたエイコが、ムツオの在宅は予期していたとばかりに、一言もなく夕飯の準備にかかった。

 ムツオは、もしかしてエイコは自分の分を作っていないのでは、と臆測をめぐらせ台所へやってきた。

「今日、メシなに?」

 エイコが透明の袋から惣菜を盛った一パックをテーブルに置き、巻き寿司のパックを二個つかみ、ひとつをムツオに渡した。

「これでいいでしょ? 働いてないからおなかも空いてないだろうし」

「掻き揚げもふたパック買ってくればよかったのに……」

「じゃあ買ってきたら?」

「そういう言い方するなよ、傷つくだろ」

「なに甘えてんのよ、もうすぐ二十三になるくせに、きもちわるい」

「二十三歳はまだこどもだろ」

「ダメよ、絶対にそんなこといわせない」

 ムツオは言葉につまり両手に握られた巻き寿司のパックのラップを無意識におさえていたので、中身が指の分だけつぶれてしまった。

「何種類か、太巻きを用意してあるんだな」

 それで話題が変わるとはことさら考えてもいなかったが、やっぱりエイコの不機嫌は消せなかった。

「なに? なにがいいたいのか分からない」

「いや……、ほら、ひとつのやつを切ったんじゃないんだ。サラダ巻きと、カツが巻いてあるのとキュウリの、最低三種類はあるんだ――」

「……それがどうしたのよ、……はぁ、もう、わかってる? わたしはこれからどんどんおなかが大きくなってきて、仕事だってそのうち休みをもらうことになるんだから。ここんところ体調だってあんまり良くないし。だから家事とかできなくなったら、ムツオにもやってもらわなきゃいけなくなるのよ」

 それくらいのことにも頭がまわらないのは、これからのことを真剣に考えていない証拠だわ。その時は絶対に家事をやってもらうから。

 そうエイコは吐き捨て、ラップをはがす手を止めず口だけはムツオを窘めつづける。

 飲み物もなくムツオは急いで五つの巻き寿司を口に詰め、まだ消化しきれないのをほおばり自室へと逃げこんでいった。

「――逃げんな――」

 エイコかと一瞬ドアの方を向いて、それは壁むこうのあの母親のものだと分かりムツオは壁際に聞き耳を立てた。

「――トモユキ――おまえのせいで――」と母親のトモユキを責めたてる奇声が伝わり、いつもの喧嘩か、とムツオはぼんやり壁にもたれ、そこらじゅうの音を無防備に受け入れるやりかたでそれを聴く。

 ――あんたを引きとらなかったら別な生活もあったのに、わたしはあんたのために仕事してるんだよ。でも、あんたはわたしにありがとうとも言わないじゃないか、掃除くらいやるのはあたりまえじゃないか、どうして考えつかないんだ、それくらいのことが。足を引っぱるだけならいらないんだよ――。

 だいたい母親はそんなことを、二時間ほどかけて延々と、ようやく怒りがしずまったかと、ムツオが壁から離れる直前、また違うところから怒りの源を掘り起こし、まだ足りないらしく、ついさっき言ったことを持ち出しさらにひとり興奮する様子だ。

 母親の奇声を発するまでの流れは一通りで、右肩上がりに溢れでる陰性の言葉に調子を昇らせ、やがて行き着く怒りの頂点に達すると一切を放出し、一時的な“おわり”を迎える。

 他人ながらムツオは、トモユキに再び利益を度外視した憐みをよせずにはいられなくなる。

 どうにかしてトモユキを、というよりは母親に対する憎しみの方が上回る、ムツオのひとりよがりな憤りは、この部屋を飛び出し親子と対面しないかぎりは、今日中に放出の場を見いだせそうもなかった。


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