二
職場の遊び仲間の家で、彼はムシャクシャする思いから、そこで夕飯を済ませ、ビールまで飲んでいた。
二時間もあれば缶ビール二杯程度の酔いは醒めるだろうと考え、彼女に連絡もせずに深夜まで飲み、結局今日は帰るのが無理だとタカアキの両親がしつこく勧めるのもあって、その家に泊まることに決まった。その後も彼女への連絡はしなかったし、彼の携帯電話にも反応はなかった。
翌日は五時に起床しなければならなかったから、彼も、タカアキも、まだ酔いの覚めやらぬ内に、腫れぼったい瞼をしきりにこすりながらなんとか起きた。
タカアキが、ムッちゃんの車で行こうといい、ムツオもそれに異論はなかった。ムツオの四駆はエンジンのかかりが悪く、一度市街地で止まったままどうやってもフカなくなった時があった。その時にも助手席にはタカアキが乗っていた。
今週は郊外の現場が続いていたので、ムツオは寝不足ぎみだったけれども、昨夜のアルコールで数日ぶりに深い眠りにつくことができ、今朝は早起きにもかかわらず、気分はすこぶる良かった。それとは対照的なタカアキの不機嫌に外を睨みつける様子が、いきなり豹変した失笑を車内に響かせた。
「おい、ムッちゃん見ろ、早く。あのじいさんおもしれぇ、あは、あはは」
タカアキの指し示す方向にあわてても間にあわなかった運転中のムツオは、そのとき、引き返してやろうという、いつもの下卑た好奇心は、どういうわけか生じなかった。
タカアキの説明によると、どうやら散歩中のじいさんが連れていた、秋田犬らしき犬の首輪につないでいた、散歩用のヒモにじいさんが足を絡ませ、うしろ向きの姿勢で横断歩道の手前に倒れていたそうだ。
じいさんのその倒れ方が、タカアキによれば、「マジ、ウケた」そうで、さらに仰向けに倒れたじいさんは、両手を伸ばし、両足は膝を直角に曲げたまま、なにか見えないものにでも抱きつく格好で、タカアキの視界から完全に遠ざかるまでぴくりともしなかったらしい。
それを聞いて、はじめは単純におもしろがっていたムツオも、些細なことを、誇張する気質のタカアキのことだから、全部を信じるつもりにはなれなかった。ほとんどがタカアキの創作によるところに違いない。笑った後の気安さからか、それでタカアキをからかった。
「どのくらい嘘ついた? じいさんが転んだまでが本当だろ?」
頬をくねらせタカアキは、にやりと細目で薄笑いして、
「全部だよ、全部本当だって。じいさん倒れたあと犬に踏んづけられてたし」
「ばーか、ありえないよそんなこと、出来すぎてるって」
「何でだよ、おれたちが帰ってくる時もあのままでいるかもよ?」
「……もういいって」
二人とも、妙な気まずさに黙り会話もとぎれた。
それから現場までの道程は、ムツオに一時間という長さを、退屈させない山積みの問題に取り組む機会を与え、車外の光景を、一々無垢な好奇心の眼差しで眺め、安全靴を踏み鳴らし、同意を求めるタカアキの声にも無反応を示すほどだった。
重たい車体につりあわない、パワー不足のエンジンが不満とばかりに、アクセルを踏む足に力を込めるけれども、過度の負担をかけた、高回転で噴きあがる排気量が、燃費に直結するだけなのは、ムツオには痛いほど分かりすぎていた。しかし、アクセルを踏み込み、エンジンを締めつけてやりたい衝動は抑えがたくムツオを駆り立てる。
金融会社への、毎月の支払いにも、最近は渋りがちで、期限当日にようやく振込みを済ませることが多くなっていた。
「おい、行き過ぎたぞ」
ムツオの肩を掴んで激しく揺すり、タカアキがしっかりしろよ、と舌打ちする。
「次の信号で右折すればいい」
「いや、そこの脇道から入ったほうが近い」
タカアキは人家の立ち並ぶ間の道を行こうと急かしたが、ムツオは信号のない場所で右折するのを、反対側の車線の込み具合を理由に拒んだ。
反対側の車線は、都市部へ向かう車の列により、ムツオたちの視界にうんざりする渋滞を築いていた。ムツオ達の走る車線も今は後方に列を成しつつ、車幅の間隔は自然と狭まってきた。
ふと、ムツオは考えが変わり、百メートルほど先にある、交差点の信号を待たず右折するために、タカアキの言った脇道の手前で停車し、片側二車線の狭い道路に、強引に割り込みもうひとつの渋滞を招くことを、今は別段戸惑いもしていなかった。反対車線の男がこちらを睨みつけている。ムツオは目線を逸らし、素知らぬふりをする。
ムツオが進路に逆らい車の列に割り込み進む際、歩道を小学生が横切って行った。エイコのことが思い浮かび、ハンドルを握る手がゆるみ、反対車線から来る車と接触しそうになったが、タカアキは驚く様子も見せず、何も言わず車外を眺めているだけだった。ムツオも黙ったまま脇道を抜け、本線に戻りそこからは順調に進んで行く。
現場までもう少しという所で、再び渋滞に巻き込まれ、信号待ちでいらつくムツオの前を、新社会人らしき若者が、ぎこちないスーツ姿で、自転車のペダルをきびきびと腿を上下させてこぐ様子が、歩行者の集団に紛れ横切っていった。
その若者を目で追いかけ、本当だったら今頃自分も大学を卒業し、まっさらな社会人としての生活を始めているはずだった、と父親のことを思い出す。
大学受験に失敗したムツオに父は浪人することを許してはくれなかった。父が学歴にコンプレックスを持っていることは、こどもの頃から、度々自身の第一志望であった大学出身の芸能人を理由なく貶すことから窺い知れていた。そこまで学歴にこだわる父が自分に浪人することを許さなかったのが、ムツオにとっては最悪の誤算だった。
一年くらいなら大丈夫だろうといった甘い考えから、受験勉強にも本腰を入れず、本番の結果は惨憺たるものだった。六つ受けた大学の中には、クラスの連中とバカにしていた大学もあった。そこにすら受からなかったムツオを、その時ばかりは友人も茶化さなかった。
最後に受けた試験の結果が出た夜、ムツオは父と殴り合いの喧嘩をした。あわてふためく母親が、ようやく仲裁に割って入ってきた時、ムツオは父に組み敷かれる格好でいた。父親が立ち上がり、鼻血で呼吸がうまく出来ず咳き込むムツオを見下ろしていった。
「お前に掛ける金はもうない」と。
高校を卒業して新聞奨学生という形で、ムツオは実家から遠く離れた専門学校に入学した。専門学校で特にやりたいことなどあるわけではなかった。父親の嫌うブルーカラーの仕事に就いてやれといった反抗心から、その学校を選んだ。目的もなく実家を離れたその日、空港に見送りに来てくれたのは母親一人で、
「お父さんも本当はあなたのことを心配してるのよ」
そう涙ながらに訴える母に免じ、その場はあえて反論はしないでおいた。
「じゃまだなこいつら……」
タカアキが呟いた。このまま突っ込んでやろうか、とムツオが訊く。
「おお、やれ、やれ」とタカアキが煽るように両足をばたつかせる。
当分前へは進めそうになかった。ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、靴底をブレーキから離す。車体が完全に停止する直前の揺れのあと、息をつきシートにだらしなく凭れる。
再び黄色の点滅が始まると、後から来た歩行者は駆け足になり、ムツオの正面に見える信号の点滅が終わる寸前で皆渡りきる。人も車も一時的に流れが止まり、次の瞬間、全ての信号が同時に緑色に変わった。
助手席のタカアキが伸びとともに大きなあくびを車内に広げ、うっすら涙を溜めた眼を、退屈そうに車窓へ遣りなにか呟いている。
雨が降りそうな曇天の薄暗さがあった。昼までに降ってくれれば親方が早く仕事を切り上げるはずだ、とタカアキが目尻をおさえ媚びた薄笑いを浮かべた。
そうなれば早く家に帰ることになるから、ムツオはどしゃ降りでもいいから、いつも通り六時までは足場組みに没頭して、父とエイコとのことを頭から追いやってしまいたかった。