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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
11/12

十一

 狭い居間に置かれた、二人かけるともう窮屈になるソファの片側で、足を組み、昏々と額で空を打つしぐさをくりかえすムツオの姿を一瞥してエイコは、風呂場の天井にへばりつき、我慢強く落ちてこようとしない水滴を思い浮かべ、最初の時はかるく微笑むが、何度も自室の寝床へ向かうようにすすめても、その度、うん、うん、とほとんど唇を使わず、口から漏れる呻きのような、手応えのない返答が帰ってくるだけで、しまいには、なにがなんでもといった類のむきだしの衝動にまでつかれ、今度は語尾を一段強くした。

「……しつっこいな、わかったっていってるだろう」

 まだ眠気の名残惜しいムツオが、起きるきっかけに両腕を頭上でいっぱいに伸ばし、憎さまじりの大あくびをしてみせれば、エイコもおさまりがつき、元の緩んだ表情で、片側のソファの肘かけに手をのせ、彼女の目下にあった心配事が一つ解消されそうな様子に、晩飯の後片づけを台所へいつもよりだいぶ遅れてはいたが、腰を上げる。

 エイコの背に、二、三咳込んだムツオがしきりに「がっ、がぁぁ」と喉を振るわせ風邪の前兆だと説明しながら、さらに、「がっ、がぁぁ」と続ける。

「おれ、風邪のはじめには決まって喉が腫れるんだよ。だから喉の奥がかゆくってしょうがない」

「だから言ったのよ、全然聞いてないから。あ、喉のお薬ってまだあった?」

「いや、分からない」

「だめよ、ちゃんと飲まないと」

「薬箱ってどこだっけ」

 洗い物を中断し、エイコは布巾を手に電話台の引き出しの一つに視線を遣り、近寄ってくるムツオの気配を背後に認めつつ、電話台の前で屈む。すぐに海苔の缶を掴み、蓋を開けると、中には絆創膏、包帯の一巻き、目当ての風邪薬が覗け、封を切った箱の中に指を挿し入れ、中身の有無を確かめる。

「あった。ふた袋あるから今日と明日の朝で飲めるわよ」

 薬を手渡し満足気に、再び洗い物へとりかかるエイコに気安く礼を言い、明日薬局へ寄って行こうか考えながら、ムツオは風邪薬の一袋を片手にソファへ腰を下ろす。

 洗い立ての、内側はほとんど濡れているコップに水を注ぎ、エイコは外側だけをさっと拭き、ムツオが座るソファの前にある、足の短いテーブルの中央へ無雑作に置いた。

 あらかじめ袋の口を開け用意しておいたムツオは、粉末状の風邪薬を含くみ、コップを握り半分まで注がれた水を流し込むのが難しそうに、しかめ面で口内へ入れ、舌の先に苦味が感じられたのを合図に、それらを一度で飲み尽くした。

 喉の痒さも治まるほどの苦さだとムツオがいうと、エイコが愛想よく頷いてみせた。その、手際よく洗い物を終わらせ、今、布巾を絞る後ろ姿が、ムツオに或る不安を抱かせた。

 そつなく洗い物を済ませたエイコが、思いついたように眼を輝かせ、冷蔵庫の扉をひらき、

「梨があったの忘れてたけど、食べる? 」とまだ舌に薬の苦味が残るムツオに訊いてはみたが、やはり彼女自身食べたいらしく、返事を待たずに皿から一つ取り出して食べ、そのまま皿ごとムツオの隣へ腰を下ろした。

「甘い、良かったぁ、美味しい梨に当たったわ」

 指先につく汁を丁寧に舐め、さらに手を伸ばすエイコの無邪気さを、横で眺めていたムツオが、梨の甘いことをあまりにも褒める彼女に対して、ちょっとした発見でもしたみたいに、ニヤついた顔をして、こう教えた。

「柿の甘さは専用の機械で判別がつくらしいから、最近の柿にはハズレがないんだって」

 足場組みの仕事を辞め、次の仕事の当てもない状況下にあったムツオに、親戚の厚意の申し出から、伯父の経営するブドウ園の手伝いをしきりに勧められ、夏の間だけという約束で始めた頃に、お客同士が話す内容から得た、果物に関するちょっとした知識をふと披露してはみたものの、それで生計を立てていくことは躊躇われ、できれば前職に近い仕事をと考えているムツオの胸の内には、なんとなく情けない思いだけが残った。

「へぇ、どうやって? 梨はできないの」

 底の浅い皿に八等分で切り分けられた梨がエイコによって順調に減らされていくなか、ムツオはまだ梨に手をつける気にはなれないでいた。

「スイカはどうなの? スイカで出来たら一番いいのに」

「柿が判別出来るんだったら、スイカでも……」

 でも、今夏に実家で食べたもののなかには、確かに大味なスイカもあったなと、この時期にずいぶん季節外れな話をしている自分たちの行き先も、この話の結末のように形を留めずに済ませる方法はないのか、ムツオはまたいつものように思案しあぐねて頭をかく。

「まだスイカでは無理じゃないのか、梨だってまだ全部が甘いわけじゃないだろう」

「そうね。でも、この梨本当に美味しい」

 ムツオの妥協案にあっさりと応じる態度を示しても、やはりエイコにはその奥でまだ彼の意見には応じかねる何かがあるようで、手にした梨に関心を寄せたまま、振り向かずにそう答えた。それから、半分残った梨を最後にもう一度ムツオの前に持っていって、また拒まれるとすぐに引き下がり、指についた汁を気にかけながら、冷蔵庫の扉の奥に皿をしまいこんだ。

 エイコが洗面所へ行き、ひとりになったムツオは、全身に強く熱を帯び、額から波紋の広がりのような血流の脈打つさまが、眼を閉じ今は一切の抵抗をやめた彼の脳裏に展開され、このままここで寝てしまおうかと思わせる誘引も含まれた、心地良い、酔いのようでもある熱い血液のうごめきを体内に認め、それもすぐにあまりよくない兆候だとばかりに荒っぽくソファから上半身だけ起こし、風呂場から漏れ聞こえてくる、激しく水しぶきのはじかれる音に、ムツオの意識が流れるなかで、似たようなざわめきの内に潜んでいた頃の自我が肥大する一方なのに、ムツオは拒絶を覚え、ざわめきにひたることもままならなくなってきた。

 意識がソファの上に再びもどり、瞼のかゆみから、指の一本を目元にもってきたところで危うく擦りそうになる寸前でやめ、昨日自らの過失から眼科を訪れることになった際の、診察室での出来事を思い返してみた。

 ムツオは最近、運送会社の、積荷のアルバイトをしていた。季節の変わり目で、徐々に集積所を行き来するトラックの回数も増えてくるのだが、その時期の忙しさにのまれたムツオは、トラックの荷台に載った段ボール箱を不注意から落としてしまい、幸い中身は割れ物ではなく、セール用の婦人服で、それをまた整え、詰め直す処置を施せば済んだ。

 しかし、そのすぐ後におなじ失敗を行い、今度は女性用のブーツが入ったダンボールの予想外な重みに耐えきれず、それごと地面へ後ろ向きに倒れ、その時ダンボールの側面で瞼を痛め、そのまま眼科へ向かうはめになった。

 ムツオはその眼科においては初診であり、受付の若い女性から手渡された質問用紙に従順な態度で記入して、それを済ますとしばらく待たされた後、簡単に名前を呼ばれ診察室へと通された。

 彼の見たてではまだ二十歳くらいに映る、受付に立つ、女性というよりは、まだ女の子といったほうが似合いで、小さいつくりの全身を上方にたどれば幼顔が印象的な、二重がはっきりと大きくひらいた眼元から反り返る長いまつ毛が愛玩の気持ちを生む、ムツオ好みの受付の女性から、自分の仕事を忠実にこなそうとする時に認められる、ぎこちなさのようなものを見つけ出すと、さらにムツオの心は惹きつけられ、彼のほうでも、やさしい母親のいいつけを守るこどものような、彼女への好奇心とうちとけたい想いから、ほとんど受付の女性のいいなりになっていた。

 中年の男性医師が彼の診察を行い、そこから少しさがったところにいた彼女に目薬を出すように指示を出したので、そのまま彼女は奥の部屋へひっこんでしまった。医師が一応点眼のやり方を指導するというのでいちど席を立ち薬品のある部屋へ入っていった。そのまま診察室のイスにたよりなくすわり待っていたムツオの元に、意外にも受付の女性が目薬を手にして現われ、正面に立ち、「失礼します」と上から覗き込むようにして、まずムツオの右眼の瞼に指先をかけ、おぼつかない手際で上と下に指を伸ばしながら眼を開かせ、顔を上げるようにとムツオの頭に手をかけ言った。両目に点眼を終え、ティッシュを手渡し彼女がなにか言ったが聴きとれなかった。

 診察室の開放された扉の奥から別の患者が入ってきた。ムツオと入れ替わりに眼帯を付けたスーツ姿の男が診察室のイスに腰掛けると、彼女はもうその男を構うことに懸命な様子で、扉の前で一度振り返り、彼女へ簡単な礼を言おうとしたムツオの姿には気づかなかった。

 ムツオは黙って待合室に戻り再び名を呼ばれる間、彼女の指が冷たかったのを、それは彼女から受ける好印象とは一点だけ不釣り合いなものだと考え、そのことで彼女の全体が悪くなることはないけれど、そこに確かな、生々しい彼女の体臭を嗅がされたような、突き放された失望を捉えた。

 そこで、できるなら良い感触を微かにでも留めたいと願いムツオは、彼女のしたとおり、ゆっくりと撫でるように瞼のうえで指先を滑らせ、彼女をもう一度再現したいとばかりの熱心さをもって、慎重に彼女の良さを保とうと、大切にその感触をたどるが、どうにもそこへは行き着かないから、浮揚もしてこない。

 ただ不思議と女性の指先の動きが、なんとなく幼児のそれと似ているようで、むじゃきに大人の顔を柔らかくたたく、生まれて間もない幼児の、はちきれんばかりに膨らんだ掌が、いたずらっぽく笑い、繰り返し彼の頬を弾くのを、はじめムツオはすこぶる穏やかな心境に落ち着いていたからそれほど気にはしていなかったものの、さすがに肩まで揺すられると、つい、その指先を掴み、だれか自分の名前を囁く声の源へと意識が向かい、それが風呂上りの湿った肌から芳香を漂わすエイコのものであることを、ムツオが気づくまでにはたいして間はなかった。

 またソファで眠ってしまったムツオを、すでにパジャマ姿に着替えたエイコが、風呂へ入るようにとせきたてる様子が目に入り、ますます熱を帯びてきた自身の全身を覆うけだるさが、ムツオの風邪をひどくこじらせてしまったことを教えていた。

「……ねぇって、お湯が冷めるから、入らないんだったら、栓、抜いとくわよ」

 おどしにも近いその言葉はムツオをたちまち不愉快な気持ちにさせた。エイコが、彼になにかを期待した場合の言い回しは決まってそういう思わせぶりな調子で、ムツオに迫ってくる、逃れられない責任をつねに暗示させる形に加工し、内に隠された皮肉となって囁かれ、次の時には強く主張され、その場合、ムツオは消化しきれずいつまでも腹に溜めたまま、据えかねる態度でエイコを哀れっぽく睨むだけなので、それだけでは、この男に事態を良い方向へ進めようとする意志があるのかどうか、エイコには解しかねた。

 その後、目にみえて事態が好転したわけではないが、今までにはなかったメニューが食卓にのぼる近頃を、ムツオはどうしても素直に喜べず、疑わずにはいられなかった。トモユキのことがあってから、エイコは以前にもまして強気になったように思われた。

「朝入るからいいよ」

「だめよ、残ったお湯は洗濯に使うから、いま入って」

 エイコの声を捨てておき、体の向きを変え、背もたれに顔を埋めて、あくまでソファに居据わろうと粘るムツオの頑なな姿勢がひどく場違いなことだとエイコは説いた。当然ムツオへの挑発の意味もあった。

 しかし、そういう挑発にはのらないことが今の場合の得策だということもわきまえていた、そのムツオが、いきなり怒鳴った。

「もう、うるさい! だまれ!」

 分かっている、考えている、言うつもりだ……、その先が続かない。後悔が起こる。エイコがはっきりとひとつに定まった迷いのない顔つきを作った。       

 周到に持論を展開させようと待ち構えるエイコの様子は、ムツオの訳のわからない憤怒をものともしない、正論を盾にとる人の無慈悲さそのままで、わりに道徳を重んじる人間と自己を称するムツオは反論もできず、いいようになじられっぱなしだった。反論を試みるのは無駄なことだと、経験からあきらめに至っていたから。

 エイコがやりきれないのも当然だ。でも、都合のいいようにおれだけ非難するのはちがう気がするけど、それを訴えれば、よけいにひどく罵られることは、はっきりしている。

 まだなにかわめくエイコを、ようやく視界に確め、ムツオは自分特別に備わった体質のことを思い出す。

 嫌なことが起こる度に耳の聴こえが悪くなり、視力の低下が著しく、眼球に靄みたいなものをかけ、いつの間にか意識を遠くへやってしまう特質をムツオは身につけていた。無駄とおもえる経験からさえ、なんらかの学習を試みる、脳の抜けめない働きに、ムツオは、ただ驚かされ、ありがたがっていた。

 あらゆる不満をエイコが抱え悩む日々を、ムツオも認めないわけにはいかず、だからこそ、こうして我慢を重ね、罵倒にも思慮深く、寛容に彼女の不満のはけぐちをこなすのだ、という自負がムツオには有る。

 もともと、そういった場面では、男が女以上に喋ることは禁止とされていた家庭では、ムツオの幼少時は、家全体が父親の思惑に包括され、ここでも、はばをきかせる父の教えが、ムツオの気持ちの流れとともに、うっとうしく纏わりつく。

「ねぇ、わかった? 」と、エイコのあきらめを示す言葉にムツオは、彼女を再び現実の存在とする。

「もういい、わたし寝るから。でも、部屋の照明は消していくからね」

 扉に手をかけ、もう片方の手は、証明のスイッチをはじいた。

「えっ」

 ムツオは、一瞬のひどくたよりない淋しさから、そう叫んでいた。

「何なの」とエイコが、暗闇で、スイッチを探る気配に気づき、それを遮った。

「いや、点けなくていい。ここで眠るから」

「そう。おやすみ」

 暗がりの奥に姿を潜めるエイコの遠慮ない、静寂を掻き乱す足音がやがて止まり、寝室の閉められ、それきり冷蔵庫のハエの羽ばたきのようにうなる振動を聴くだけになると、ムツオは俄然、思考が働きはじめ、頭の内側にむずがゆい感じを覚えてきた。

 それは、ちょうど、ムツオの友達に子供が生まれたことを、その友達の口から聞かされた時のむずがゆさに似ていた。

 その友達は、二十歳そこそこに恋人と同棲を始めると、間もなく恋人をこえた関係に納まり、それよりもはやく、赤ん坊の種を、恋人の中に植えつけていた。ムツオの仲間うちでは、そういうことは、なにも特別ではなかったから、ただ、形式上の言葉はかけたが、心のそこからのものではなかったことは事実だ。

 頭が、むずがゆいと感じたのもその時だった。どっちつかずの微笑を浮かべた友達の表情は見るに堪えがたく、淋しさを滲ませたその笑顔に、ムツオは友達が洩らす喜びの言葉全てを信じる心境には至らなかった。


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