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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
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 心身の疲労はかなりのもので、父との対立さえどうでもよく、母との表面では和む会話を強いられたくないおもいから、二人からあからさまに避けるようにしてさっさと二階へ上がり、古臭く匂う畳にしばらく身体を預けていたら、滲みでるようにムツオの意識に広がったのは、やはりエイコの妊娠と結婚に関連することばかりだった。

 明日にでも帰ってしまいたい気持ちから、エイコとの結婚は当分の間見送ってもいいとさえ、ムツオは他人事同然に捨てておきたくなったが、それでも今度こそというつもりでわざわざ実家を自ら訪れたのだから、まだ帰ることは許されないといいきかせ、明日も滞在はつづくところに考えが納まるのを見計らったように、エイコからのメールが届いた。

 トモユキのことがほとんどで、まるで避けるように結婚の報告の進み具合については触れられてはいなかった。

ただ最後に、早く戻って来て欲しい、と文面とはおおよそかけ離れた唐突さだったから、ムツオはそわそわして、エイコの不安がそのまま文面に乗せられ伝わってきたように感じられた。急かされていることは以前からだったが、今度はそういった裏に隠されたものではなく、素直なエイコの感情が剥き出しだったことに、彼女の追い詰められていることがムツオにも分かった。

 早く決めてやらなければと自分を叱咤するほどに、どうにもならない窮屈さが沸き起こる。それが両親との関係から起こる感情の現象であることははっきりしているが、理屈が分かっているからといって、簡単に処理できるほど感情は軽くはない。

 大体、結婚の報告なんてする必要があるのだろうか、こんな親にわざわざ許可を得ることなどしなくても、勝手に婚姻届を出せばすむのだ。エイコがしつこく言うから、自分はこんな思いをしているのだ、メールの返信にはそんなことを書きなぐってやろうかと考えたところで、ムツオは実家の空気を吸っているとまた誰かのせいにしたくなる陰気な気分を変えようと、海岸へ潮の匂いを嗅ぎに行く。

 満ち潮の階段のぎりぎりまで降りていきそこに座り、海面の底に透けて見える石ころに触れたいが、飛び込むわけにもいかず、代わりにと、小石を叩きつけてみるが、跳ね返りの海水の塩辛さを顔に受け、彼の思い通りの一直線にとはいかず、ゆっくり揺れながら沈んでいく小石に気持ちがいら立つばかりで、自分と父との関係はいつもこんなものだ、と海面にゆらゆらと映る自分の顔には確かに父の面影が濃くなってきたことを、ムツオも認めないわけにはいかない。

 このジレンマから抜け出すためにはふつうの方法ではいけない。この親子関係自体が異常なのだから、それに対抗しうるだけの大胆な行動を、こちらから起こすしか道はない。

 いつもの結論に辿り着いたところで、また悩む。空想の中ではとっくに行動を起こしている自分と、未だ何もしていない自分との摩擦がムツオを追い詰めている。

 両親の許可などなくても構わない。けれど、式はやろうと考えていた。親に頼らなくてもご祝儀で式の費用を相殺出来る方法のあることをムツオは知っていた。

 エイコは式を挙げることには無関心を装っていたが、それが彼女の強がりであることはムツオも分かっている。

 それもムツオの側の親類が出席することが必須で、万が一父が出席を拒否することがあればおそらく親類にも気まずさから式への出席を遠慮する者もあるかもしれない。その為なるべく下手にでて、父の機嫌を損なわないようにするつもりだったが、どうしても嘘でも父には頭を下げたくはない思いが勝ってしまい、ただ実家に居るだけの数日を過ごしていた。

 海面の表面はゴム製のシートをかけたような光沢があって、ムツオはつい「ラバー」と呟いてみて苦笑する。

 そんなくだらないことを考える余裕がまだあるのなら、もう一頑張りはできそうだ。石階段から腰をあげ、しりについた砂利を両手ではたき落とし、実家ではない方向へムツオは歩き出した。 

  



 実家から戻ってきて数日が経ち、ムツオはいつものようにエイコの帰りを一人待つ。

 両親に縁を切ることを告げた時の驚いた顔を思い出し、にやついて、指の震えがあの時の緊張感を再現するようだった。

 夕食を済ませ、風呂にも入り、後は寝るだけだったが、まだ冷めやらぬ興奮からムツオは寝つけずにキッチンでエイコの帰るのを真剣に待つわけではなく、テーブルの上に頬づえをつき、テレビドラマを、内容もわからずただ画面を中心に周辺を視点の合わないまま、他の考えに忙しくしていた。

 エイコが玄関の扉を開く。声の調子で機嫌はいいらしい。歩幅の狭い歩き方は床を小刻みに揺らす。ムツオに気づき、ご飯はどうしたか訊く。そう、もう食べたの、せっかくお弁当買ってきたのに。ムツオが、明日の朝に食べるから置いといてくれと言う。

「え、朝から天丼たべるの? うそでょ? 」 

 途端に天丼を食べる自分が想像できなくなった。捨ててしまえばいいだろ。ムツオは自室に向かう。

「なに、なんで怒ってるの? ばかじゃないの、このアホ!」

 はらいせにムツオは激しくドアを閉める。雷のうなりに似た音に続いて全ての音を遮り、ムツオは耳鳴りのするのを、耳の穴に指をつっこんで掻きまわす。ごわごわした指触りの悪い耳の穴は乾燥していた。ムツオはさらに奥へ指を進め、うす暗いトンネルの中で風に吹かれる自分を想像して、濃いオレンジ色の照明の下、速度をおとさず通りすぎるトラックの風圧によろめき、後ろから来る車に撥ねられはしないか怯え、できるだけトンネルの隅で肩を擦らせるように慎重に歩いていく子供の頃の体験を思い起こしていた。

 壁に持たれ聞き耳を立てても、となりの部屋からは物音ひとつ聴かれない。

 実家にいた時に、エイコからのメールで、ムツオはトモユキが母親の元から逃れることがようやく出来たことに安堵し、トモユキと同じように、父から逃れる為に自分が起こした行動を重ね合わせ、これからお互い親というものから本当に抜け出すことが出来るようにと願った。

 平日の仕事休み、なんとなく居心地のわるさから、壁を殴りつけたり、蹴りつけたりしていたのをもしかすると、トモユキはおびえながら聴いていたのかもしれない、とまだトモユキが不登校だったことを知らなかった頃にやった自分の子供じみた行為に恥ずかしさが湧きあがり、いま同じことをしてやろうかとかるく壁に拳をあてたが、いつかの母と子のやりとりを思い返し、そっと拳を柱に当てるだけで止めてしまった。

 学校へ行かずトモユキは漫画本を読んでいたところに母親が帰ってきたのが口火になった時、へたくそなヤツだと、ムツオはその際のトモユキのあわてぶりや失態の様子が目にうかぶようで、いつものように壁に耳をつけていた。

 意味はわからなかったが、教師がどうのこうのと母親はわめき、ムツオには想像のつかない、親子の間だけの出来事のある一場面をとりあげトモユキを非難する、その話の節に父親らしい男の名前が母親の声からもれ、それで事態が彼女の離婚間際にまで遡っていたことに、ようやくムツオは事情をのみこめた。

 無差別にトモユキへの不満ばかりを気違いのようにわめきちらす母親に、しだいにムツオはまるで他人ごとではないかのように腹立たしく聴いていて、いつのまにか立ち上がり壁に向かい合い身構える自分の行動に気づくと、突然に、持病の発作でも起こした人のような息苦しさに、声にならない唸りをあげ、固く拳を握りなおし、壁に憎しみや憤りのすべてをなすりつけたいとばかりに叩きつけた。

 奥の部屋から驚いたエイコがドアを開けると、一度は畏縮しひるんだものの、背後におそるおそる近づきながら、ムツオやめなさいって、と彼の怒りも最もだと共感し、背後から抱きしめてやる。

 エイコはムツオが、トモユキを幼い頃のムツオ自身と重ね見ていたことを理解していた。彼にとってはトモユキは過去をやり直す為の大事な要素であることを、むきになってトモユキの臆病さをなじる様子からも想像がついていた。




 利き腕の拳にはまだ大げさに、厚く包帯が巻かれ、それでも骨折はしていなかったのが幸いだった。

 エイコに言われ、念の為に病院へ行った帰り、思い立ち、事務所に辞めることを伝え、次の日から仕事には行かなくなっていた。タカアキとも一度電話で話しただけで、それっきり会う機会も得られないままでいた。

 ムツオは、まだエイコの両親に会ってはいなかった。もっとも、エイコの両親には、彼女から妊娠のことを告げて、エイコの父親は何度もムツオを連れてこいと息巻いていたが、自分からムツオに会いに来ようとはしなかったので、未だに良い進展もみられなかった。

 隣の住人は引っ越していった。それはエイコがうわさを広めたわけではなく、下階の住人である中年のおばさんと、その母親の婆さんが、トモユキの体の痣や、夜に度を超えて叱ったりしているのを、ムツオたちが越してくる以前から不審におもっていたところに、トモユキの姿が見られなくなったことからアパートの他の住人達に憶測でうわさを広めていったためだった。

 うわさがトモユキの母の耳にも入ると、さすがに母親も居づらくなったとみえて、トモユキが居なくなってから一月経った昨日、逃げるように住人への挨拶もなく出て行った。

昨日ムツオは一度も外へは出なかった。

あの母親と顔をあわすのがためらわれ、引越し業者の階段を昇り降りする足音が消えるのをどれほど心待ちにしていたことか。その際にムツオの部屋の玄関が、ガンッ、と荷物を業者が当てたのか、すぐにムツオはあの母親のしわざだという考えをどうしても拭えないで、悶え苦しむ長い一日を過ごした。

 エイコは仕事を休んでいた。どうせ派遣の仕事だからと軽く流しまだそれほどに目立たない腹をさする。それはムツオへ見せつけるように、慎重に、丁寧になでていた。

 拳のけがが治ったら別の働き口を探し、エイコとの結婚もしっかり進めていこうと内心おもっていたが、まだそれは彼女へは伝えていなかった。態度で示していけばいいのだからという考えと、結婚は自分のためにするのであって、その決意の中にはエイコの存在は重要なのかどうかムツオ自身わからないままでは頼りなかったからふせておくことにしていた。

ムツオはここのところ、壁を向こうから叩く音や、女の叫び声の幻聴に悩まされ、深い眠りの心地良さを得ることができなくなっていた。

 感情の起伏がはげしくなり、ちょっとしたことに執着して誰にあたるでもなくひとり怒鳴ったり、殴ることはなかったが、その代わり壁を蹴って気を静めるムツオにとまどいながらも、エイコはあきらめたように彼との結婚にはわずかな異論も唱えることはしなかったが、産まれてくるこどものことはたえず二人の気持ちを苛立たせ、お互いに相手の体に触れることを避け距離をおき、性交も忘れた過去のもの同然になり、ムツオだけは時々湧き上がる性欲を自慰で済ませ、衝動が来なくてもいまはそれを自分からおこなうようになっていた。


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