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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
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 食卓に意表をつく彼の好物が並んでいるのを、それほどにも喜べない訳は、塩鮭の焼けた、食欲をそそる脂っこいニオイに添え、彼女の口が、懐妊、とやけに古式な言葉をふちどるためだった。

 彼女と付き合い始めてから、何回やったかを数えるうちに、一昨日の性交のことが彼の記憶にのぼり、何気ない調子でと、鮭の身を啄ばんだ箸先を口に入れる。

 現実の精密に時間を刻んでいたことが、電池のきれた壁掛け時計にようやく関心をもたせ、思慮のないここ最近の性交は、高をくくり不徹底であったと執拗にくやまれ、噛んだ鮭が冷たいことによけい腹をたてた。

「これ、中が焼けてないよ」

 じぶんのを箸で探り彼女もまずい表情をつくる。

「できたてだからゆるして」

 無邪気に皿を受けとり台所に立つ彼女は、緩慢さが彼の鼻につくほど浮ついた調子で、鼻歌まじりに、ごかいに〜ん、をばらまいた。

 彼女はふんだんな水気にうるんだ眼で、涙こそなかったが、もうこれでなにもかも安心といった安堵の兆しさえ映し、菜箸をタクト代わりに遊ばせている。

「テレビでね、さっきやってたの、御懐妊のニュース」

 彼は口をつぐんだまま、もう鮭を食べる気にはなれずに、ふりかけだけをおかずにごはんをすすめて、はやく腹を満たそうとかっこんだ。

 もともと魚料理を好まない彼が、なにかの折に鮭だけは別だと言い訳したのを、その時の、彼の大げさな言い方を疑わず彼女が信じてしまい、同棲をはじめて三ヵ月、ついに食卓に上った、唯一、口にできる魚を、これからは望んで食べることはないだろうと彼に思わせたのは、ほかでもない彼女の幸せそうな態度にあった。

「はいどうぞ」

 彼に皿を手渡しイスにすわる際、彼女自身動作の雑だったことを省みて、いけない、大事に扱わなきゃね、と次は丁寧に座りなおす。

「報告に行こうね」

 報告、何の。彼女への挑発にもとられかねなかったが、それでも彼は気持ちの苛立ちには勝てないらしく、すぐには言葉を足さなかった。その瞬間思考を割って、市役所と婚姻届が頭に浮かんできたのには彼自身閉口した。しかし彼女には別の光景があったらしい。

「まず、お互いの実家に挨拶を済ますのが先でしょ」

「ああ、うん……そうだな」

「なにその言い方、嬉しくないの」

「そうじゃない」

 会話を途切れさせまいと彼は強引に次の言葉をつぐ。

「ただ、あんまり突然だったから、うまく父親になれるかなって……」

 困惑の目をたるませ落ち着き払った口調で、大丈夫、ちゃんとパパになれるわ、きっと。

 まだ責任が重苦しい彼に対して、彼女はしっかりと母親へ移る準備を怠ってはいなかった。

「ねぇ、ベビー用品見に行かない。古着の安い子供服を置いてる店もあるんだって、友達が教えてくれたの」今度の日曜、仕事休みだから。派遣会社に登録して、働くことを覚えてから、彼女は一つのところに勤めることは考えなくなっていた。彼のバイト暮らしの影響もあって。

 彼女は妊娠のことを彼に話す前日、すでに親しい友人全員に話し終えていた。彼はそのことで少し彼女を責めたくなったが、つまらない方向に話題がそれる状況をおもうと彼女に分がある。しかたなく、顔つきは曇らせたまま箸をおく。それを彼の「真面目さ」なのだと解した彼女の心中で、結婚はとっくに下書きを済ませたものであるらしかった。彼女は畏まった口調で、

「いいタイミングだとおもわない?」

 同じ時期の出産もありえると、ひとり納得する彼女が、指折り数える月日の満期に達したところで、視線を移し彼の同意を待つ。

「……ばかばかしい。それで俺達の子があの有名人みたくなれるのかよ。同じ日に出産したらなんだってんだ……意味ないよ。だって七夕に産まれりゃ願いが叶うのか?クリスマスに産まれたら神の子か?そんなわけないだろ? そんなの嫌だ」

「はぁ? なに勝手にキレてんの? あんたが生でやったからできたんでしょう」

 箸を叩きつけ彼女は立ち上がり、茶碗と皿を一つにまとめ、三角コーナーのポリ袋に食べ残したご飯と鮭と、同じ皿にあったキャベツの千切りをぶちまけ、洗面所に駆けていった。

 うつむいて彼は、キャベツの千切りはないよな、と白い大皿に鮭の切り身とキャベツの千切りが一緒に並んでいるのを、今までどうして変に思わなかったのか不思議でしょうがないのだと、彼女の捨てぜりふに乱されて、落ち着けない気持ちを鎮めようとしてか、無理に大皿に意識を集中させた。

 そのうち洗面所から泣き腫らした彼女が、食器を洗いにくるタイミングに合わせ謝るつもりで構えていたが、彼の思惑に反し、キッチンから玄関につながる、人ひとり余裕を持って通れるだけの間隔で部屋を割る両壁は、うす汚れた箇所の陰影を目立たせるばかりだった。   

 その、今日ではタバコのヤニで、黄色くまだらに濁ったアパートの二階に引っ越してきた当初は、昼光色の照明を見事なまでに跳ね返す白さで、眼が眩むほど壁紙は鮮やかさを保っていたのを、誇らしく彼女が夜ごと、「なんか暖かいよ、この部屋」とはしゃぐたび、彼に前向きな禁煙を、自発的に誓わせたものだったが、今ではいっさい我慢することなく、延々と煙で部屋を汚すのも自由にやれた。彼女からの風当たりは増すばかりだったが。

 ようやく洗面所からでてきた彼女は、上半身の影だけを一度壁紙に映したきり、彼に安易な期待を抱かせ、スッと暗がりに消えた。

 二部屋の一方のドアを開け閉めする音が止まったのを聴き、彼は諦めテーブルの食器を片づけにかかる。

 茶碗と箸と皿は引越しの際彼女が揃えた物で、茶碗はかわいいネコの絵柄の淡いピンクと薄い青色の色違いで、箸も似たように色分けされたものを選んで買い、端がゆるやかに波うつ形の皿だけは、実家から持ち出したものらしく、彼女の趣味に合わないシンプルな白の単色だった。

 彼はスポンジ製のたわしを片手に、台所用洗剤を逆さにして持ち、五滴ほど垂らし蛇口をひねる。予想外の冷水が指先にかかり身震いを起こす。洗ううちにコップがないことに気づき、今朝彼自身の不注意で割ってしまったことにもしかすると彼女の怒りの原因があるのではないか、だから代わりのコップを出さなかったんだな、せっかく仕事帰りにまわり道してまで買ってきてやったのに、包みも開けないなんておかしい。あいつの好きなキャラクターのだってちゃんと言ったっけ……、言わなかったかな……、そうだ鮭だ、それで忘れていたような気がする――。

 彼女の茶碗にスポンジをあてたまま首だけ横を向き、

「なあ、コップ、ウサギさんのヤツだぞ。見てみろよ」と招くように叫ぶ。

 声は部屋中に響き渡り、やがて蛇口を勢いよく流れる水道水のしぶく音だけが残る。呼びかけに答える気配はなかった。


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