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緑の墓碑銘

作者: 多田薫平

 長い長いムービング・ロードの終わりは植民ドームの最南端に達したことを意味していた。これより先には生身の人間の進出を、未だ拒む乾いた火星の荒地が広がっているだけだ。隣りのドームは遥か彼方にあり、肉眼で見ることはできない。

 私は過去に一度だけここを訪れたことがある。火星で生まれ育った私を愛してくれた地球生まれの男。あと半月で産まれるはずのお腹の子の父親であるその男と一緒に一度だけ。

 強化樹脂で造られた三層構造の透明なドーム隔壁。その向こうにどこまでも続く広漠な景色を二人で見つめている時に、彼は「地球を見せたい」と言った。青い海と緑の山を私に見せたいと。普段の柔らかく響く声音ではなく、弾むように少し高い声だったことを今もはっきりと思い出せる。それから幾度となく彼の口から発せられた「地球を見せたい」という言葉を最初に聞いたのがこの場所だ。

 彼は何度でも地球の様子を話してくれた。私の膝枕に甘えながら子供のように。ベッドで彼の胸に顔を埋める私には子守唄のように。手をつないで散歩しながら歌うように。そしてこの南側ムービング・ロードの終点ではいつも少しだけ興奮した口調で。

「地球と火星の一番の違いは何だと思う」

 私が首を横に振ると、「色彩だよ」と教えてくれた。

 彼の口から出る色の名前は膨大で、私の知らない色がたくさんあった。

 ある時は天気の話をした。

「雨が降ると傘を差して歩くし、雪が降れば大木の枝すら折れることがある」

 雨も雪も記録映画の中でしか知らない私はむろん傘を差したことはない。

「地球には命が満ち溢れているんだ」

 動植物は二十三世紀となったいまでも全てが把握されているわけではなく、微生物クラスになると人間の知らない種類がいくらでも発見されると言う。家畜としての動物、食糧としての植物、医療や食品加工などに活用される微生物といくつかの病原菌以外、このドームには存在しない。

 彼の話の中で最もイメージできないのが、海や湖など水に関係する内容だった。海水や淡水とは何なのか。水の上を走る船とはどんな乗り物なのか。ドームで暮らす者にとって海とは宇宙空間の例えであり、船とは宇宙船のことであるからだ。

「見たいかい?」

 必ず最後にはそう訊かれた。彼が話す地球の諸々を見たいかと尋ねるのだ。

「見たい」

 私が答えると、彼は「きっと見せてあげるよ」と一層嬉しそうに笑った。私がさらに「必ず見せて」と続けるのが二人の他愛のないやりとりだった。私はそんなやりとりがずっと続くのだと信じていた。人が何かを信じるということは、意識しないことだ。信じていたかどうかは、信じる対象が失われた時に初めて気づくのだと、私は彼を失うことで思い知らされた。

 火星には既に五つの植民ドームが建設され、合わせて十万人を越える人々が生活している。全てのドームは生命維持のための機能優先に設計され、あたかも巨大な宇宙船の中に生活しているようなものだった。火星のテラフォームは遅々として進まず、世代が進むにつれて地球の記憶も遠くなっている。惑星の大気の下で、自然光を浴びて暮らす人間本来の生き方は、このまま遠のいてしまうのかもしれない。

 だから、ドームで生まれ、ドーム内での生活しか知らない私にとって、彼の話す地球の様子はいくら聞いても現実感が伴わなかった。彼から聞かせてもらう地球は、様々な色彩をした生命の溢れる星だ。まるでそれ自体が命を宿しているかのような惑星を、荒涼とした火星に生きる私にどうして想像できるだろう? だから彼の話も所詮は絵空事であり自分には永久に関わりの無い世界の話だとも思っていた。けれども、楽しそうに、時に懐かしそうに喋る彼自身は、目の前の現実であり、私だけのものだった。彼と一緒に暮らす生活は慎ましいけれど、十分な満足と幸福を感じさせてくれた。地球なんか見なくてもいい。彼が夢中になって話してくれるだけで、ただそれだけでよかった。手を伸ばせば触れ合えることの他に、何も望むことなどなかったのに……。

 今、私の横に彼はいない。代わりにいるのは、背が高く、目つきの鋭い年老いた男性だ。

「ドームの外に出ます」

 私をムービング・ロードの終着点までエスコートしてきた男、火星独立市民評議会最高議長であるJ・クエンティンは、無数の皺が刻まれた顔を向け、乾いた声でそう言った。

「議長の顔の皺には火星独立運動の歴史が刻まれている」

 地球からの独立運動の中心的かつ精神的な支柱に対する畏敬の念を市民はそのように表現する。若い時分は武闘派としてならし、やがて幾つにも分かれて、ばらばらに活動を展開していたグループを一つに纏め上げた男。地球が最も抹殺したいと願う男とも言われている。普段なら決して対面することのない遥かな高みにいる人物なのだ。そのクエンティンが私を呼び出した。

「彼についてお話したいことがあります」

 突然届いた電子メールにはそう書かれていた。火星独立市民評議会に対して彼の死に関する情報公開を要求した私に、評議会の重鎮が直接メールを寄越したことには心底驚いた。併せて言い知れぬ不安も感じた。何故、一介の職員の殉職に関する問い合わせに、トップが出てきたのか。

 果たして彼がミッションにおいて何をしていたのかを知りたいという気持ちが、改めて強くなった。どんなに問い掛けても記憶の中に住む彼はただ曖昧な笑顔を見せるだけだ。私は全てを知るために、クエンティンの誘いを受けることにした。不安よりも明らかにしたいという欲求が勝ったのだ。

 私たちは既に用意されていた地走車に乗り込んだ。中にはクエンティンの護衛を兼ねた人体型ロボットが待機していて、二人の乗車を確認するとすぐに地走車を発進させた。機密性の高い地走車は地下走路を抜けてドームの外へ出た。ロボットが合成音声で告げた。

「目標地点ヘノ到着ハ七分後デス」

 地走車は滑らかな加速から、すぐに静かな等速走行に移った。

 私は隣に座るクエンティンに問いかけた。

「なぜ、あの人は死んだのですか?」

 彼は任務で向かった地球の衛星である月から戻る途中の事故で死んだ。私に知らされたのはそれだけだった。彼がどんな目的で地球の月へ赴き、どんな理由で死ななければならなかったのかについては何も伝えられていないのだ。

「ご存知の通り、火星は五年前に地球の統治下から独立しました。事実、合意書も作成されています。しかし実態は違います。地球は火星に対して、表向きは自治を認めながら、実際は地球の掌の上で操っておきたいのです」

 クエンティンは私の質問が聞こえなかったかのように話し始めた。

「そんなお話のために私を呼んだのですか?」

 クエンティンはそれにも答えず話を続けた。

「火星の利権を手放したくない地球と、地球の束縛から解放されたい火星との攻防は今も水面下で続いています。火星は未だに真の独立を勝ち得てはいません」

 火星と地球とが事実上の戦闘状態にあることなど、ここに暮らす者なら誰でも知っている。人類が月を制圧し、火星に植民船を送り込んでから、既に二世紀近くの時間が過ぎている。数次に渡る植民計画が遂行され、今では火星世界の経営を担うのは火星生まれの者達が殆どだ。苛烈な環境下にありながら、私たちは自治を望んでいる。自分たちの世界を自らの手で治めたいと願うことは、極めて自然な成り行きだ。しかし、膨大な投資を行った地球は、それに見合うだけのものが回収されていないことを理由に、自治を認めようとしない。地球の理屈もまた当然なのだ。主張の対立する両者が物理的に衝突するのも、また自然なことなのだろう。

「一つの計画が進んでいます」

 話の方向が変わった。私は耳を傾けた。

「火星への植民計画のスタートと時を同じくして始まった遠大な計画です。その計画がここに来て大きな飛躍を遂げました。しかし、それを本当の飛躍にするためには、どうしても越えなければならない壁があったのです」

 クエンティンは何を言っているのだろう?

「その壁を越えるために、我々はミッションを打ち立て、任務者を募りました。今回の任務は火星と地球の関係を大きく変えるものであり、地球に対して打撃を与えるためのものでした。故に大きな危険を伴っていました」

「それがあの人の任務だったと?」

 クエンティンは小さく頷いて見せた。

「我々は決して任務を強制はしませんでした。しかし彼は自ら志願してくれたのです」

 彼が志願した? そんなばかな! 私は知らずに強い言葉を返した。

「あの人は危険は冒すような人ではないわ。昇級よりも私との生活を第一に考えてくれていたのよ」

「しかし彼は志願したのです」

 私はクエンティンの訴えるような視線に唇を噛んだ。

 信じられない。いつだって彼は私と一緒に過ごすことが何よりも大切だと言っていたのだ。弱虫と指差されても構わない。仲間から軽蔑されるより、私を失う方がよほど怖いとさえ言ってくれたではないか。

 そんな彼が命の危険を伴う任務に、自発的に志願するとはどうしても思えない。

 しかし、現実に彼は任務のために私の傍を離れた。

「三年かかる仕事なんだ。待っていてくれるかい?」

 彼は苦しそうに顔を歪めてそう言った。私は嫌だと泣いた。どうして三年も離れなければならないのか分からなかったからだ。

 二人の平行線は一月以上続いた。やがて彼は一つの提案をした。

「子供を作ろう」

 自分の任務終了に合わせて産んで欲しいと彼は言った。

「出産に立ち会いたいんだ。君を一人にはしない」

 彼を引き止める術がないことを私は悟り、提案を受け入れた。彼の子供を宿すことで、寂しさから救われるとも思った。自分にも大事な仕事が任されたのだ言い聞かせることもできた。何よりも二人の子供を作ることは、彼が火星人として生きる選択をしたということだ。地球を捨てて火星にやってきた彼が、実は地球を恋しく思っていることは分かっていた。その彼が私のために再度地球を捨てると宣言したのだ。これ以上引き止めて彼を失いたくはなかった。

 彼は仕事の中身を一切語らずに出て行った。私は寂しさに耐えて暮らし続け、彼が帰って来るのに合わせて、彼の精子を使い、人工授精によって妊娠した。順調に育てば、彼が戻って二月後に出産する予定だった。

 クエンティンは続けた。

「本来、その遠大な計画は地球が行っていたものなのです。しかし火星との関係が緊張状態に陥ると、地球は計画そのものを表向き凍結しました。しかし、火星を平らげた時のために極秘裏に計画は進められていたのです」

「地球が進めている計画が火星の独立とどう関係するというのですか?」

 依然、話の方向が読めない。

「火星のテラフォーミングに関係する計画なのです」

「テラフォーミング……」

「そう。ですから、我々は何としてもその計画の成果を奪取しなくてはならなかったのです。火星のために進められた計画です。火星が得てこそ意味あるものとなるのです」

 偉大な英雄はそう言って私の目を覗き込む。同意を求められているのだと分かるが、私は抗い先を尋ねる。

「私には判断できません。でも、そんな重要な秘密をどうやって手に入れるというのです」

 クエンティンは私の言葉に顔色一つ変えずに話を続ける。

「地球にも我々の独立を支援するグループがあります。彼らは長い時間を掛けて、ついに地球が隠し続けていた秘密を入手したのです。その秘密はさらに幾多の犠牲を払いながらも月まで持ち出されました」

「では、あの人はその秘密を……」

「はい」

 クエンティンは強く頷いた。

「我々が長く待ち望んでいたその秘密を、火星まで無事に運ぶことが今回のミッションであり、彼が志願した任務でした」

 だから三年だったのだ。現在の火星の宙航船の能力では、地球まで片道一年と少しかかる。往復で二年強。任務の性質上トータルで三年の計画だったのだろう。

「あの人は何を運んだのですか?」

「未来を。火星の明日を運んだのです」

「火星の明日って」

 意味が分からない。

「月で親火星派のグループから荷物を受け取った彼は、地球の追跡をかわしながら火星を目指し、あと一歩のところまで来ていました。しかし、火星の大気圏に入るところでついに追っ手のミサイルを受けてしまったのです」

「ああ!」

 なんということだろう。本当にすぐそこまで帰ってきていたのだ。私の手にあと少しで届くところまで。

「彼を乗せた船は被弾し、コントロールを失ったまま、希薄な火星の大気に燃え尽きることなく地表に墜落しました」

 思わず両手で顔を覆った。彼の遺体は燃え尽きてしまったと言う。私が求めて知った事実はあまりにも残酷だった。それでも嗚咽を堪えて指の間から声を絞り出したのは、彼が危険を冒してまで関わった任務の結果を知るためだ。

「あの人が運んだ秘密は、どうなったのです?」

 クエンティンが口を開いた時、「到着デス」とロボットが告げ、地走車が止まった。

「ミッションの結果をお見せします。気密服を着て下さい」

 私は火星用の簡易気密服を身に着けた。服は妊婦用に特別に作らせたものらしく、身体に負担無くフィットした。私の装備を確認すると、クエンティンは外に出た。私も続く。火星の砂にくるぶしまでブーツが沈んだ。

「ご覧なさい」

 ヘルメットのスピーカーからクエンティンの声が聞こえた。クエンティンが指さす先に顔を向けた私は、そこにあるものが何なのか瞬時には分からなかった。火星の大地には存在するはずのないものだったからだ。目を凝らすと短い杭が何本も立っているように見えるが、決して単なる杭ではない。

「あれが何であるか、分かりますか? あれこそが火星の明日なのです」

 私は自分が身重であることも忘れて駆け寄った。

「まさか」

 そこには私の膝下くらいまでの高さに育った木が十数本生えていた。伸びた枝には先の尖った肉厚の緑葉が数葉ずつ広がっていた。

 ゆっくりと追い付き、横に立ったクエンティンが言った。

「彼が運んだのは火星で育つことのできる植物の種子でした。発芽前のものは回収しましたが、いくつか散らばっていたのでしょう。この地で芽を出し、根を張りました」

 私は一本の木の前に跪いた。危険を冒してまで彼が志願した理由がやっと分かった。

 見せたかったのだ。自分の故郷を見せたかったのだ。三人で一緒に見たかったのだ。

 ――見たいかい?

 ――見たい。

 ――きっと見せてあげるよ。

 ――必ず見せて。

「これが地に育つ緑だよ」

 彼の声が聞こえたような気がした。

 細い木々は真っ直ぐに伸びている。見つめるうちに、像がぼやけた。目を擦ろうと手の甲を当てたが、ヘルメットに遮られてできなかった。

「火星の未来の小さな一歩がこの木々です。偉大な任務を完遂した彼が受けるべき報酬と名誉を、代わりにあなたに受け取っていただきたい。そのためにお呼びしたのです」

 クエンティンの言葉に、私は首を横に振って答えた。その拍子に潤みが零れ落ち、視界が鮮明になった。

「報酬も名誉もお腹の子に与えて下さい」

「しかし……」

「いいえ。私は何も要りません。けれど許されるのなら、一つだけお願いがあります」

「どうぞ。仰ってください」

「この貴重な木々が育ったら、」

 そう。彼が運んだこの木がしっかり育ったなら。

「その一本の幹にあの人の名を刻むことを許してもらえませんか?」

 皺の奥に埋没したクエンティンの両目が一瞬見開かれ、静かに細められた。

「最高議長の権限でお答えしましょう」

 クエンティンの手が静かに肩に置かれた。

「あなたの手で刻んでおあげなさい」

 断熱素材の気密服越しに置かれた老指導者の手はなぜかとても温かく感じられた。

「いつの日にか、この星が緑溢れることはあるのでしょうか?」

「必ずや、その日が訪れることを私は信じています」

 彼が運んだ明日がこの星に行き渡るには、長い時間がかかるだろう。でも私も信じたい。火星が緑溢れる惑星に変わり、お腹の子の子孫が命溢れる惑星に遊ぶ日が来ることを。そしてその未来を見渡すほどに高く伸びた木々の一本に彼の名が刻まれていることを。


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