Avenue
もう十一月だというのに、街路樹の葉はきれいに色づいている。きれいにはきれいなのだが、十一月には普通なら色褪せた葉が散り始めている筈なのである。そしてその通りを歩くのが僕の好きな情景であるのだが、これでは来月まで持ち越しのようだ。
日曜日の昼下がり。
大通りから一本入った道にある行きつけの喫茶店で、僕はブレンドコーヒーを飲んでいる。
『喫茶マイセン』の常連になったのは、約三年前、ある人に連れられて、たまたま入ったのがきっかけだった。
この店はマスターの趣味でやってるような店なので、繁盛しているとは言えないが経営を維持するには十分足りているらしい。
店内はマスターがあつめた西洋のアンティークものがいたるところに飾られている。はっきり言って全く価値はわからないのだが、そこに描かれた少女の優雅な姿や花々を見ると心が落ち着くのは事実だ。
僕はいつもの窓側の席に座る。ここの席は通りを見渡せて、店内でコーヒーをすすりながら外を通る人々を眺めることができる。
通りは会社勤めの人や学生や老人と、老若男女を問わず様々な人々の人生が行き交っている。
今日は休日ということもあって、若者のカップルが目につく。
カップルを見る度に、僕は初めてこの店にいっしょに来た時の人物の顔が浮かんで来る。
「おかわりどうですか?」
顔にたっぷりと髭を蓄えたマスターがいつの間にか側に立っていた。
「じゃ、もう一杯」
カップを手渡すと、マスターは微かに笑ってカウンターに戻った。
マスターがコーヒーをいれる姿はいつ見てもかっこいい。サイフォンなどの機器を駆使して一杯のコーヒーをいれる姿は、男くさいと言おうかダンディと言おうか、とにかく自分には無い大人の雰囲気をマスターは持っているのである。
僕がもっと大人であったらあの人とあんなことにはならなかったのだろうな……。
あの人――淳美さんとは大学で出会った。
僕が大学生になって間もなかった頃のこと。
僕は慣れない大学の構内をうろうろしていた。ある講義室に向かっていたのだが、道がわからない。
そこで近くにいた人へ尋ねた、その人は長い髪を上で束ねた女の人であった。
「すいません、○○○室って何処ですか?」
「〇〇〇室?――君、新入生?」
「そうですが」
「やっぱり。私が新入生の時も迷ったのよね。ここの大学広いから。じゃあ付いてきて、案内してあげる」
「あっ…はい、お願いします」
僕は初めて年上の女の人といっしょに歩いた。もちろん母親や先生などを抜かしてである。なので、僕は大学入試時なみに緊張してしまった。
そんな僕に彼女は故郷を聞いてきた。ある県名答えると、何と彼女も同県出身だったことが判明し、故郷話に花が咲いた。
楽しい会話もそうこうしているうちに目的地に到着してしまった。
「それじゃあね」 と、去っていこうとする彼女に僕は、このままでは駄目だという考えが頭を一瞬のうちに巡った。
「あの!」
彼女が振り向いた
「メル友になってください!」
彼女は驚いた顔をしたが、すぐにくすくすと笑いだしてしまった。あまりにも僕の様子が面白かったのだろう。彼女は快くメルアドを交換してくれたのだった。
それからは、頻繁にメールのやりとりをするようになったし、たまに構内で出会った時には昼食を共にすることもあった。
確実に淳美さんとの距離を縮まっているように感じた。
しかし淳美さんと話をする中で、淳美さんには僕の入学するのと入れ替わりに卒業した彼氏がいたことが分かった。その彼氏との仲は今も続いてるとのことであった。
そのことを知っても僕は、淳美さんと距離をとろうとは全く思わなかった。逆に淳美さんへの想いを一層引き立たせた。
九月。
大学から帰るために駅に向かって歩いていた時に、淳美さんの呼ぶ声が聞こえた。
これからお茶をしないかと誘われた。もちろんOKをして、とある喫茶店に連れていかれた。そこは大学と駅を繋ぐ賑やかな通りとはまるっきり反対側の、大学裏の車の行き来が多い通りの所にあった。僕がこっち側に来たのは初めてだった。
さぁ入って、と淳美さんは僕を招き入れる。どうやら淳美さんの行きつけの喫茶店のようだ。それが今僕のいる喫茶店なのは言うまでもない。
席は窓側の席で向かいあって座った。
間もなくしてマスターが来て淳美さんがエスプレッソを注文し、僕はメニューの一番上にあったブレンドを頼んだ。
「淳美さんはこの店の常連なんですか?」
「うん。たまたまこの通りを歩いていたら、感じの良い店だなーと思って入ったら、本当に落ち着いた雰囲気の店で気に入っちゃって」
たしかに店の中を見渡してみると、いかにも映画やドラマで主人公が常連にしている店のような雰囲気のある店であった。
「ねっ、良いお店でしょ」
僕は素直に頷いた。
「お待ちどうさま」
ソーサーにのった二つのカップが置かれる。早速飲んでみるとこれが実に美味しい。今までに飲んできたインスタントとは比べようがないものだった。
ブレンドコーヒーに舌鼓を打っていると、
「私のカレはね、コーヒーが大好きなの」
にわかに淳美さんが彼氏の話を始めた。
「カレは毎日欠かさずコーヒーを飲むの、馬鹿みたいにね。それで、いつだかに何でそんなにコーヒーを飲むのって聞いたの。そしたらカレは『死んじまうからだ』って真面目に言うの。ホント馬鹿……」淳美さんの表情はいつもより明るく見える。喫茶店の灯かりのせいではない。
何故淳美さんは僕に彼氏の話をするのだろう。僕と話しているのに……。
「淳美さん」
「っむ?」
「彼氏のこと好きですか?」
「んー、なんだか言ってもやっぱりカレのこと好きかな……」
そう言う顔の頬はほころんでいた。
僕の心にありありと嫉妬心が首をもたげたのを感じた。
そして僕はその嫉妬の矛先を淳美さんに向けた。「じゃ、僕はどうですか?」
「えっ!?」
淳美さんの下がっていた頬が上がる。
「僕はただの年下の友達ですか?」
「……そうね。あなたは私の大切な友達よ」
「そうですか……。でも僕は淳美さんのこと好きです」
淳美さんは目を丸くした。それは僕に恋愛感情が全くなかったことを物語っていた。
「――あなたとは良い友達でいたいは」
「じゃあ、僕は恋愛対象に入らないんですか?」淳美さんはとても困った顔をしたが
「多分……そうよ」
と、告げられた。
だがその言葉が言い終わらないうちに、自分の口を淳美さんの唇に押し付けていた。
その刹那、淳美さんの平手が僕の頬を打った。
「何すんの!」
僕は淳美さんの平手でようやく我に返った。
「あの……僕そんなつもりじゃ」
淳美さんは肩を上下していたが、徐々に落ち着いてきて
「ごめん、私も悪かったは。でもあなたのしたことは最低よ」
宣告された。
体全身に罪の意識が覆い被さってきた。今までの自分とは全く違う自分がいたみたいだった。
「すいません」
ぼそっと呟いて僕は席を立って店を飛び出した。
後ろから淳美さんの声がしたが、それを振り払うかのように全力で走った。それに淳美さんにあんなことをした自分をからぐり捨ててしまいたかった。もっと違った――一瞬の感情に流されない――付き合い方をしていればこんな結果にならなかったろうに…………。
「どうぞ」
また、マスターの声で現在に引き戻された。
「どうも」
一口コーヒーを口にふくむ。
ブレンドコーヒーを注文したのは久しぶりだ。ブレンドは僕にとって、罪の味なのだ。
あの後、淳美さんとの交わりを完全に絶った。
ほんのたまにちらっと姿を見る時にも、まともに直視することすら出来なかった。
それからというものの、僕は女性を避けるようになってしまった。気がつけば淳美さんは卒業していた。
また女の人を傷つてしまうのではないか。それが怖くて女性との接触を極端に避けるようになった。
時には女性が恋しくなる時もあったが、僕はその度にこの店に来て、自分の罪を確かめていたのだった。淳美さんがここに来るかもしれないいう考えは少なからずあったたが、それはありえないという気がした。
たがそれも今日が最後だ。
僕は席を立ちカウンターへと行く。
「マスターご馳走さま」
「ありがとうございました。またお越しください」
「あのマスター、俺もうこの店来ないから」
「…………そうですか、どうやら吹っ切れたみたいですね」
マスターとは面と向かって話したことは数えるほどしかないない。しかし、いつも僕のことを気にかけてくれていた唯一の人物だ。「うんまぁ、……――マスターのコーヒー美味しかったよ」
「ありがとう。慎也くん頑張りなさい」
「はい」
店のドアを開け、木枯らしが吹く大通りを歩く。
待ち合わせ場所はすぐそこだ。遠くからその場所を眺めると、僕とは反対側の通りにいた彼女は寒そうに肩を縮めていた。
彼女はまだ僕に気付いていない。今日は付き合うことになって初めてのデートである。先日付き合い始めたばかりなのだ。彼女と出会って、僕は変った。
彼女の優しさは、僕の女性への恐怖を一つ一つほぐしてくれた。やはり僕は女性の優しさに餓えていたのだ。
すると彼女は僕に気付き手を振る。それに手を上げて応える。
彼女の側に行くために信号を待つ。そのあいだ、僕と彼女の間を車群が猛スピードで交差していき、彼女の顔が見え隠れする。
この少しの待ち時間さえもいじらしく思えてきてしまう。
信号が青になり、彼女の元へと歩みよる。
また木枯らしが大通りを通り抜け、葉がひらひらと舞い落ちる。
―――やっと秋らしくなってきたな。
今日も通りは人生が交差し、すれ違っていく。