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恋を一つ、諦めるということ。

作者: 一夢つゆ

恋を一つ諦める。

その決断を数え切れないくらい心に浮かべても、予定は未定。結局出来なかった。

諦める。

大事にしまっておく。

捨てる。

再挑戦する。

諦める。

勝手に傷つく。

ーー今思えば笑える。私は、弱虫で、プライド高くて、自分の殻を破れない、愚かな人間だと、笑えて仕方ない。


「香菜、どうした?」

私は元カレの家に来ていた。

私は、大学時代をこの人と、この街で過ごし、社会人となった今も、同じこの街に住んでいる。お互い県外出身なのに、なぜかこの街で就職した。

なぜ地元に帰らなかったのか、それは知らない。そういう話をしないままだった。私はただ、実家に帰りたくなかったし、住み慣れたこの街に居続けたいと思っていたからだ。

だが、それも終わる。

「お別れを言いに来たの」

けして表情は重くならないように、へらっとした笑いを浮かべた。

「…転職だっけ」

ぽかんとした彼。

「そう」

私は住み慣れたこの街を、離れることにした。そこにやりたい仕事がある。だから、ここを去る。せめて最後に顔だけでも見たかった。

「これ、よかったら食べて」

と、手土産の饅頭を渡した。

「とりあえず、上がんなよ」

私は戸惑いながらも頷いた。

上がって、何を話すのかわからないが、まあ、最後なんだし、話を聞いてもらおう。

「なんか飲む?」

「あー、お構いなく」

とは言うが、夜も深まって来たことだし、彼にビールを見せられるとつい手が伸びてしまう。

私たちはかれこれ2年、いや、もっとだろうか、別れてからもこうして2人で夜に飲んでDVDやテレビ番組を見て過ごすことが続いていた。

どういう関係かなんてわからない。やり直そうと言ったわけでも言われたわけでもない。だから、お別れを言いに来た、という軽い発言で良いのかも、わからなかった。

「次の仕事ってどんなんだっけ」

つまみを探しているのだろう、ガサゴソ箱をあさりながら、彼は尋ねて来た。

「接客業。ホテルのコンシェルジュ」

「コンシェルジュ?なんかかっこいいな」

そう言って、チー鱈とスルメを出して来た。

定番のつまみがあることが珍しかったので、あれ?と問うと、先日職場の人と宅飲みをした余りだそうだ。

「じゃ、転職おめでとう」

カツン

鈍い音を立てて乾杯した。

「そういえば、明日大丈夫?」

彼は今更そう聞いてくる。

「もうプー太郎だから暇です。そっちこそ」

「まあ、大丈夫だよ」

「悪いね、急に」

「いいよ」

そして彼はつけていたテレビに目を目を向けて、お笑い芸人のコントに耳を傾けながら、リモコンで操作を始めた。録画リストの画面を開いて、選び始める。お笑い芸人の声も消え、不意に静寂に包まれた。

いつもと同じ流れだった。

私たちには、過ごし方がそれしかない。

「何観たい?」

「えっと、」

ちょっと焦っていたこともあって、頭が働いていない。いつも彼は私に選ばせてくれる。優柔不断だってわかってるくせに。

「あー、うーん」

こういうのが空気を重くしてるんじゃないかと気が気でなくて、いっそもう決めてくれよと思ってしまう。

ただ今回は前々から観たいのがあって救われた。アクションもので、好きな俳優が出ているやつ。この間初めてテレビで放送された映画だ。

「これ観た?」

「観てない。いいよそれで」

彼の優しい笑顔に、私は思わず微笑み返して、自分でリモコンの再生ボタンを押した。


彼は、イケメンの部類だと思う。

知性に溢れてて、スポーツマンらしい体つき。爽やかで、誰からも信頼される、出来た人だと思う。まあ、それも、未練がましくなってる要因なのだろう。今まで出会った人の中で、確実に1番良い男だと思う。彼に似ている俳優も好きで、俳優が好きだから似ている彼が好きなのか、彼が好きだからその俳優にどきっとするのかは忘れてしまった。もう、色々な想いをごちゃごちゃに混ぜすぎてしまったせいだろう。

お互い伸ばしていた足がふと当たる。

だけど、それを恥じらって離れることはしない。恥ずかしいのだけど、意識していると思われる方が恥ずかしいので、いつも平然と振る舞っている。内心、いつも映画どころではないのだけど。

私は息を潜めた。

呼吸がうまく出来ない。

知り合ってから5年。未だに私は、この人の前では、どうやって息をして、どうやって唾を飲むのか忘れてしまう。


『初めまして』

初めて出会ったのは、バイト先でだった。友達がもともと塾で働いていて、人員が足りないということで、紹介してもらった。私は教室ではなく、個別対応のスタッフとして雇ってもらえることになった。友達の同期だという人が、事務室に入ってきた。それが彼だった。

『初めまして、森田香菜です』

『鹿賀直人です』

爽やかな人だと思ったけれど、さして興味はなかった。腹黒いと友達から聞いていたからだ。

私は絶対にいじられたりするもんか。

って思っていたのに、知り合ってからずっと、彼は意外にも私に対して紳士的だった。関わりが少ないというのもあったし、浅い関係にありがちな、社交辞令の塊だった。

付き合う前、たまにバイト仲間で宅飲みをしていたときから、そういえば、たまに足が触れていた気がすると今更になって思い出す。


「香菜、…香菜」

「え!?」

ぼーっとしてたらしい。彼に呼ばれるのに驚いてしまった。

「ごめん、なんか言った?」

「そこ観にくくない?」

テレビの斜め前に座っている私を、彼は自身の座っているソファに招く。

そこに座りたくないからここなのよ。机を挟んで、斜め前に陣取るのは私の癖だ。だからいつもこのやりとりをしている気がする。

だがしかし、今日はここでいい。私は今日は流されまい。

流されま…

自分に言い聞かせていたら、いきなり彼が立ち上がって、ぐいっと私を抱えてソファに座る。

「は…い…?」

彼は笑うだけで何も言わない。

私は今日はあそこで観たいの

そんな言葉も出ない位、驚いてしまった。

肩が触れ合う。無言でテレビに向かう私達。

ああ、流されそうだ。

それを期待している自分と、それを拒みたい自分がいて、葛藤しながら腕を伸ばしてビールを煽った。

「引越しいつ?」

彼は聞く。

「来週」

「もうすぐだな」

「うん」

そして沈黙。

ああ。素直に映画を観ていていいのか、この話を続けていいのか。ただただ戸惑いながらも、私たちは黙って映画を観続けた。




出会ってから1年ほど経ったある日のこと。私たちは2人だけで、飲んでいた。

そもそも、部屋が見たいという彼の押しに負けたのが発端だった。バイト先のメンバーと遊びに行くのに、車で迎えに来てもらうだけのはずだったのに、私の準備が遅かったせいだ。

「いいよ、まだ時間あるし。へえ、あ、お酒好き?」と私の棚を繁々と見ていた。

(車で待っててよもう!)

そんなことがあったために、帰り道、再び車で送ってもらう途中、彼が私の家にあるお酒の話をし始め、二次会しようということになった。そのとき同じ車に乗っていた後輩と三人で。

ところが後輩は明日早いからと一杯飲んで歩いて帰って行った。

どうしてくれる。

『森田さんさ、彼氏作らないの』

『そんな余裕ない』

『さみしくならない?』

恋バナ好きなのね。そういう甘い顔で来ちゃうんだね。

私は忘れていたのだ。彼が黒いということを。というか、男だということを。

あまりにも、無いと思い込み過ぎていたから、急に距離を縮められて驚いていた。まあ、最近よくみんなでワイワイしていたけれど、一対一は初めてだ。

『抱きしめられるだけでも安心しない?』

はい??

まあ、別に手を出されたわけでもない。日本酒を飲んでほろ酔いになった私たちは、雑魚寝をして静かに朝を迎えただけだ。

所詮、まだ幼い大学生だ。大人になりきれない、もどかしい歳の。

だから私は、ただ一度、ぽんと頭に手を置かれて、それで意識してしまったのだろう。

私は何度も寝返りを打ち、隣で寝ている彼の寝顔を眺めては、なんだか悔しい気持ちになった。

どういうつもりだお前は。

チャラい。爽やかな笑顔なのにイヤらしい気がする。その一面にちょっと楽しんでる自分がいた。


付き合い始めたのは、私が大学の研究で帰りが夜遅くになってしまった日のことだった。

その日、私は、アパート前で知らないおじさんに声をかけられて、思わず彼に救いを求めた。

すぐに部屋に戻って部屋を知られてはまずいと考える間も無く、走って部屋に入る。幸い、追っては来なかった。

『鹿賀君、ごめん、起こした?』

『今塾の帰り。どうした?』

『し、知らない人に声かけられて、怖くて、ごめん』

乙女ぶりたいわけではない。だけどまさかこのサバサバして声をかけられそうもないと自負していた自分が声をかけられるとは思ってもみなかったのだ。

彼は、私の家に来てくれて、

『着替えたいし、今日はウチに来る?その方がいいでしょ』

と頭を撫でてくれた。

スーツ姿で現れた鹿賀君に、私は恋をしてしまったのだろう。

初めて2人で過ごしたあの晩以来、2人きりで会うのは一ヶ月ぶりだった。

一ヶ月間、なぜかバイト先でも思わず距離をとってしまい、また彼も、何か意識しているように感じた。

だからかもしれない。彼なら来てくれる。彼に甘えたい、と思って電話をしたのだろう。その日、私たちは付き合うことになった。


私が彼の家にお邪魔して。彼はすぐに着替えて来た。

ラフなスエットの格好もまた素敵だった。

スーツは見慣れていたはずなのに、それすらもカッコ良く見えたし、ちょっと自分、おかしいと下を向いていたら、私がまだ怖がっていると思ったのか、彼は私に近づいて、頭に手を添えながら顎を乗せたらしい。

『大丈夫?』

俯く自分の視界に入ったのは、スエットとゴツゴツとした大きな足。

あ、この人、思ったより身長高かったんだとそんなことを考えていた。やはりそれは憧れだろう。

私は身長がまあまあ高い方で、大概女の子を見下ろす。だからこそ、頭を撫でられることが珍しくて、ドキっとする。

『鹿賀君…!』

私は大丈夫と少し強めの口調で伝えて、一歩退く。

ドキドキしてる。

鹿賀君は、飯食った?と聞くので、まだ、と答えた。

残り物だというシチューを温めてくれ、私たちはテレビを見ながらそれを味わった。

そういえば、ソファで肩を並べたのは、この日が初めてだった。



今もまた、肩を並べてはいるけれど、あのときと違うのは、自然と頭を寄せあっていることだった。

映画のCM中に、彼はトイレに立った。

私はというと、正直気が疲れてホッとしたい気分だったために、ソファに雪崩れ込む。触れ合うと安心はする。だけど、反面、ちょっと気にしてしまう。重く無いかとかね。だから正直疲れていた。

だが男の人のトイレとはなぜこうも短いのか。休む間も無く戻ってきた。

「眠い?」

彼は笑って私を押しのけてきた。

そうやって微笑んで、また私をそそのかすんだからこいつは。

恨めしいので、むっと口をへの字にしてにらみつけた。映画は始まっていたが、ちょっともうどうでもいい。

「眠くないもん」

「嘘つけ」

私はビールを飲もうとしたのだけど、伸ばした手を掴まれてしまった。

あ、…キスされる。

そう思ったと同時に、ソファの背もたれと彼の唇の感触が伝わる。押しつけられて、私は、目を閉じた。


違う、こんなことがしたくて来たわけじゃない。

それは、別れたあとも遊びに来て思うことだった。

ちゃんと、もう友達なんだと確認したい自分。

私は軽い女じゃないと訴えたい自分。

だけど、愛されたいと願う自分。

それがごちゃごちゃだった。

そしていつも最後の自分が勝つ。

愛されたい。


振られたから未練が残ってるんだろう。今まで振られたことがなかったから悔しいだけだ。

そう思う。

そして、誰よりも身を尽くしてきたからだろう。彼の都合を最優先にし、彼の性癖を受け入れた。天然の彼に傷つけられたこともあった。本人に自覚はない。それを責めることも出来なかった。そんな傷が、見返りを求めているだけだ。

だけどもう、私の魂が彼を欲していると思った。


私は、友達にボヤいた。たくさんボヤいた。

『次に会う約束もなしだよ?どう思う?私ばっかり連絡してさ』

『この間会ったのいつ?』

『2週間前』

いつになったら連絡をくれるんだろうこの人は。

『忙しいってわかってはいるんだけどさ』

私はそう言って学食の豚汁をすすった。

バイト先のメンツで、私たちのことを知っているのは彼女と数人だけ。バレるような雰囲気は全く見せていなかった。後になってだいぶ知る人も増えたけど、多分気づかないまま卒業した先輩や後輩もいたに違いない。

ちょっとクールなところが、お互いにある。

『デートしたいよー』

『いっつもお家なの?』

『うん…』

『香菜からいいなよ。行きたいところあるって』

『やだー。もうやだー。今度は絶対向こうから連絡来るまで連絡してやらないんだ』

家にしか連れ込まない彼も彼だが、私も私である。

だけど、会えるのは夜くらいで、大概私から遊びに行っていい?と言うからだ。連れ込むとか、そういうわけではない。でもそれでいいと思っている辺りがむかつく。だから連れ込む人と思われていればいいんだ。

と、いかにも子供だった。


まあ振り返れば、私が研究で忙しいから、それも気にして連絡して来なかったのだろう。

そんな彼だから、たまに連絡くれると嬉しくて嬉しくて、その思い出が、私に未練をくれた。

ダメンズかもしれない。

天然なだけかもしれない。

疑いと、信頼を繰り返し、ただただ愛しいと悶えた。



私は彼のキスを受け止めながら、涙を流していた。こうやって、泣きながらキスをするのは、疑う自分が彼を責めたててなだめられたときと、別れてからすぐに辛くなり彼の元を訪ねてなだめられたとき以来だった。

キスでなんでも解決すると思うなよ。

好きだと、言われることがほとんどなかった。そりゃ付き合ってるんだから当たり前だろうと思ってたかもしれない。だが違う。女の子は言葉が欲しい。

だけどそういう私も、言えてなかったのだ。

「香菜…?」

「ごめん、さみしくって」

「そんなに遠くないし、また会えるよ」

社交辞令だ。それを本気で捉えるほど私も馬鹿じゃない。

何より、私自身が終わりにしようと思った。

「言ったでしょ、お別れを言いに来たって」

お別れなんて何度しようとして失敗したことか。

近くに彼がいて、すぐに会える距離にいるからこそ、お互いに気になったし、会っていたのだ。

だけどもう、ハッキリと言ってくれないのなら、終わりにするしかない。正直、転職はその好機だと感じていた。神様が、私に忘れなさいと言っているような気がしたのだ。

彼はテレビを消して、私を抱き寄せた。私はぎゅっとシャツをつかんで、彼の匂いと体温を感じ、上を向いてキスをした。自分からするのは珍しかった。何度も重ね合わせ、ちょっと強引にソファに押し倒す。

「ねえ、覚えてる?」

キスの合間に私はそう告げ、

「ん?」

その返事で私は彼の目を見てキスを止めた。

「私がまだ鹿賀君って呼んでた頃、こうやって、キスして、無理やり名前呼ばせたよね」

「…、覚えてるよ」

「今間があった」

「思い返してただけだよ」

彼はちょっと眉間に皺を寄せた。

「どうした?」

試すようなことをしたから怒っているんだろう。

首を横に振って、ぎゅっとしがみついた。

彼はこのまま続きをするだろう。そうじゃなくて話をしたい。もちろん、嬉しいけれど、虚しいだけだ。言葉のない、ただのセックスなんて。

「ごめんね、私のワガママばっかり聞いてもらって。いっつもこうやって押しかけて」

もはや、私は自分から誘うことに躊躇しなくなっていた。といっても、1ヶ月に一回くらいなのだけど。

「会えればなんでもいいよ」

彼がそう言うから、酷い人だなと私は苦笑いした。

理由がないと、私は会えなかったし、多分彼もそうだった。

理由はなんでもいい。

会えればそれで。

「私は理由を考えるのに疲れたよ」

「うん」

「こうやって会えるのが嬉しくて、ついつい理由作ってたの」

「うん」

私たちは不器用だ。

彼はまた、キスを一つ落とした。

こうやって彼は伝えてくる。

だけど私には、ちっともわからない。

彼を信じきれなかった。

私は、誰よりも、自分が嫌いだから。

自信がないから。

自惚れる自分が嫌いだから。

「私のこと好きだった?」

「うん」

うんだけじゃわからないんだよこのやろう。

だけど今までと違うのは、それだけじゃないというところ。

「好きだよ。香菜のこと、大切だった」

私は、全身の血液が心臓に集まって来たような感覚に襲われた。どくっと音を立てて、熱が生まれた。

温かいものが頬を伝う。

「ごめん、嬉しかったよ、香菜が来てくれて。それが香菜のためじゃないってわかっていながら」

彼は、私の頭を撫でながら話し始めた。

押し倒したままの私は、彼の心臓が早いことに気づく。彼はいつだって、こうやって抱き合うときには鼓動が速かった。

「だけど、俺じゃ幸せに出来ないと思った。いつも、泣かせてた」

「私が、求め過ぎてたから」

「ごめん、応えられなくて」

「ごめんはもう昔聞き飽きた」

私たちは、喧嘩というものをほとんどしたことがなかった。

だから、一度だけ喧嘩をしたときは、何やっちゃったんだろうって、焦って、嫌われたことにビクビクして、余計に歯車が噛み合わなくなったのだろう。

彼は、怒りすら、余り伝えて来なかった。私がイラつかせる度に、静かに冷めていったんだろう。

「幸せだったよ。ただ、本心がわからなくて、私が勝手に落ち込んだだけ」

「香菜、俺、」

彼の目が揺れ動いた。

「本気になれなかった」

幸せにしたいと思えるほど、本気になれなかった。

そういうことだろう。

「わかってる。私ばっかりだったってわかってたよ」

だって、大学生だったんだから。子どもだったの、私たち。

私は、力が入らない手をなんとか握りしめ、彼の胸に押しつけて起き上がった。

「それが聞けてよかったよ。これで心置き無く、引っ越せるよ」

私はいつの間にか外されていたらしいブラのホックをかけ直す。

相変わらず手だけは早い。

「帰るね」

「歩いて?」

「自転車で来たから」

まあまあ、歩くには距離がある。

今日は飲んでしまったから送ってはもらえない。

と言うか、送ってもらいたくなくて自転車で来たのだ。飲酒運転にはなるが、そう酔っ払ってもいない。でも長い時間かけて歩いてもいい気がする。

「ビールご馳走様」

「こちらこそ、饅頭ありがとう」

私はもう、顔も見れなかった。

玄関までスタスタと歩く。そのくせ、じっと突っ立ってしまった。

苦しい。もう最後だと。

振り返れば、彼が立っていた。

「直人、最後にもう一回だけ、キスして」

滅多に言わない彼の名を紡いだ。結構、勇気がいるから、喉がかすれていた。

これで終わりにするから。帰りながら泣きわめいてやるんだ。こんな時間だ、誰にも見えないし、住宅街以外なら迷惑にもなるまい。

彼の優しい、暖かなキス。

思わず抱きついてすがった。

すがり、突き放して、玄関を出た。

一瞬立ち止まり、また早足で駐輪場に向かう。

こんなとき、追いかけて欲しいと思う。そしたらどんなに嬉しいことか。

だけど現実はそううまくはいかない。

今まで、彼が追いかけて来てくれることはなかった。

そうわかっていたから、私は背後から音が聞こえて目を見開いてしまった。

大きく振り返ると、もうすでに彼がそばに来ていた。

「こんな時間に帰ったら、また変な人につきまとわれるだろ」

なんだか怒っているようだった。

「でも、」

「せめて朝に帰って」

涙が止まらなくなっていた私の手を掴んで家に連れ戻そうとする。

「やだ!戻んない!帰る!」

頭の片隅で、近所迷惑だと思いつつも叫んじゃう。こういうの、嫌いなはずだ。

なのに彼はぐいっと引っ張っていく。何が起きてるのかよくわからない。私は嫌と言いながらおとなしく従っている。自分の気持ちすらよくわからないのだ。

抑止と期待がまた混じり合って、気づけば涙が止まっていた。

バタン

ドアが閉まって、私を振り返った彼は、そのまま私の体越しに鍵を閉めた。足がガクガクする。

「なおと…」

「振り回してごめん、だけどまだ、なんか、いろいろ整理出来てない。もうちょっと待って」

「何を待つの…?」

「……」

自分でもわかってないらしい。

「多分、待っても何も解決しないよ」

「最後にしたくない」

本当は、安心し切ってた。この関係が終わらないことに。

わかっているだろうと思ってた。

彼女だっていなかったし、こうやって夜会ってたから、付き合ってるようなもんだって。

そういう彼を私は驚きの眼差しで見ていた。

「それが、先月いきなり転職するって言い出して、音沙汰ないかと思えばいきなり予定より早く引っ越すって?正直イラついた。なんでいっつも勝手に先走るんだよ」

「ご、ごめんなさい…」

「一歩いつも引いてるから、悲しいんだよ。自分の領域に入って来るようで入ってこない」

そのときちょっと冷静に、そんなことを考えていたのかこの人はと思わず笑ってしまった。

「珍しいね、怒るなんて」

「あのな…」

まあ怒り方も、彼らしく、落ち着いた物言いだが、突き放された言い方じゃないからこそ、笑えた。嬉しかった。

愛されていたんだなと実感出来たから。

「やり直したい?」

彼は尋ねる。その表情は、ちょっとさみしげだった。複雑そうな表情といった方がいいのだろうか。私にはわからない。

私が答えを考えあぐねていたら、彼がため息をついて、靴を脱いで私に上がるよう促した。彼は部屋に戻り、映画の続きを再生し始める。

将来とか、遠距離とか考えることはいっぱいあった。だけどいつもそうやって、頭でっかちな付き合いをして、自己完結して、勝手に拗ねて。

でもきっかけは、いつも距離を縮めたきっかけは、衝動的だった。

衝動的に彼を求め、考えれば考えるほど、距離を感じた。


恋を一つ、諦めるということ。

それに振り回されていた私は、やっぱり、諦めきれなかった。

報われない恋が絶対あるわけで、それでもいつか数年後、数十年後に、私の甘酸っぱい思い出に変わり、私を美しくするのだと、そう信じていた。

多分、歴史は繰り返される。また、連絡が来ないってワガママを言い始めるだろう。

だけど多分、前と違うことは、ちょっと言葉にし合えるようになったこと。

諦めるのは、これでもやっぱり駄目か、と気づいてからでもいいような気がする。結婚を決めなきゃいけないというわけではないのだから。

私たちはなぜかお互いに怒りながら映画を見ていた。

積年の恨みつらみがようやく発散されていた。

だけど彼がまた勝手にブラのホックを外すから、私は怒って、笑って、キスをした。

映画ではすでにヒーローとヒロインのラブシーンが始まっていた。





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