くだらなかったセカイのカオリ
腕時計。
短い針は12の少し手前を指している。
長い針は11をぴたりと指している。
どちらの針も完璧に12を指したら、わたしは死んでしまう。
不治の病だかなんだか知らないけど、明日の始まりには死んでしまう。
死ぬとわかっていても、抵抗はしなかった。
わたしは死を受け止めていた。
『これからはじまることは、すべて、幻想です』
【一分】
わたしはベッドからゆっくりと離れ、部屋を出た。
全身の骨がきしむ。
それでもわたしは走った。
階段を走り下りる。
三階、二階、一階。
ぜえぜえと息をはきながらも、わたしは入り口のところまで走った。
自動ドアが開いて、やっとのことで病院の外に出れた。
かち
【二分】
久しぶりに外を見たっていうのに、暗かった。
あの孤独な気分になれる病室よりかは、明るいけれど。
走ったら、今にも骨が砕けそう。
だから、歩いた。
目的は無い。
わたしは歩いた。
目的地は無い。
だから、歩く。
かち
【三分】
頭で何も考えないで、本能にすべてを任せている。
適当に歩いていれば、どこかに行ける。
商店街。
がらんとしてて、誰もいない。
どこも全部、シャッターが閉まってる。
薬局の前にある物、それはホコリまみれのお人形。
昔、テレビか何かで見た、コマーシャルのキャラクターのお人形。
『あなたもいっしょ?』
表情はなかった。
『いのち、もらうね』
わたしは人形に付いていた一部分のホコリを、人差し指で拭った。
一瞬だけ表情はあった。
かち
【四分】
もう商店街は出ている。
どこまで行けばいい?
歩こう。
歩いて終止符を探そう。
大道路に出た。
人は一人もいないし、車だって一台も走ってない。
もし車が一台でも横切ったら、鼓膜が破れる。
今現在の大道路はしーんとしている。
この静寂音に比べたら、雑音で鼓膜が破れたって構わない。
喜ぶべきか、喜ばないべきか。
未来の発明に期待する。
かち
【五分】
大道路を抜けて、普通の小道を歩いている。
そろそろ足の骨に限界が近づいている。
一歩を踏み出す度に、みしっ、みしっと、体全体が音を出す。
まるでブリキの人形のように、ぎくしゃくしながらみっともなくわたしは歩いた。
ここは見覚えがある。
子供の時に走った小道。
走りたい。
走りたい。
走りたい。
走った。
全身がぎしぎし音をたてる。
わたしは走った。
走り続けた。
そして転んだ。
かち
【六分】
両足の骨が砕けた。
両手の指の骨も何本か砕けた。
体の色々な部分の機能が終了を告げた。
もろい。
あまりにももろすぎた。
まだ両手がある。
わたしは手を使って小道を這う。
何度も。
何度も何度も何度も、全身に激痛が襲った。
地面が粗くて、手を付かせる時に肌が傷ついて、血が出た。
爪も剥がれ落ちてゆく。
かち
【七分】
ついに視界が消えた。
真っ暗になった。
どこを這ってるのかわからない。
それでもわたしは進む。
幸い、未だに両手の力はまだ生きている。
あとは、聴覚と嗅覚でなんとか行ける程度。
腕時計も見えないけど、感覚でわかる。
あと三分。
ここから始まる。
そう確信した時に、急に横から大きな音がした。
たぶん、車が横切った。
聴覚を失った。
始まりは、終わり。
かち
【八分】
ここはどこ。
地道に這ってるだけだから、遅い。
場所さえもわからない。
何やら香ばしい香りがした。
この匂いは、忘れてしまった。
けれども懐かしい。
今の状態は最高に幸せ。
何も感じない病室に比べたら。
『あはは』
感覚は失ってないからわかる。
わたしは口を動かしている。
『あはっあははは』
でも何を言っているのかわからない。
自分で何を喋っているのかもわからない。
『ひひ、はははっ、あ、はは』
感覚は生きているからわかる。
わたしは笑顔を作った。
口元を笑わせた。
あまりわかんないけど、声を出した。
『かれ、い、か、れい、か、れい、に、お、い』
かち
【九分】
香ばしい匂いの元へ、わたしは力の限り進んだ。
無理だとわかっていても、体は本能で動いている。
進む。
進む。
進む。
進む。
進む。
進む。
進む。
何かに触れた。
両手で拳を作り、精一杯に振り上げて、触れた物めがけて全力で振り降ろす。
叩いたら、両手の骨が粉々になった。
その最後の瞬間に気づいた。
わたしは実家の近くまでたどり着いた。
中にはお母さんがいて、お母さんはカレーを作っていた。
カレーの匂いに釣られて、わたしはそこへ行った。
全身の力すべてを使ってドアをノックした。
するとお母さんは出てきてくれた。
かち
【一秒】
ここからは、わたしの思念を飛ばす。
【四秒】
『おかあさん、わたしね』
【七秒】
『ちゃんとうごけるよ』
【十一秒】
『びょうしつからでれたよ』
【十四秒】
『やっとあえたんだよ』
【二十秒】
『かれーをつくってたの?』
【二十三秒】
『おいしそうなにおいだったよ』
【二十六秒】
『おにくのにおいがして』
【三十秒】
『にんじんのにおいがして』
【三十四秒】
『じゃがいものにおいがして』
【三十六秒】
『おいしそうなにおい』
【三十八秒】
『こーんすーぷも?』
【四十一秒】
『それはきづかなかった』
【四十四秒】
『わたしのぶん?』
【四十六秒】
『わたしのために?』
【四十八秒】
『ありがとう』
【四十九秒】
『でもこんなてじゃたべれないよ』
【五十三秒】
『たべさせてくれるの?』
【五十五秒】
『あーん』
【十分】
『お』
『い』
『し』
『い』
かち
味覚は残ってた。
わたしの口の中で思い出が広がった。
顔に温かい物が触れた。
お湯みたいだけど、お湯より全然温かった。
思い出が広がったまま、幕を閉じた。
『幻想は、思い出です』
朝の新聞。
今日の深夜0:00に白高病院にいたはずの加瀬みよ(一五)が、実家の前で病死した。
病院側は
「あれは変死だ。病死なんかじゃない。彼女の病を知った後、私たちは一切、彼女に何もしなかった。自殺に近い、変死だ。」との主張。
腕時計は12時を指した時点で、止まった。
彼女の時間は、その時から止まったまま。