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8月9日 樫枝悟司 その5

 水谷は悟司の方を一瞥だけすると、スーパーの袋を提げたまま無表情で言った。


「上がりましょ。私はプリン食べてから今後のことについて考えるとするわ」


 叔母さんのお金で、水谷は生クリームがこれでもかというほど乗っかったプリンを購入していた。悟司は今特に食べたいものもなかったので、無糖紅茶のペットボトルと、今後の生活費を浮かすためのシリアルを勝手に購入していた。お釣りを請求されなかったし、これくらいのことなら文句も言われまい。


 他には、甘いオレンジジュースと小さなショートケーキを買ってきていた。こちらは陽葵の分である。ケーキならばきっと小さい子はみんな喜ぶだろうと思ってのことだ。

 水谷についていくように悟司も靴を脱いで廊下を歩く。ガラス戸は開きっぱなしになったままで、そこからひょいと覗き込むように悟司が部屋の中を確認すると、


「――もしもおし?」


 陽葵が悟司の携帯電話に向かって、そんなことを口走っていた。


「な……っ」


 悟司はスーパーの袋を落として陽葵から携帯電話をひったくった。


「もしもしっ! ――って、切れてる……」


 携帯のディスプレイを眺めると、終話と書かれていた。すかさず悟司は履歴をチェックすると、またしても相手は千佐都からだった。

 一度目は訪問、二度目は電話。別にたいした用事でもなさそうだが、万が一を思って悟司は千佐都にかけ直そうと携帯を持ち直してふと陽葵の方を見た。


「…………とった……」


 ぽかんとした表情の陽葵がぽつりとそんなことを言った。やがて、みるみるうちにその表情が歪んでいく。


「あ、これ泣くわ」


 横から冷静な観察をして水谷がそんなコメントをした。

 悟司は慌てて携帯をポケットにしまって、陽葵に近寄った。


「い、いや。あのね、これはおにいちゃんので。べ、別に陽葵ちゃんに意地悪しようとしたわけじゃ――」

「………とったぁあああああ! さちょしがとったああああああっっ!」


 時、既に遅し。

 わんわん泣き始める陽葵。耳を塞ぎながら悟司はどうしたら泣き止むだろうか考えていると、ちょうど陽葵の足下には小さなくまのぬいぐるみがあった。

 これを使うしかない。そう思って悟司がぬいぐるみを拾い上げると、


「らめなのおおおおっ!」


 陽葵が悟司の取ったくまのぬいぐるみに気付いて、手を伸ばした。


「いや、これは別に取ろうとしたわけじゃ――」

「かえちて! かえちてよおっ!」


 ぐいっと腕の部分を陽葵が引っ張った。

 その瞬間、いくつもの糸が同時に切れるような鈍い音がした。


「「あっ」」


 悟司と水谷が同時に声をあげると、ぬいぐるみは肩の辺りから引きちぎれてその中身である綿をこぼれさせた。団子ほどのまっしろな綿の固まりが、フローリングの床に音もなく落ちる。

 陽葵はというと、自らが掴んでいた腕の部分をしばらく無言で眺めていた。

 そうしてしばらく何が起こったのか、あまりわかっていない様子でちぎれた部分を凝視していたが、次第に事の重大さを理解したようで――


「こ――」


 ぽとりと腕を落とすと、陽葵は再び顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。


「ころしたあああああああああああああっ!?」

「いや、死んでないからね!?」

 生きてもいないが。

「さちょしがくまさんころしたあぁーっ! うわああああんっ」


 ……もう手がつけられない。

 ぎゃあぎゃあと、この世の終わりのように泣き叫ぶ陽葵に、悟司は為す術がなかった。助けを求めるように水谷の方を振りかえると、水谷はスプーン片手にのんびりとプリンを食べていた。


「この状況で、なにしてんすかアンタは!?」


 抗議するように声を荒げると、水谷はひどく落ち着いた様子でこちらを見た。


「だって、私にはどうしようもないわ」

「助けてくださいよっ」

「無茶言わないで。私が子供をあやせると思ってるの」

「威張るところか!?」

 胸を張る水谷に向かって悟司がツッコむ。


 そうこうしている間にも、陽葵はわんわんと泣きわめくことをやめない。そればかりか、なおさら声を大きくあげて泣き始めた。


「うわあああああああああああん」

「う、うるさい……」


 耳がきーんとした。おそらく水谷に注意が向いてしまったせいだろう。子供は、時として主張したいがために泣くことがままある。これがそのパターンであるとは限らないが、ボリュームがあがったのは間違いなくそうだ。悲しい上に、そのことを放置されてしまってはなおさらだ。

 悟司は水谷の助けを諦めて陽葵の頭を撫でながらにこやかに微笑んだ。


「ご、ごめんね。悪かったよ、陽葵ちゃ――」


 最後まで言い切ることはなかった。

 陽葵からグーパンチが飛んできたからである。それをモロに顔面へとくらってしまった悟司は鮮やかに床の上へと転がった。

 幼女の本気パンチでも、当たるとそれなりの衝撃がある。さすが叔母さんの娘であった。転んでもただでは起きない。


「し、舌、噛んだ……」

「ご愁傷様」


 たいして憐れんでもいない水谷の声が、虚しく耳に届いた。


「うわああああああああん」


 さらに追撃を食らわそうと陽葵が、転がった悟司の上に乗っかった。

 マウントポジションの体勢である。

 なにこの娘。すごい。


「さちょしの、ばかっ。ばかっ。ばかっ」


 ぽかぽかと頭を殴りつける陽葵。


「い、いてっ。痛い! 痛いです!」

「ばか。ばかばかばかーっ!」


 髪の毛を掴まれ、鼻の穴へ指を突っ込まれ、両頬をつねられ、唇まで引っ張られた。


「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかーっ」

「うごごごご……」

「なおしてっ。なおしてよぉっ」

「わかった! わかったから! 離れてっ」

「――そこまでになさい」


 ようやくプリンを食べ終わった水谷が、ひょいと陽葵の身体を持ち上げた。さすがの怪力である。やすやすと持ち上げられてしまった陽葵が、悔しそうに水谷の手の中でもがく。


「はなちてっ」

「ヤハウェ様も、それ以上のバツは許さないと仰ってるわ」


 悟司から距離を置いたところで水谷が陽葵を下ろすと、


「大丈夫よ。きっと直せるから」


 無表情で陽葵にそう告げると、水谷はちらりと悟司を見た。

「確か、樫枝くんの家にはソーイングセットがあったわね。掃除の際に見つけたわ」

「あ、あるけど」

 悟司がぺたぺたと顔を触りながら身体を起こすと、


「裁縫の経験は?」


 陽葵がすんすんと鼻をすすっている横でポケットティッシュを取り出しながら、水谷が尋ねた。

「な、ないよ。だってあれは元々ちさ――」


 そこまで言いかけて、踏みとどまった。

 過去に千佐都と一緒に住んでいたことは、なんとなく水谷には内緒にしておいた方がよさそうな気がした。特に秘密にしているわけではないのだが、誰にでも気軽に言うのはなんとなくはばかられる思いがある。


「なによ?」

「い、いや。それよりソーイングセットはあるけど、さ、裁縫の経験はゼロだ」

「それは奇遇ね。私も家庭科でやった以外はほとんどゼロよ」

「え?」

「なによ。その目は」


 水谷はやや不愉快そうに眉をしかめながら、陽葵の鼻にティッシュをあてがった。

 いつも修道服のようなけったいな服を着てるから、てっきり使えるとばかり思っていたので面食らってしまっただけなのだが。


「なおせないの……?」


 鼻を拭ってもらった陽葵が再び泣きそうな顔になる。


「安心して。樫枝くんがやってくれるわ」

「やめてくださいよ……」


 押しつけにしてもあんまりだと思っていると、


「心配しないで。私も手伝うから」


 水谷は愛想なく陽葵の頭を撫でると、そのままパソコン前まで向かった。


「まずはググりましょう。縫い方を調べて、二人で協力すればきっと直せる」

「水谷さん」

「勘違いしないでね。私だって、本当はきちんとお裁縫のことが学びたかったのよ。良い機会だし、これを機に服の直し方も一緒に学ぼうかしら」


 水谷は無表情ではあったが、こころなしか声がうわずっていた。


「陽葵ちゃん、私たちがあなたのくまさんを直すから機嫌を直してちょうだい」


 その口ぶりは実に淡々としていたが、陽葵はその言葉に少しだけ心を動かされたらしく、ぐっと唇を結びながら少しだけ頷いてみせた。


「樫枝くん。落ちた綿を集めて。あと、陽葵ちゃんにケーキを食べさせてあげなさい」

「あ、はい」


 てきぱきと指示を出す水谷に悟司は言われるがまま行動を始めた。



 数時間後――


「で、出来た……かな?」


 悟司はぬいぐるみを持ち上げながらまじまじと眺めた。

 多少、不格好な縫い方ではあるが目立たない糸の色で縫い付けたので、遠目から見たらそこそこな出来に見えなくもない。

 ぬいぐるみは全体的にくたびれており、他にも糸が切れてほつれかかっていた箇所がいくつかあった。

 腕のパーツ以外の場所はほとんど全て水谷が修繕をしたので、不格好な腕以外はそれなりに様になっていた。

 さすがカルトであっても立派な女子である。手際が段違いだ。


「今、心の中で私のことをひどく言ったわね」


 隣でくぅくぅと寝息を立てている陽葵の額を撫でながら、突然水谷がそんなことを口走ったので、悟司はいつにも増してぎくりとしてしまった。

 作業中は互いで口を聞くことがほとんどなかった。そんな矢先にこの発言である。

 あらためて気の抜けない相手だと身震いしながら、悟司は二人に向かって振り返った。


「もう夕方じゃない」


 ちらりと部屋の置き時計を見ながら、ため息をついて水谷が言った。


「結局、丸一日無駄になっちゃったわね……」

「あの」

「ん?」


 部屋の中に差し込んだ夕焼けの光は、膝を崩した姿勢の水谷の身体に当たっていた。ちょうど顔の部分には光が届かなかったようで、部屋の暗さでその表情をしっかり見ることが出来なかった。


「そ、そのノルマって出来なかったらなにかマズいことでもあるんですか?」

「それはマズいわよ。ウチの支部は道内でも成績が良くて――」

「そ、そうじゃなくて。水谷さん自身がですよ」


 悟司の言っていることがわからないのか、水谷は少しだけ首を傾げた。


「お、俺が聞きたいのは、水谷さん自身に、何か罰とかあるのかってことです。そ、そうやってずっとあなたが、熱を入れている団体って、そういう団体なんですか、ね?」


 今日一日を通して、悟司がなんとなく聞いてみたかったことであった。

 いわゆるカルト宗教と呼ばれるモノは、高額なお布施やら、熱心な勧誘活動やら、とにかくわかりやすい特徴というものがある。いちじく会に関しては、あまりその内実に突っ込んだ話をしていないので、具体的な実態は未だ定かではないのだが。

 当然、いずれはその話に関してもしてみたい気持ちはある。


 しかし、何よりも今一番悟司が知りたかったのは水谷自身の処遇についてだ。

 まだ数日の付き合いではあるが、正直今の悟司は水谷に対して少しばかり警戒心を緩めていた。かといって彼女の言う宗教に入信するつもりは一切ない。今の悟司には彼女のいう“救い”など、必要もなければ、興味もないのだ。

 ただ今日、悟司はこの叔母さんの一件がきっかけとなって、偶然にも彼女のメンタル的な脆さに気付いてしまった。前述のノルマの件である。


 あの時はまるで、何かに取り憑かれたように意固地になっていた。その前の都会の話でも、妙にテンションが高くてついていけなかった。

 今までが強引で無茶苦茶だったせいで、そこに一つの大きなギャップが生じてしまった。違和感を感じずにはいられなかったのだ。

 だから尋ねてみたかった。一体、そのノルマとやらを達成できなかったらどうなるのか、彼女自身はどうなってしまうのかを。



 しばらく無言の状態が続いた後、水谷は静かに口を開いた。





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