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8月9日 樫枝悟司 その4

「あ、さちょしだー」

「陽葵ちゃん」

 幼女が、悟司の顔を見るなり指をさして朗らかな笑みを見せた。


 桜木陽葵――叔母さんの一人娘で、今年で五歳になる。

 受験の時に叔母さんの家に泊まった際、悟司はこの幼女と初遭遇を交わした。その時なぜだかいたく気に入られてしまい、名古屋に戻る時には大泣きしたものだったが。

「陽葵ちゃんも一緒なんですか?」

 悟司が尋ねると、叔母さんはまたしてもニヤニヤと悟司の顔を見ながら笑い出した。

「ああ、そのことで話があんだよ」

 この時に感じた、ものすごく嫌な予感は的中した。




「――今日一日、預かって欲しい!?」

 素っ頓狂な声をあげると、叔母さんは車を運転しながら後部座席にいる悟司達に向かって軽く頷いた。

「ああ。アタシはこれから札幌の方で同窓会なんだよ」

「同窓会って――」

「いや、本当は一緒に連れてくつもりだったんだけどな? でも、下手するとそのまま真夜中まで続いちゃいそうだろ? いわゆる“公式なもの”じゃねーんだよ、なんとなくわかるだろ、その辺はさ」


 口を挟もうとする悟司を制するように、叔母さんがそんなことを言った。一瞬、公式とはどういう意味だろうかと思ったが、よくよく考えると、その言葉の意味がなんとなく理解できた。レディースなんかしていた人物が、普通の同窓会に呼ばれるわけないのだ。

 仮に呼ばれたとしても、ここまで楽しそうにはしていないだろう。


 叔母さんはあまり自身の過去のことについて触れたがらない。ヤンキーだったという話を悟司が聞いたのも、直接本人からではなく母からだった。

 特攻隊長だったということをにわかにひけらかしたり、かといって恥ずかしく思っているわけでもない。ただ自身の過去に関して、うまく折り合いだけはつけているようで。

 言葉遣いとたたずまいは今でもその頃を匂わせるものはあるが、端から見ればどこの家庭でも変わらない、立派な一児の母をしていた。


「今、家には誰もいないしさ。夜にはダンナが迎えに来てくれるから、それまで頼むよ。同窓会なんて初めてなんだ。この子が生まれてからずっとそういった行事には出れなかったもんでさ」

「こ、困りますよ……」


 悟司はちらりと水谷を見た。水谷はきちんと悟司の言いつけを守って、じっと窓の外を眺めていた。このまま素直に叔母さんの頼みを聞けば、今日一日の彼女の勧誘活動は悟司抜きで行なってもらうことになる。

 てっきり、そのことに関して何か抗議をしてくるかと思っていたが、意外にも空気はしっかりと読める人らしい。その代わり、あとが怖いが。


「ちゃんと後でおかきくらいあげるからさ。苦労代として――なぁ、いいだろ?」

 そんな叔母さんの声は、先ほどと変わらず明朗快活であった。しかし悟司は、後半部分の言葉にわずかながらの脅迫の念を感じ取ってしまった。


 積年の勘だ。間違いない。

 このまま下手に渋ると、こちらに関してもあとが怖かった。

「わ、わかりましたよ……」

 そう言って、もう一度ちらりと水谷の方を見た。

 いつの間にか水谷はこちらをじっと見ていた――無表情で。


 ……もう……イヤ。

 最強の二人に板挟みにされながら、悟司はただただ後部座席で萎縮するしかなかった。

 


 ニングルハイツの手前で一旦車を止めた叔母さんは、

「これで何か買って来なよ。あ、陽葵の分も忘れんなよ」

 そう言って、悟司に五千円札を手渡した。


「おごってくれるんですか?」

「当然だろ? 戻ってくるまでアンタの家で陽葵と待ってるから」

 悟司と水谷は先に車を出ると、叔母さんは運転席から声をかけた。

「そういや、いきなり押しかける前に、ちゃんとあらかじめアンタに電話もしたんだ。ただ、何回かけても繋がらなくてさ。ちゃんと携帯持ち歩いてんの?」

 言われて気付いた悟司は、ポケットの中をまさぐった。

 携帯は、家の中に置きっぱなしだったらしい。

「悪い、水谷さん。今から取りに行ってくる」

 そう告げて部屋に向かおうとする悟司の袖を、いきなり水谷が引っ張った。


 突然の行為に驚いた悟司は、振り返って水谷の顔を見る。

「え?」

「いいから」

 そう言って、ぐいぐいと悟司を引っ張りながら歩き出す水谷。

「いやぁ、尻に敷かれてるねぇ」

 そんな嬉しそうな声をあげる叔母さんを無視して、水谷はずんずんと悟司を引っ張っていった。


 やがてニングルハイツが見えなくなったところで、

「どういうつもりよ」

 ようやく悟司を解放した水谷は、口を尖らせて悟司の顔を見た。しかし、思っていた以上によく表情を変える人だ。てっきりもっと無表情な人だとばかり思っていたのだが。

「ノルマを一向に消化出来ないままでいるのに、あんな小さな子のお守りとか……」

「の、ノルマのことに関して言えば、俺には全く関係のない話じゃないですか」


 悟司の至極まっとうな正論に、さらに不機嫌な顔を覗かせながら水谷は言った。

「それは……もちろんそうよ。でもね、男女一組で動かなきゃいけないっていうのは、ウチの鉄の掟なのよ。安藤くんはもう完治して、別の人と一緒にやってるみたいだし……こんなことお願いできるのは今、あなたしかいないのよ」

 最後の一言は、場合と人さえ違えばもの凄く嬉しい言葉であった。

「妙な掟のことはこの際どうでもいいとして……とりあえず、今日一日はまともに動けませんって。わかるでしょ?」


「…………」

 ぷくぅっと顔を膨らませてじっと睨み続ける水谷。

「明日からまた手伝いますって」

「…………」


 よくよく見ると水谷の目尻には、ほんの少しの涙が溜まっていた。そんなに切羽詰まっていたのかと、悟司は素直に驚きを隠せなかった。

 考えてみれば、既に六日も経っているのに一向にノルマが消化出来ていないのだ。そんな現状を、当の本人が何も思わないはずがない。


 どうやら悟司が思っている以上に、水谷は焦っているようであった。

 もしかしたら、急に勧誘とは一切関係のない都会の話などを持ち出したりしたのも、平静を取り戻そうとして出た無意味な会話の一つだったのかもしれない。気を紛らわせて、今日こそはと張り切っていたのかも――

 そう思うと、なんだか少しだけ申し訳ない気分になった。


「悪かったですよ……気も知らないで」

 全く、つくづくお人好しだと自分でも思う。

 こんなわけのわからぬ勧誘を一緒になって取り組む必要など一切ないのに。

 でも……ちょっとだけ認識をあらためてみてやってもいいんじゃないかと悟司は思った。


「とりあえずきょ、今日一日は俺と一緒に陽葵ちゃんの面倒みてやって、ください。そ、それで、明日は必ず一件取りましょう。正直、俺なんかいても何の役にも立たないでしょうが、み、水谷さんがそれで納得するならついていきます、よ?」

「…………」


 水谷は何も言わずに、ぷるぷると小刻みに震えながらなおも悟司を睨み続けていた。

 あれだけ馬鹿力のくせに、メンタルはまるで小動物並みだ。


「き、機嫌直してくださいよ。ね?」

「……わかったわよ」

 やがて、ぽつりと吐いた水谷の言葉に悟司はほっとしながら歩き出した。

「じゃあ、買い物行きましょうか?」

 黙したまま一度だけこくりと首を傾ける水谷を見て、悟司は頭を掻きながらスーパーへと向かった。


「おかえり」

 一○一号室に戻ると同時に、叔母さんは立ち上がって玄関へとやってきた。

「悟司、ちょっと」

 そう言って、叔母さんは悟司を水谷から少しだけ遠ざけた。


「あの、何を――ぐえっ!」

 口を開いた瞬間、首に腕を巻き付けられた。全く予想外の叔母さんの行動に、悟司はさっぱり意味がわからずにいると、

「――あんた。まさかとは思うけど、二股とかかけてないでしょうね?」

 言いながら首にかけられた腕をぎりぎり締め上げていく。

「な、なんの……話……」

「つい今し方、妙にちんちくりんな女が訪ねてきたんだよ!」

 水谷には聞こえない程度のボリュームで、叔母さんが語気を強めた。


 ちんちくりんと聞いて、顔が出てくるのは一人しか思い当たらない。


 ……千佐都だ。


 あいつ、一体なんの用事で――

 考える間もなく、どんどん腕の力が強まっていく。


「いいかい。浮気はゴミ野郎のすることだ。アタシはアンタがそんな男だとは思わないけど、もしそうだったら許さないからね!」

 すっかり顔が紫色に変色している悟司に向かって、叔母さんはぎろりと目を光らせながらそのようなことを告げると、ぱっと腕を離して再び快活な笑みを水谷へ見せた。


「見苦しいとこみせちゃったね。それじゃ、アタシはもう行くから」

 水谷は叔母さんの顔を上目遣いで見ながら、無言で一礼する。それを見て安心したような顔を見せると、叔母さんは悟司達と入れ違いになるようにして外へと飛び出した。

「いいかい? 陽葵に何かあったら承知しないからね」

 悟司に向かって指を突きつけると、再び水谷に笑みを見せながら手を振って叔母さんは出て行った。


「げほっ! げほっ! ……ひどすぎる。俺が、何をしたっていうんだ……」


 本当にひどい夏休みだ。

 悟司は、数日前の安穏としていた生活がたまらなく恋しかった。


 


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