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8月9日 樫枝悟司 その3

 八月九日。


「ヤハウェ様の――」

「あ、そういうのいいんで」


 言われて、すぐさま閉じられる玄関の戸。

 こうして断られるのは一体何度目だろうか。数える気も起きない回数であることは確かだろうと、悟司は水谷の背中を見つめながらそんなことを思っていた。


「次行くわよ」


 二度と開くことがないその玄関を振りかえることなく、水谷は颯爽とその場を離れた。渋々悟司もその後をついていく。

 十二件――三日から始まった水谷の勧誘&お祈り活動は、一向にこの数字を減らすことがなかった。毎朝午前九時に悟司を呼びに来て、午後五時くらいまでこの馬鹿げた布教活動は続く。

 この女はめげるということを知らないのだろうか。

 一方の悟司は、いい加減に限界が来ていた。


「……もう帰ります」

 悟司がくるりと足の向きを変えた途端、急に喉がしまって呼吸が出来なくなった。


「ぐえ」

「ダメよ。お願いだからついてきて」

 襟首を掴まれた悟司はその手を振り払って、水谷を睨んだ。

「も、もう限界ですよ。掃除の件での借りも、この数日間付き合って、ち、チャラになったはずです。どれだけやったって、少し、も変化ないじゃないですか。お祈りなら、かろうじて付き合ってくれる人もいるかもしれませんが………勧誘は絶対無理です。無理」


 顔の前で両腕をバツにさせながら悟司が言うと、

「それ、十字架?」

 水谷はきょとんとしながら悟司の腕を指した。

「なんでだよ!? なんでそうなるんだよっ!」

 苛立ちを隠しきれずに、ついつい悟司はその場で地団駄を踏んでしまった。


「冗談よ。それにしても、ずいぶん私との会話が慣れてきたようね」

 口元を押さえながら、水谷が不敵に笑う。

「最初は、あんなにたどたどしかったのに」


「そ、そりゃこれだけずっと一緒にいたら、いい加減慣れますよ」


 そういって、悟司はぐるりと辺りを見渡す。

 今日の布教地域は、隣町にほど近い国道付近の住宅地だった。

 交通手段が徒歩しかない悟司は、大学付近をぐるぐるとしか回ったことがない。こちらまで来たのは初めてのことだった。


「樫枝くんの実家は名古屋だっけ?」

 そう言いながらさりげなく悟司の腕を掴む水谷。本当にぬかりがない。このまま次の家まで連れ歩くつもりだ。


「そうですけど……」

 さらなる予測不可能な行動を防ぐため、警戒心を怠ることなく悟司が水谷を見返すと、

「名古屋って、人がたくさんいるんでしょうね」

 遠い目をして、車のない道路をぼんやり眺めながら水谷はそんなことを言った。


「水谷さん、の、実家って、どこなんですか?」

「シャリ」

「なぜここで寿司の話が」

「違うわよ、『斜里』。斜里町っていう、ここよりもずっと田舎町よ」

 水谷に引かれながら、しばらく歩いてるとようやく一台の車が悟司達を横切った。


「ねぇ人が多い町に住むって、どんな気持ちなのかしら?」

 どんな気持ちと言われてましても。

「俺はあんまり好きじゃないっ、す。この町くらいの人の多さが、ちょうどいい、かも」

 本心だったが、なぜか水谷は不満そうに顔を膨らました。

「なによ。結構都会に憧れてるのよ? 私は」

「別にな、何もないですよ?」

「そうじゃなくて! そういう答えを求めてるんじゃないのよ私は」

 ただ、と付け加えて水谷は前を向いた。


「私は、この町よりも人が多い町に行ってみたいのよ。オシャレなカフェで本を読んだり、終電に乗り遅れそうになったり――そういう、今風の大学生の生活を営んでみたいの」

「さ、札幌でいいじゃないですか。行ったことないんですか?」

「ないわよ」

 さらりと答える水谷。


「友達とか、は」

 悟司は千佐都のことを思い出しながら、つい聞かなくてもいいことを言ってしまった。

「……いないわよ。安藤クンを誘ったことあるけど、興味ないみたいだし」

 予期せず訪れてしまった嫌な沈黙に、

「お、俺と行きます?」

 と、悟司はさらなる墓穴を掘ってしまった。その途端、


「ホントっ?」


 水谷はそう言って、目をらんらんと輝かせながら悟司の両手を熱く握りしめた。

 ここで「いやいや冗談っすよー」などと笑い飛ばしでもしたら、きっと両手を握りつぶされて、粉砕骨折してしまうかもしれない。そのくらい熱心な喜び方であった。


「い、いつとか、時間の指定はしてませんよ? 俺」

 かろうじてそういうのが精一杯だった。


「いいのいいのっ! 私の卒業までに行けたらそれで!」

 嬉しそうにぴょんぴょんとその場でジャンプする水谷。そんなに行きたかったなら一人でも行けただろうに、と思ったが、そういうデカい町に行ったことのない人間には都会っ子にはわからぬ不安があるのだろう。


 しかし、なんて馬鹿な口約束をしてしまったのだろう。

 でも、あの状況で黙ってやりすごすなんて悟司には出来なかった。


「よし、そうと決まればさっそくもう一件回るわよ!」


 俄然やる気を見せる水谷。

 完全に、悟司は間違った発言をしてしまったと思った。

 そうして、二人が住宅地のある曲がり角を曲がろうとしたその時、突然一台のコンパクトカーが悟司達の前に止まった。

「へ?」

 思わず悟司は水谷を見返すが、水谷も首をすくめるだけ。ということは、協会の連中の車ではないということだ。


 何者だ? そう思った瞬間――


「さぁーとしぃー」


 運転席の窓が開くと、中からサングラスの女性がこちらを見ていた。


「久しぶりじゃないかぁ。試験の時以来だね」


 あっと声を上げて悟司はあらためて車を見た。

 これは、未開大の入学試験の時に乗せてもらった車だ。

 そして、その声の主は――


「それにしても――もう女とか作ってんのかい。姉さんに言いつけてやろうかね。アンタの息子は、とんでもないスケコマシですよって」

 サングラスを取ると、もともとの鋭い目つきがさらに鋭くなって悟司を見つめていた。髪の色こそ黒いが、その特有のパーマは古き良きヤンキーのヘアスタイルを彷彿とさせる。


 悟司の叔母――桜木明梨、その人だった。


「それはそうと、いいとこにいたもんだ。今、アンタの家に行こうと思ってたんだよ」

「俺の家に?」

「そうだよ。ちょっと頼みたいことがあってよ。まぁ乗れや、お二人さん」


 叔母さんが親指で後部座席を指した。

 それを見た水谷はむっと顔をしかめると、


「あいにくですが、今樫枝くんは私と一緒にいちじく――」


 全てを言い切る前に、悟司は慌てて水谷の口を塞いだ。

 そのまま水谷ごとぐるりと叔母さんの車に背中を向けると、


「よ、余計なこと言わないでくださいね……? 頼みますから」

 懇願するように悟司は声を潜めてそう言った。


「余計なこととは?」

 悟司が口に当てた手を離すと、水谷はきょとんとした目で悟司を見つめた。

「ヤハウェだとか、いちじく会だとか、勧誘だとかお祈りだとかってこと!」


 出来る限り声を潜めながら、悟司は水谷に説明する。

「……いいですか。この人は俺の叔母さんです。叔母さんは元ヤンなんです。過去に百何人もいるレディースの暴走族にいて、特攻隊長までしてたらしいんですよ」

「なるほど、それは今すぐにでも浄化しなければならない人物ね」

「違うっ!」

 ちらりと十字架を見せつける水谷に、悟司は首を大きく振った。


「要するに、アナタみたいなわけのわからない言動をする人間には容赦ないんですよ! こう言っちゃなんですけど、アナタと同じくらいか、下手するとそれ以上に会話が成り立たない人物なんです。加えて腕っ節もはんぱない」

「――なにこそこそしてんだ、お前ら?」


 その言葉に悟司は振り返って、手を振った。

「な、なんでもないですよ。すぐ終わりますから」

 そう言って再び水谷の方へと向き直る。


「……いいですか? 絶対にさっき言った単語は口に出さないでください。そして、今は黙っておとなしく叔母さんの車に乗るんです」

「嫌だと言ったら?」

 水谷の問いに、悟司は遠慮なく言った。


「……さっきの札幌の件はなしです。今日くらい俺の言うことに従ってくださいよ。この数日、さんざ付き合ってあげたんですから」


 水谷は口に手を当ててしばらく考えた後、

「仕方ないわね。勧誘に関して言えばあまり残された時間の猶予もないのだけれど、札幌に連れてってもらうのも、私にとっては大事なことだし」

 口から手を離して水谷は力強く頷いた。


「何言われても、今だけはとりあえず話を合わせてくださいね?」

 念押しにそう告げて、再び悟司は叔母さんの方へと振り返った。

「密談は終わったのかい?」

 ニヤニヤしながら、叔母さんが悟司を見つめる。


「ええ、まぁ」

 緊張しながらも悟司がそう答えると、



「――みつだんってなにー?」


 と、突然叔母さんの背中の方からひょいっと小さな女の子が現われた。


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