8月3日 樫枝悟司 その1
一気に更新しようと思いましたが、
もはや短編と呼んで良いのかどうかわからないくらい長くなりそうなので
いくつかに分けて更新していきます。
よろしくお願いします。
八月三日。
うだるような部屋の中の蒸し暑さも、窓を開ければいくらか過ごしやすくなった。
春に買った扇風機が隣の部屋にある。あれを引っ張り出そうかとも思ったが、あいにくその扇風機は現在、春日の持ってきたパソコンの冷却用に使ったままだ。
一度使ったら元の位置に戻すのも面倒くさいので、結局窓を開けることにした。開いてみて気付いたのが、これが存外涼しいのである。さすが北海道の夏、である。
寝ぼけ眼のまま布団から這い出た悟司は、しばらく外から流れ込んでくる風に当たりながら自身の部屋の景観をぼんやりと眺めていた。
そして、一言。
「……汚い」
寝起き一発目の言葉である。
夏休みに入ってからというもの、悟司は自分の食事を買う以外には一切の外出をしなかった。ゴミ袋だけはずいぶんと前から大量購入しているので、ちゃんと片付ければそれなりの量を使用するだけですぐキレイになるはずなのである。
こんな状況になるまで、どうして掃除をしなかったのか。
――ねぇねぇ、北海道ってゴキブリがいないんだって。知ってた?
これは、以前隣の部屋に住んでいた千佐都が頻繁に言っていた名文句である。確かにこれだけ食い散らかした弁当やお菓子の袋が無造作に置かれているのに、ゴキブリの気配は一切ない。すごい。
よく見ると、洗いもせずに床に放置したままの茶碗が部屋の隅で転がっていた。他にも、しょうが焼きを作った時に使った皿が、汚れをこびりつかせたたまま箸と共に置かれている。
これは一体、いつ作ったものだろうか。
悟司は思いを巡らせてみる。確か、夏休み前だったような気がするのだが。
「ん?」
ふと、お菓子の袋の方に目をやると、黒いものが中で蠢いて見えた。立ち上がることなく匍匐前進のスタイルでじりじりと目標物に近付いた悟司が、それをひょいっと拾い上げる。
黒いものの正体は、アリであった。
それも一匹ではなく数匹の群れが、袋の中で縦横無尽に駆け回っていた。
「アリならいいか……」
ぽいっとお菓子の袋を放り投げると、再び匍匐前進で布団の元へと戻っていく。布団の横にはギターケースが置いてあり、その横には飲みかけのパック入りウーロン茶が置いてあった。
いや、むしろ「置いてある」ではなく「倒れている」と言った方がこの場合は正しいのかもしれない。倒れてしまったウーロン茶は、悟司の布団のシーツを茶色く染めてしまっていた。きっと寝返りをうったときに、倒してしまったのだろう。悟司はその事についてあまり深く考えないようにした。その方が心の平穏を保てると気付いているからである。
――こんな調子で、夏休みに入ってからというもの、悟司の生活はまさしくクズ同然としか呼べない暮らしを営んでいた。
元々、無気力というか、ギターを弾くことと作曲くらいしか趣味がない上に、日がな友人が押しかけるほどのリア充でもない。「シュガー・シュガー・シュガー(!)」と呼ばれるボーカロイド制作ユニットのメンバーも、わざわざ悟司の部屋を経由して隣部屋の制作室に向かうことなどしないのだ。
だからこその、このていたらく。
ちなみに先ほどから言っている“隣部屋”とは、以前千佐都が使用していた、空き部屋のことである。
現在、千佐都が過去に使っていたこの部屋は「シュガー・シュガー・シュガー(!)」の楽曲制作室として使用している。
記念すべき一曲目である「翼道」を動画共有サイトにアップロードした後、メンバーの満場一致で、この部屋の使い道を今後の制作活動の為に使うと決めたのであった。
“隣部屋”には今、春日のパソコンも、月子の絵描き道具も置いてある。すっかり引っ越ししてしまった千佐都の所有物、ホワイトボード(なぜそんなものを持っているのか甚だ疑問ではあるが)も壁にかかっていた。
夏休み前まで、この“隣部屋(制作室)”には、ほぼ毎日のようにメンバーが集っていた。なので、放置状態であるにも関わらずこの部屋ほど汚くはない――というより恐ろしくキレイだと悟司は思っている。神経質な春日が、わずかなホコリすらも見逃さないので、つい数日ほど前まではぴかぴかの状態であったと記憶していた――
しばらくぼけーっと天井を見上げた後、
「二度寝……しようかな」
そう言い切る前に、悟司はごろんと布団の上に転がった。
どうせ近いうちに千佐都辺りがやってくる。
そうして、さんざ罵倒された後で掃除すればいい。
この時の悟司は、そんな風に楽観視していた。
ところがそんなお気楽な考えは、この直後すぐに打ち消されることとなる。
突如、インターホンが鳴った。
「居留守します」
自分に言い聞かせるような独り言を吐いて、そのまま微動だにしない悟司に、さらなるインターホンの音が鼓膜を震わせた。
頑として動かないことを決め込む悟司。しかし、インターホンは一定の周期で断続しながら鳴り響いていた。
……もしかしてガス会社か? それとも電気屋か水道屋?
悟司は目をつむりながら考える。
どれも違う気がした。ガスは先日、滞納していた分も含めてコンビニで支払ったはずだ。電気も水道も、きちんと引き落としされていることを前に通帳で確認したのだ。それでも万が一を思って、悟司はまぶたを開けると机の上に置きっぱなしの通帳を手に取った。
間違いなく引き落としはされている、やはり違うようだ。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
インターホンの音は、もはや病的と言っていいほどに鳴り響いていた。それも、ずっと同じタイミングで続いている。音と音の間の隙間も、決まって一秒ごと。
まるで、正確に時を刻み続ける秒針のように規則正しく、それでいて戸を開けるまで止むことがないと思わせるほど図々しかった。
……怖いんですけど。
端的に、恐怖を禁じ得なかった。まだ昼間だというのに、流れ込んでくる風の涼しさもその思いを後押ししていた。
なんなのだ一体。
とうとう悟司は布団から飛び起きてしまった。この目で、誰がこんなことをやっているのかを早急に確認しなければと思ったのだ。
……じゃないと、きっと今日の夜は眠れない。
そろそろと、廊下を歩いて玄関の戸へと近付く。廊下には直接日の光を刺すような窓もないので、昼間でも薄暗い。
玄関の前までやってくると、突然インターホンの音が止んだ。それだけで、心臓が爆発するんじゃないかと思うほどに鼓動が早まっていく。
どうしてそこで音が止まる? まるでこちらが玄関までやってきたことを知ってるみたいじゃないか。
つぅっと、こめかみ辺りから頬に向けて一筋の汗が垂れた。無意識のうちに呼吸まで荒くなっている。
そんな時、悟司の脳裏にふと、赤い目の女の怪談がよぎった。
立場こそ玄関の外と内で違うが、シチュエーション的には非常によく似ている。
余計なことを思い出してしまったせいで、覗き穴を覗くことが急に恐ろしく思えてきた。もし向こう側が真っ赤だったらどうしよう。
そう思った時、
ピンポーン。
「ぎゃあっ!」
背筋をびくっとさせて悟司はたまらず声をあげてしまった。慌てて口を押さえるももう遅い。
どんどんっ! どんどんっ!
半ば強引だったとはいえ、それなりに控えめだった来訪者の態度が激変した。悟司の声を聞いて、どうやらインターホンから乱暴にドアを叩く方針へと切り替えたようだった。
玄関の分厚い鉄の扉が鈍い音を立てながら揺れていた。
「あ、あわわわわ……た、たすけて」
どんっ!
「ぎゃあああっ!」
腰を抜かしてしまった悟司は、半ば這いずるようにしてその場から逃げだした。
開きっぱなしにしていたガラス戸を抜けて、再び廊下から部屋の中へと戻る。
急いで窓を閉めようと、そのままずりずりと身体を滑らせながら慌てて手を伸ばした。
すると、そんな悟司の手を、細い一本の手が握りしめた。
「……えっ?」
窓の外、下の方から突然にゅっと出てきたその白い手を見て、悟司はついついそんな間の抜けた声を上げてしまった。
悟司の部屋は一階である。だが、部屋にはベランダのように何かを干せるようなものは一切ない。ちょうど窓の真下には大家さんの息子の隆史さんから借りて使っている横長のタンスがあり、そこから手を伸ばした矢先の出来事であった。
自分の手首の辺りをぎゅっと掴んでいる真っ白な手。掴まれた部分はひやりとしており、まるで体温を感じさせなかった。
そのことを脳が理解するまで、数秒のラグがあった。
「うっ――」
そして、ようやく頭がそのことを深く深く認識すると、
「うわあああああああああああああああああああああっっっっっっっ!」
後は絶叫するしかなかった。
パニックに陥りながらも、必死で白い手を振り払おうとした。
しかし、その手は悟司の想像を絶するほどの握力だった。
「は………離して……」
涙目になる悟司。
もし今、尿意を催していたら間違いなく失禁していた。
真っ昼間だというのに、外は静かだった。
閑静な住宅街といえば聞こえはいいが、単純に人が少ない田舎町なだけだ。
「離してええエエエっ!」
窓の前でじたばたともだえる悟司。
このまま自分は呪い殺されてしまうのだろうか?
でもなんで? どうして?
全く身に覚えなどないことに、ことさら疑問が積み重なっていく。
罰当たりな所行を犯したことは一切ないのに。
――さっきのアリを思い出してくれ。こちとら虫すらまともに殺せない器量の持ち主なんだ。それなのに……それなのにいぃぃぃぃっっ。
と、そんなどうでもいいことすら、頭の中で一心に叫んでいた。
その時、
「ビバ!」
と急に可愛らしい声が飛んできたと思うと、
「ヤハウェ!」
そんな、わけのわからない単語が悟司の耳に飛び込んできた。
「ひぇ!?」
あまりにも突然なことに、まともに言語を扱うこともままならない悟司が首を傾げる。
「……居留守を使うなんて、あなたは悪魔の使いなのかしら? そんじょそこらの連中はやりすごせても、この私をやりすごすことなんて出来やしないわよ。さぁ、さっさと早くその顔をお出しなさいっ。“テレジア・水谷すすき”がヤハウェ様に代わって、その醜き邪心を祓ってあげるわ!」
それは、どこかで聞いたことのある声だった。
そう思った途端、急激に安堵感が悟司の身を包んでいった。それほど馴染みがある声ってわけでもないが、恐怖心というものは、その事実だけでも幾分か和らいでしまうらしい。
悟司はおそるおそる窓に顔を突き出して、窓の真下からこちらの手を掴んでいる人物を見下ろしてみた。
「あっ」
思わずそう声をあげてしまった。
「なによ……。誰かと思えば、樫枝くんじゃないの」
悟司の手を掴んでいる人物は、同じ未開大の三回生。図書館司書の資格講座で、いつも一緒の授業を受けている「水谷すすき」その人であった。
悟司を掴んでいる手とは逆の手で、首からぶら下げた金色の十字架を掴む水谷。それにちゅっとキスをすると、悟司にウインクをかましながら水谷は言った。
「奇遇ね。あなたはやはり、ヤハウェ様とのご縁があるのだわ」
「は、はな、して……くれません、か?」
へらへらと愛想笑いをしながら、悟司は水谷へ懇願する。
水谷は「いちじく会」なるカルト宗教の信者だ。春に一回、悟司はそのいちじく会とやらに引き込まれそうになったことがあり、以来彼女とその相方である同じ信者の「安藤」という男を避けるようにしていた。
司書資格の授業ではいつも必ず教授と一緒に教室へ滑り込み、授業が終われば脱兎の如く教室を飛び出す。そうすることで、とりあえずこの夏休みまでは事なきを得ていたのだが――
「離さないわよ?」
水谷の手の力がさらに強くなる。
「い。いた、いっ! 痛いで、すっ! み、水谷さ、ん」
女とは思えないほど馬鹿力だった。どうしたらこんな握力を手にすることが出来るのだ?
水谷の体格は、どうみても月子と変わらない(胸は歴然とした格差があるのだが)。
その華奢な身体で、どうしてそんな力を有しているのか。ドーピングか? ドーピングなのか?
そんなことを思っていると、水谷は十字架を離して胸元に手を突っ込んだ。一瞬彼女の谷間が見えてしまったが、こんな状況で興奮出来るわけもない。そうして彼女が胸元から不思議な小瓶を取り出すと、
「これは聖水よ」
聞いてもいないのに、いらん説明をし始めた。
「樫枝くん、よく聞いて。あなたは神に愛されし人物だわ。でも同時に、悪魔にも愛されてしまう悲しき運命を持っているの。邪心は既にあなたの心を少しずつ蝕んでいるわ。だから――」
そこまでいうと、水谷は小瓶の口を咥えてきゅぽんと抜き取った。
何をする気だと思っていると、水谷はそのままその小瓶の中の液体を悟司に向かってぶっかけてきた。
完全な予測不能の事態に、悟司は真っ正面からその液体を被ってしまった。
「う、うわっ! なん、なんですかコレ……うっ、目。目に……しみ、る」
髪も顔もびしょびしょのまま、痛くて目が開けられない。
「浄化の儀式よ」
そう言ってから水谷は、ぶつぶつと奇妙な呪文を唱え始めた。
「ナナメニミリツウキュウカチャックブクロノ――」
結構……長かった。
「――リンゴマグロヨマイオニギリハート」
最後まで言い切ったのか、ふっと息をついてから水谷はようやく悟司を掴んでいる手を離してくれた。
「これであなたの邪気は祓われたわ。よかったわね」
そう言って、童話に出てくる幼い少女のように無邪気な笑みをこちらに見せる。
そんな水谷に向かって、悟司はびしょびしょの顔を腕で拭ってから、無言でぴしゃりと窓を閉めた。
「タオル……もってこよ」
そのまま鍵までがっちりと閉めきると、悟司は聖水を床にぽたぽた垂らしながら浴室へと向かっていった。