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瘡蓋ハガシ(3)

 予備校の帰り、井上が高校へと向かう道の途中で、


「あ――」


 ファミレス跡からもう少し進んだ、道の交差点の向こう側に、先日見たままの姿で、自転車を引いている加藤の姿を発見した。まだこちらには気付いていない様子で、歩行者信号が青になるのを井上が焦れったく待っていると、やがてゆっくりと向こうが顔をあげた。


 井上の顔を見た途端、加藤はさぁっと顔に拒絶の色を見せると、そのまま井上のいる方向とは真逆に走り出し始めた。


「待って!」


 信号が青になって、井上も駆け出した。肩の鞄がずれ落ちそうになるのを必死で押さえて逃げた小道の中へ入ると、そこには先ほどまで彼女が引きずっていたはずの自転車が転がっていた。走るのに邪魔だったのだろうか。そのまま井上が辺りを見回しても、加藤の姿はもう既にどこにも見当たらなかった。


 しかしどういうことだろう。自分から逃げるのであれば、それこそこの自転車に乗って逃げれば、あっという間に振り切れるはずなのに。

 そういえばと、前に弘緒と一緒の時にも彼女は自転車を引いたまま歩いていたことを思い出し、そのまま井上はゆっくりと自転車に近付くと、


「……っ!」


 思わず飛び退いて、井上は口元を両手で押さえながら自転車の側から二、三歩後ずさった。誰が見たって、この場合はそういう反応しか取ることが出来なかったであろう。


 サドルに、べったりと血痕がこびりついていたのだ。それだけじゃない。よくよく見ると、ブレーキのチューブも切られており、横倒しになっているからはっきりと断言することは出来ないが、タイヤもおそらくパンクしているだろう。


「ひどい……」


 そんな言葉しか出てこなかった。どうなったらこんなことになるのだろうか。少なくとも、普通に使っていればこんなことには絶対にならないはずである。誰かが、意図的に自転車の破壊にかからなければ、絶対に――


 とにかくこのままではどうしようもない。ちょうど近くに交番があったので、井上はそこへ向かい、自転車が道の脇に乗り捨てられていることを伝えると、その日はそのまま高校へ向かう元気もなく帰宅した。



 ※ ※ ※



 自分の部屋のベッドに横たわった井上は、先ほどの加藤と弘緒の関係を考えてみた。しかし、考えたって何も浮かんでこないのは自明の理で、そのうち井上は考えることをやめると、そのまま部屋の明かりをぼうっと見上げたまま時間を無駄に持て余すことになった。


 直接聞き出すのは当然憚られるし、そもそも全く弘緒からの連絡もないままだ。


 ただ、井上はもう一度弘緒とゆっくり話をしたかった。


 会って、もっと自分のことを頼って欲しかった。


 あの時、自分が欲しかったのは謝罪の言葉ではない。


「弘緒さん……」


 携帯が震える。


「もしもし――」

『……井上?』


 その声でベッドから跳ね起きる。


「弘緒、さん?」

『今大丈夫……? 学校だよね』

「う、ううん。今日は休んだから……」

『休んだ?』

「え、と……」


 加藤のことは触れない方がいいかもしれない。


「ちょっと具合が悪くなって……。でも、今は平気」

『……そうなの』

「ほ、本当に平気だよ! ……どうしたんですか?」


 弘緒の吐息が、電話越しに伝わる。そんな少しの間の後、弘緒は静かに井上へ告げた。


『ちょっとだけ――会えないかなぁって』



 ※ ※ ※



 時刻は十九時を半分ほど回った頃。


 近くの公園で井上は弘緒と待ち合わせをすることになった。そこはほとんど遊具などもない小さな公園で、さらに周りが開けていることもあり、誰にも聞かれたくない話なら、ここで出来そうだと思って井上が自ら指定したのだった。


 公園の外の道からでも、こちらの姿はよく見える。おまけに車や人通りも多いので、変な人に会うといった話も、近所ではまずほとんど聞かない場所であった。


「井上」


 声につられて顔をあげると、白いパーカー姿の弘緒が目に入った。弘緒は、そのまま井上の座っているベンチに腰掛けると、


「なんか最近、寒くなってきたと思って」


 と、井上に温かいお茶のボトルを差し出した。


「ありがとう」


 井上がそれを受け取って、小さく頭を下げる。


「……ひどい醜態を、晒しちゃったね」


 その言い方は、どこか申し訳なさそうにも、恥ずかしげにも聞こえた。


「私、井上にひどいことしちゃったなって。それで、なかなか連絡出来なかった」

「そんな……」


 お茶を両手で握ったまま弘緒の方へ振りかえると、弘緒は静かに首を振った。


「実はね、私……ずっと前の学校でひどいいじめを受けてたんだ」


 それは正直なところ、うっすらと予期していたことでもあった。同時に、あの自転車の子も、おそらく――


「今更もうあまり振り返りたいことではないんだけどね。でも、井上には今日どうしてもそのことを言わなきゃって」

「あの人は」

「え?」


「あの人も……、そうなんですか? 一緒にいじめられていたんですか」


 井上の言葉に、弘緒は少しだけぽかんとして、それから小さく頷いた。


「うん……。でも、一緒ってのは正確じゃなくて。正しくはあの子――加藤が、先にいじめられて、それから私に矛先が向いたって感じかな。その時に、加藤は……私をいじめる側に回って自分への矛先を逸らしたんだよ」

「そんな……」

「友達だったの。私と加藤は。……私は彼女の相談を何度も受けたし、それに立ち向かっていこうって本気で思ってた。その為になら、自分が犠牲になってもいいとまで……でも、彼女はそうじゃなかった。私を――私のことを犠牲にして、そのまま自分は逃れようと、ずっとそう思ってたみたい」


 そこまで聞いて、ようやく井上は全ての合点がいった。

 もしかしたら、あの子は今――


「弘緒さん」


 言わなくては、と思った。

 黙っていることも出来たが、今はそれをすべきではないと思った。弘緒の中に生まれた『悪魔』が、このままではあの子の中にも巣くっていくという事実を、伝えるべきだと思ったのだ。


 井上は今日の夕方に、彼女と遭遇したことをありのまま弘緒に伝えた。

 そうして全てを伝えた後、弘緒は一言、


「……そっか」


 とだけ、小さく呟いてみせた。


「……弘緒さん」

「なに?」

「あの人は今……一人で苦しんでます」

「……だろうね」


 助けてあげられないのか。

 そんな無神経な言葉が、到底出るはずもない。


 おそらく、弘緒が自身の経験の中で、最も恨んでいるのはこの加藤という女性以外にないからだ。そのくらいは井上もなんとなく理解ができた。普通にいじめを受けただけならまだしも、信じていた者から裏切られたという事実も乗っかってしまうと、後者に対するショックは数倍も膨れあがってしまうに違いない。


「井上はさ、」


 いまだぐるぐると頭の中で回り続ける彼女らの関係に、もどかしくも言葉を紡げないままでいると、先に弘緒がそう声をかけてきた。


「井上は……私のことひどいと思う? 今、加藤が誰の助けも借りられないまま一人で毎日苦痛に耐え続けている……そんな事実を知って、それを見過ごしたままでいる私を、ひどいと思うかな?」

「……それは――」

「私は今ね、別に加藤がこのまま、死んでしまってもいいとすら思ってる」


 そう言う弘緒の口調は、迷いなどなく実にはっきりとしていた。


「苦しんで苦しんで苦しみぬいて、そして死んでくれって思う。それだけのことをしたんだから。許せないから。ずっとずっと、顔を忘れたことなんて一度もないくらいに恨んでいたから……。そんな私を、井上はやっぱりひどいと思うかな?」


 何も言うことが出来なかった。


 そんなの自分に置き換えてみれば容易に考えられることだ。自分だってもし仮に今いじめを受けていて、そして信頼していた人物に裏切られたら。


 そしたら――


「弘緒さん……」


 井上の頭の中には今、ある答えが浮かんでいた。

 でもこの答えはもしかすると、弘緒の心情にとってひどく的外れで、その上ひどい侮辱と受け取られるかも知れない。


 だがそれでも、井上はそれを言おうと思った。


「もし――気を悪くしないで聞いて欲しいんですけど。もし今、私がいじめを受けていて……そして、その加担者として弘緒さんがいたとして……それで、今弘緒さんが私の代わりにいじめを受けていると知ったら、」

「……そしたら?」


 井上はじっと弘緒の瞳を見据える。


「……許せないですけど――でも、私は見過ごせません」


 目を逸らしてはダメだ。

 ぎゅっと唇と噛んで、そこで初めて井上は、自分の涙腺が緩みきっていることに気付いた。ぽろりと一筋の涙がこぼれて、それでも井上は弘緒の瞳から目を離さない。


「私は……それでも弘緒さんのことを……見過ごしたく……ないんです」


 ふるふると全身が震え出す。

 弘緒もじっと、微動だにしないまま井上の顔を見ていた。その表情からは、感情がうまく読み取れない。


 ものすごく怒っているかもしれない。

 ものすごく悲しんでいるかも知れない。


 それだけのことを言ったんだと、井上はそう十分に理解していた。実際、弘緒の苦しみなんて井上にはこれっぽっちもわかってはいない。あくまでわかったつもりでいるだけで、本当のことは彼女自身にしかわかりっこないことであった。


 出過ぎた発言なのはわかっている。

 きっと自分は本気でものすごく頭が悪いのだろう。

 だから、こんなひどい言葉しか思いつかないのだと、井上はそう思っていた。


 もっともっと頭の良い人なら、もっともっと弘緒のことをわかってあげられるような、そんなすごい言葉が出てくるのかも知れない。でも自分はあいにくそういう人間ではないことは、今更言うまでもないことだし、これで弘緒が傷つくのも無理のないことだ。 どこまでいっても、自分はこの頭の悪さで損をするのだし、それで大事な友人の心すらも、このように容易に踏みにじってしまうのだろう。


 でも、どこまで頭が悪くて、うまい言葉が思いつかなくても、この気持ちは変わらないはずだ。


 今弘緒から話を聞いて、彼女の痛みをわかったつもりになって、でも真剣に考えて、それでも出てきたのがこの言葉だったのだ。


 嘘じゃない。真の本心の気持ちなのだ。

 きっと自分は、弘緒のことを見過ごせない。


 今日連絡が来なかったとして、その状態が明日明後日と続いて、それでもきっと自分は弘緒のことを決して忘れたり、投げ出したりはしなかっただろう。


「私……バカだから……」


 一度こぼれた涙は、せき止めることが出来ずにどんどんと溢れ出してくる。


「バカだから……きっとそうして……利用されて傷つけられて……。……でも……それでも見過ごせないんです……」

「……どうして?」

「わかりません……でも……ダメなん……です……。私は無視……できません……」


 えぐっえぐっと引きつるように肩を揺らして、井上は泣き続ける。


「……だから……嫌わないで……」


「……は?」



「そんな私を……嫌わないでぇぇ……弘緒さぁん……っ」


 とうとう言葉にならない言葉で嗚咽を漏らす井上に、それまで無表情だった弘緒の顔がぽかんとなった。


「うぇぇぇぇ………うぇぇぇん……」


 号泣である。

 そんな井上を呆然と見ていた弘緒は、くすりと笑うと、


「バカだな、井上は――」


 そうして、ぎゅっと頭を抱えて井上の頭を何度も優しく撫でつけた。


「嫌うわけないでしょ……」

「うぇぇぇ……」

「でも、ありがとうね……井上」

「ぇぇぇぇん……」

「本当に……ありがとう」


 難しいことはよくわからない。

 でもわからないなりに一生懸命考えぬいた。

 そのことが、弘緒の胸の中にいる『悪魔』の封印に、少しでもなれたらなと。

 そう、井上は思ったのだった。



 ※ ※ ※



 それから数日後――

 二人は揃って郵便局に封筒を持って立っていた。


「でも……本当にいいんですか?」

「なにが?」


 ちらりと、弘緒の封筒を見て井上が顔を上げる。


「私のレベルなんかに合わせて、ですよ?」


 その言葉に、弘緒はふっと小さく微笑んだ。


「なに言ってるの。レベルなんて一緒じゃない。私もきっと井上と同じくらいバカなんだから」

「それは絶対に嘘です」


 ぷぅっと頬を膨らませながら井上が弘緒を睨むと、弘緒は可笑しそうに、


「嘘じゃないよ。“たぶん”」


 と言って、郵便局の中へ入っていった。

 慌てて井上も自動ドアをくぐりぬけて、郵便の受付場所までやってくると、


「まぁでも……、この大学ならね」


 と独り言のように呟く弘緒に、井上は首を傾げた。

 そして、同時に封筒を提出する二人。




 その封筒には「未来開拓大学」と書かれていた――




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