瘡蓋ハガシ(2)
「げ、元気だっ――」
「近付くんじゃないっ!!」
加藤がそう声をかけて近寄ろうとするのを、鋭い声で弘緒が制した。
まるで別人だと井上は思った。
これが――これが本当に弘緒なのだろうか?
怯える井上をよそに、弘緒はぎりぎりと歯を立てながらなおも睨み続ける。本気で、人を殺しかねない、そんな瞳であった。
「……さっさと私の視界から消えて。今すぐに。じゃないと――」
「ま、待って……ちょっと話を」
「話すことなんか、私にはなにもないっ!」
その怒号に加藤がびくりと肩を震わせる。
「話なんかあるわけないでしょう……。あったって聞くもんか……っ。絶対に、聞くわけないでしょ、ふざけないでよ……。バカにしないでっ。友達ヅラしないで……知人ヅラしないで……人として私に振る舞わないでよ……」
「弘緒さんっ! それはさすがに言い過ぎ――」
「井上は黙っててっ!」
手を差し伸べようとすると、弘緒はその手を声だけの威圧で打ち払った。
「……悪魔め」
その声の響きは、たまらず井上の背筋を震わせるほど憎しみに満ちていた。
「悪魔……悪魔よ……人を陥れて……自分だけ助かろうとして……。それで、なに? 今更……私になにを話しかけようとしてるの? 悪魔らしく……私を嘲って、せせら笑いなさいよ? ほら、今すぐ!」
「佐藤……」
「いつまでそこに立ってんだって言ってんの! 消えろっ!!」
「弘緒さんっ!」
飛びかかりそうになった弘緒の身体を、井上が慌てて押さえた。
「クズ! クズッ!」
「弘緒さん……頼みますから、落ち着いて……」
「消えろ……消えろおぉっっ!!」
首を振りながら絶叫する弘緒。一瞬自分の頬に水滴が飛んで、それが弘緒のこぼした大粒の涙だとわかると、
「すみません! どなたか知りませんが、今日のところは、本当にすみません!」
と、必死になって井上が加藤に向かって呼びかけた。
「謝るなっ! こんな悪魔に謝るなよっ! 井上ぇっ!」
「そこの人! 早く! 早く行ってくださいっ! 弘緒さんの見えないところまで!」
「ご、ごめんなさい……」
そうして、加藤は自転車を引いて急いでその場から離れていった。加藤の姿が見えなくなっても、弘緒は口の中で何度も何度も罵倒の言葉を呟き続けていた。
「くそぅ……くそ……」
ようやく大人しくなったところで、井上が手を離すと、弘緒はがくりと膝をついてその場に崩れてしまった。しばらくは、かける声も見当たらずに、井上は今目の前で起こったことが本当に現実なのかを疑った。
そのくらい、彼女の豹変ぶりは意外だった。
いや、意外なんて言葉で片付けてしまえるほどのものではないのかもしれない。
いつも冷静で、落ち着いて大人びていて――
そんな彼女が、まさかここまで取り乱すだなんて。
「……う、」
そのうめき声で、はっと我に返った井上が弘緒を見ると、弘緒は地面にうずくまったまま両手で口の前を押さえているのに気付いた。
まさかこれは……。
「弘緒さん!」
慌ててしゃがみこむと、そのまま彼女の背中を何度もさすり続けた。あれだけ威勢良く吠えていたのに、弘緒はもう最初に加藤を見た時と同じように真っ青な顔で涙をぼろぼろとこぼしている。
その姿が、あまりにも可哀想で不憫で……正直、とても見られたものじゃなかった。
どうしよう……電話。そうだ電話だ!
そう思って井上は急いで竜吾に電話をかけようと携帯を取りだしたところで、
「い、……のうえ……」
と、ものすごく苦しそうに弘緒がしゃべり出した。
「なに!? なんですか? 弘緒さん!?」
家族を呼んで欲しいのだろうか?
それとも、なにか別の事を頼みたくて――
だが、そんな井上の思惑はどれも違っていた。
「……ご、めん……ね……」
涙をこぼしながら言ったその一言とは、自分に対する謝罪の言葉であった。
「……ごめん……ごめんなさい……迷惑……かけて……」
「なにを……なにを言ってるんですか……。そんなことよりも今は誰かを――」
「……ごめんね……ごめん……」
※ ※ ※
「――ありがとう井上さん」
弘緒の家の車が迎えにくると、竜吾が弘緒を担いで後部座席へと乗せた。運転席には、不安そうに弘緒の顔を覗き込む彼女の母親の姿が見えた。
「それでその……一体なにがあったのか、教えてもらってもいいかな?」
運転席に向かって一度声をかけた竜吾は、弘緒とその母親の車がゆっくりと発進していくのを眺めた後、井上に向かっていつもの優しい口調でそう尋ねてきた。
井上はゆっくりと頷くと、自分にわかる範囲で事の詳細を説明した。
そうして全てを聞いた竜吾は、
「そうかい……」
と、それだけ言うと、そのまま大きくため息をついた。
「あんな弘緒さん、初めて見ました……。正直私も、怖くなって……」
「普段なら、絶対にあんな風にはならないんだ。私たちも、最近の元気なあの子の姿を見てたからね。完全に油断していたよ」
「…………」
黙りこくっている井上に、竜吾が言った。
「……これを機に、あの子のことを嫌いにならないであげてくれないかな?」
「そんな……そんなこと、まったく思ってないです」
「そうか……」
「みんな、知ってたんですね。竜吾さんも、いずみさんもミッチーさんも俊介くんも」
「……ああ」
「私だけが、知らなかったんですよね……」
うつむく井上をフォローするように、竜吾が答える。
「ナイーブな話だからね。きっと、本人がそのうち話すつもりだったんじゃないかな」
「そう……でしょうか」
「あの子は、あんな自分のことが嫌いだ」
竜吾の言葉に、井上は先ほど弘緒が言いかけていた言葉を思い出して顔を上げた。
「あの子はその女の子のことを『悪魔』と言ってたんだよね? きっと本人もわかっていると思うけど、その『悪魔』っていうのは、きっと彼女にじゃなく、自分の心の中にいるものを指して、言ってたんだと思う」
「自分の中……」
「そう。あの子がその子に対して募らせた憎しみが、そうやっていつまでも心の中を巣くっているんだよ」
「……それは……いなくなるんでしょうか?」
「いなくならないと思う」
はっきりと竜吾は、そう井上に言い切った。
「あの子はきっと死ぬまで、あの『悪魔』と付き合っていくんだろう。……残酷な話だけど、それを背負わせた方は、もうとっくにそのことを忘れているかも知れないね。でも、一度『悪魔』に憑かれた方は生涯つきまとう。いなくなることなんて、ないんだ」
「…………」
「だから『悪魔』は消えない。いつだってふとした時に現われて、その度に嫌な自分がむくむくと表面化して暴れ出すんだよ」
「……私は、どうすればいいんでしょう?」
弘緒の、あの何度も自分に向かって謝り続けていた姿が頭から離れなかった。
竜吾はすっと井上の前に立つと、そのまま学校へ向かう道へ歩き始める。
「どうすれば、か。難しいねそれは」
そうして学校まで送っていこうという竜吾に連れられて、井上もとぼとぼと歩き始めた。
※ ※ ※
それから、それまで二日に一回は必ず取りあっていた弘緒からの連絡がその日以降、ぷっつりと途絶えてしまった。
気付けば既に一週間が過ぎ、様々な大学の願書提出期限が、どんどんと締め切られ始めていた。




