瘡蓋ハガシ(1)
※今回の話はちょっと重いです。でも三話くらいで短く終わる予定です。
――サイアクだ。
予備校で受け取ったばかりの模試の結果を見ながら、井上は重たいため息をこぼした。やっぱり自分が行けそうな大学なんて、俗に言われるF欄しかないのだろうか。
「井上」
急に名前を呼ばれてぴくんと肩を震わせると、井上は声のした方を振り返った。
「弘緒さん」
「そろそろ学校でしょ?」
「う、うん……」
弘緒に隠すようにして模試の結果を背中に回しながら、井上は苦笑いを浮かべると、
「どうしたの?」
「え?」
「それ、模試の結果」
いくらなんでもバレバレすぎであった。井上は恥ずかしそうに後ろへ回した模試の結果を、そっと胸の前に持ってくると、
「ひ、弘緒さんはどうだったのかな?」
と、わかりきっている結果をわざわざ聞くハメになった。
「私はまぁ……それなりかな」
嘘だ、と井上は思う。
夏に行なったばかりの弘緒の模試の結果は、とある国公立ばかりの志望全てが合格率八十パーセントであった。
普段から会話していてもわかる。
弘緒は自分なんかよりも、ずっとずっと志望校の上を狙っていけるほど頭が良い。
弘緒は既に、井上が今も通い続けている夜間制の学校を九月に卒業していた。少しだけ遅れて入学した井上は、まだ単位を全て修得しきっていないので卒業は来年の三月。
しかしこうした若干のラグはあっても、同い年で同じ授業を受けてきた者同士である以上、きっとどんな言い訳も通用しないであろう。弘緒は現在、ずっと予備校と家の往復生活を送っているし、自分よりも受験勉強の時間は多く取れているはずだろうけれど、では仮にもしこの立場が逆であっても、弘緒に学力で勝てたかというと、そんなことはまずありえない話であった。
「それより途中まで一緒にいこうよ」
「え?」
「学校。行くんでしょ?」
きょとんとしている井上をよそに、弘緒は鞄を肩から下げて先を歩き始めていく。井上は少しだけ慌てがちに模試結果を鞄の中に押し込むと、そのまま弘緒の後についていくように小走りで追いかけた。
※ ※ ※
「弘緒さんはすごいね」
予備校を出てすぐ井上がそう漏らすと、弘緒はまんまるな瞳を見せながら振り返った。
「へ?」
「まだやってるんでしょ。ボーカロイド」
「ああ。うん。知り合いの人のヤツだけね」
「そうそう。名前は――和三盆ちゃんでしたっけ?」
「いーのーうーえーっ!」
じぃっと恥ずかしそうに睨む弘緒。
「その名前、恥ずかしいからあんまり呼ばないでよ」
「あはは。でも可愛いですよ」
「そういうことじゃなくて」
ぽりぽりと照れながら頭をかく弘緒に、井上はコートの前を留めながら言った。
「でもすごいね。もう十月だっていうのに、勉強と両立しながら出来るだなんて。いずみさんもミッチーさんもみんな、言ってた通りだよ。弘緒さんは本当に頭が良いです」
「褒めたって何も出ないよ。私ケチだしね」
「ふふ」
その時、肌寒くなったばかりの外の風がふわりと舞い上がって井上の頬を軽く撫ぜた。井上は弘緒の横顔を見て、思う。
……本当に彼女はいずみの言っていた通りに、ちょっと昔まで誰に対しても心を塞ぎ込んで、学校でもひとりぼっちだったのだろうか?
その頃の弘緒のことを知らない井上は、それがどうにも疑わしく思えて仕方がなかった。それくらい自分の前での弘緒というのは、人見知りはするけれども明るい性格で、いつも自分のことを気に掛けて優しい言葉をかけてくれる、言うなれば温かすぎる友達であった。
いまだに一瞬でもそのような瞬間を垣間見たことすらなかった。
だからこそよけいに、嘘みたいに思えてしまう。
加えていずみもミッチーも俊介も、決してその時の彼女のことを詳しく話してくれないし、全ての事情を知っているはずの佐藤竜吾に関しては、元より無口な性格も相まって、こちらから尋ねるのもいまいち憚られる思いがあり聞くことが出来ない。
当然のように、弘緒自身もその時のことを自ら話すこともない。そうして誰からも聞くことが出来ないまま、気付けば学校は卒業を差し控え、自分は受験という岐路にまで立たされているというのが現状であった。
夜間制の高校に入ってからというもの、そういった複雑な事情を抱えてこの夜間制に通う人々がいるってことを、今では少しずつだが井上は理解しつつあった。しかし、弘緒もそのうちの一人だとは、今の井上には到底思えなかった。てっきり自分と同じように大した事情もなくこの学校に入ってきた一員だと、最初の頃はずっとそう思っていたのだった。
でも確かに彼女は時々、少々首を捻るような行動を見せる時があった。
例えば、今のように――
井上はさきほどまで先を歩いていたはずの彼女が、いつの間にかぴったりと腕がくっつきあうほどの距離まで近付いているのに気付いた。この距離感に、以前の井上はたびたび困惑させられることがあった。「もしかしたらそっち系の趣味の人なのかな?」と思って頭を悩ませたこともあったが、どうやらそうではないらしいことがわかって今ではそれほど気にも留めていないのだが。
それに彼女は、ものすごく自分の周囲に対する仲間意識がものすごく強い。
それはもういっそ病的なまでに、である。
依存しきっているのだ。
それに、彼女が依存するのは人だけじゃない、仲間と一緒に過ごしていた「場所」にも、なのである。
そう思っていると、ちょうど以前みんなでよく行き着けていたファミレス跡が目に入って、そこでぴたりと弘緒の足が止まった。
井上も一緒になって足を止める。結局あのファミレスは、空きテナントになってしばらくした後に取り壊しが決まってしまったのだった。
殺風景な土にまみれたその場所を、弘緒は無言で立ち尽くしていた。二人でここを通りがかると、彼女は決まってここで立ち止まって、それまで話していた話題も全部忘れてぎゅっと唇を結んだまま押し黙ってしまうのだ。
井上は今日も、そういう状態になった弘緒を見つめながら、じっと時が流れていくのを待ち続けた。自分はこの場所にたいしてそこまで強い思い出はない。だけど、おそらく彼女にとってのあのファミレスは、きっともっと全然違う意味を持っているのだろう。
井上は弘緒の顔を覗き込む。
弘緒は、すごく切ない瞳をしてそこに立ち続けている。
「弘緒さん」
これまでも、こうして声をかけたことは何度もあったが、こうなった状態の弘緒は基本何を言っても黙ったままだ。だから今日も、意味はない行為だと割り切っていた。
ところが、
「……井上さ」
そんな風にいきなり弘緒が静かに口を開きだしたので、井上はひどく驚いて弘緒を見た。
「井上は大学どこに行くか、もう決まった?」
「え……」
いきなり大学の話が出るとは予想してなかったので内心ひどくテンパりながらも答える。
「ま、まだだけど。どうして?」
「そろそろ願書の頃でしょ?」
そういえばそうだったか、と今さら井上は妙に納得してしまう。
「私、井上と同じ大学にするから」
「ええっ!?」
いきなりとんでもない発言が飛び出して、思わず声が裏返ってしまった。
「……そんなに驚かなくてもいいでしょ」
呆れた顔でこちらを見る弘緒に、井上は口をぱくぱくさせながら、
「だ、だってだって! 弘緒さんは私なんかより頭も良いし……そんな、悪いよ」
「悪いわけないよ」
そのあまりにも慌てている姿が面白かったのか、弘緒がぷっと吹き出す。
「こんなの、もうずっと前から思ってたことだし……。私、井上がどこにも行かないっていうなら、それでもいいと思ってる。そしたら私も、就職を目指そうかなって」
「で、でもそんなのいずみさんとか――竜吾さんだって!」
「みんな知ってるよ」
「そんな……もったいないよ」
それは、本心であった。
弘緒はもっと良い大学で、私立みたいなお金のかかるところじゃないところも選べて、そうして勉強をたくさん出来る場所に行くべきだと井上は思っていた。
そうして立派な職に就いて、みんなの中でも一番すごい出世頭の、そんなキャリアウーマンになるべきだし、事実そういう人間になれると思うのだ。それなのに――
「私ね、もう嫌なんだ」
「嫌って……なにが?」
おずおずと尋ねると、弘緒は更地になってしまったファミレス跡を見ながら遠い目をして言った。
「もう――昔の自分みたいになるのが嫌なの。すごく、すごく嫌。怖いの」
そうして、弘緒はゆっくりとこちらを振りかえる。
「もしかしたらもうみんなから聞いたのかもしれないけどね、私――」
そこまで言った瞬間、弘緒の全身が硬直した。
「弘緒さん?」
思わず声をかけるも、そんな彼女の表情を見てすぐにただ事ではないと気付く。
それまで生気の灯っていたはずの彼女の表情は真っ青で、よくよく見ると全身も小刻みにぶるぶると震えていた。こんな彼女の姿を見たのは初めてだった。
異常事態だ。
「弘緒さんっ!?」
再度、少しだけ声を荒げて井上が弘緒の名前を呼んだ。
だが、弘緒が見ているのは、自分の顔ではない。
目の焦点がこちらではなく、その背後であるとわかると、井上はそのまま自分の背後を振り返った。
井上は、それほど目が良いわけではない。
なので振り返った瞬間は、後ろに誰もいないと思ってしまった。
だが、違う。
自分の背後、どれくらいの距離があるかわからないが、そこに自転車を引きながら歩いている女性の姿が目に入った。
歳は同じくらいだろうか。ひどくやつれており、痩せぎすで、地面を見ながらとぼとぼと歩いている姿は悲壮さ以外に浮かぶ言葉がないほどだ。
再び井上は弘緒を見た。
間違いない。弘緒は彼女の姿を視界に捉えている。
でも、だからといってあの女性がどうしたというのだ?
「弘緒さんっ。どうかしたんですか? ねぇ、弘緒さん!」
近付いて、軽く弘緒の肩を揺すってみる。
「……たしは……ぶつじゃない……」
ぶつぶつと何かを呟く弘緒。
そうこうしているうちに、自転車を引きずっている女性がこちらに向かって顔を上げた。
おそらく、距離は四メートルもない。
「――佐藤……弘緒?」
「……わ……お……つじゃない。……ぶつじゃない……」
弘緒に向かって顔を近づけて、どうにかその言葉を聞き取れた瞬間、井上はようやくこの時、初めて彼女の心の闇に触れた気がした。
――わたしは、汚物じゃない。
何度もそう呟いた後、ようやく意識をはっきりと取り戻した弘緒の顔を見て、井上はそれまで自分勝手に抱いていた彼女のイメージが一八〇度一変した。
「弘緒……さん……」
その瞳には、殺意が沸いていた。
小刻みに震える身体は、今にも殴りかかる寸前でどうにかブレーキをかけているように見えた。
唇を血が滲み出そうなほど噛み続け、まるで井上がその場にいることも忘れているかのように、弘緒はその女性を睨み続けていた。
彼女の名前は、加藤という。
弘緒の、幾人もの恨みを持つ人物の一人――彼女を裏切って、いじめグループと一緒にいじめに加担した、直接のトラウマの元凶となった人物その人であった。




