松前さんの恋愛事情(2)
「片付いてるじゃん……」
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、松前は雑然と並べられた家具やその他雑貨類を見てそう呟いた。
「これのどこが汚いんですか」
「汚いだろ。どう見ても」
春日はそう言いながら、先ほど倒したばかりのデスクチェアーを元の位置に戻した。
デスクチェアーもさることながら、掃除機はかけていないわ、洗濯物は畳んでないまま部屋干しでかけられているわ、ベッドの上の掛け布団も起きぬけにそのままだわ、とにかく最悪な状況なのだ。とても人を招き入れる体ではない。
「私が今日家を出てきた時はこれより汚かったけど」
「なんだ。まさかの汚部屋女子なのかお前は?」
「嫌味な人ですね……。まぁ前から薄々気付いてはいたけど」
「ふふん」
不機嫌そうにこちらを見つめる松前に向かって偉そうに鼻を鳴らしながら、春日は適当にローテーブルの横に置かれたクッションを指さした。
「そこに座っていいぞ」
「どうせここにしか座っちゃダメなんでしょ」
「そうとも言うな」
「いちいち嫌な人」
言われるまま松前がぺたんと腰を下ろすと同時に、春日はキッチンへ向かって冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「そういえば春日先輩の家って、牧場だって聞いたんですけど」
「ああ」
急に何を言い出すんだろう。
「てことはお金持ちなんですよね。このローテーブルも、なんか高そう」
「それは別に高くないぞ」
「それはお金持ちの感覚でってこと?」
「一般庶民の感覚でだ! そうやって人をなんでもかんでもイメージで決めつけるなよ」
「いや、だってなんかすごく綺麗だから」
元来とても綺麗好きな人間ではあるのだが、人からそれを指摘されるのはあまり好きではないので、「それはちゃんとまめに拭いているからだ」ということは黙っておくことにした。
そうして麦茶とコップを持って戻ってくると、松前はローテーブルに両肘をつけて何やら指の先をじっと見つめていた。
ささくれでも出来ているのだろうかと思って近付くと、意外にも松前はマニキュアをしていたらしい。
「……お前。僕の家にくるだけでいちいちマニキュアなんか塗ってきたのか?」
「ち、違いますよっ!」
コップをテーブルに置きながら春日がそう言うと、松前は興奮気味に声を荒げた。
「これは今日、鵜飼さんと会う約束で! それで、昨日の夜から色を選んで――」
「今日? 今日ってお前」
春日は麦茶を片手に、時計に向かって振り返りながら言った。
「もう昼過ぎじゃないか」
「……そうなんですよ」
松前は両手をぎゅっと膝の上で握りしめながらうつむいた。
「ドタキャンなんですよ……。今日は二人で映画を観に行く予定だったんです」
「なるほど」
ちゃぽちゃぽと麦茶を注ぎながら春日は呑気な声をあげた。
「ちなみに何を見る予定だったんだ?」
「『風邪ひかぬ』です。鵜飼さんが、ずっと観たい観たいって言ってて」
「その映画は主人公が乾布摩擦でもしているのか」
確かアニメーション映画だったなと思い返しながら、自分のグラスにも麦茶を注ぐと、春日はそれに口をつけながら松前の話に耳を傾けた。
「私……もう鵜飼さんのことがわかんないんです。すごく良い返事で楽しそうに帰ってくることもあれば、急に冷めたようにふっとメールが終わったり……」
「まぁ、あの人は気分屋だからな」
グラスから口を離してそう言うと、松前はその綺麗なマニキュアの爪を隠すように手をローテーブルの下に置いて言った。
「私、別にナルシストなんかじゃないけど。でも、中学の時に知らない男子から告白されたことだってあるし、人並みに恋愛をしてきたつもりなんですよ。でも、今回の鵜飼さんは本当に自信なくしちゃいます。魅力、ないのかなって」
「うーん」
こういう場合、あると言った方がいいのかどうか、春日は非常に悩むところであった。ずばりあるというと、なんというか、妙な下心でも勘ぐられたりしそうで迂闊なことは言えないような気がするのである。
なので、
「メールだけだと、伝わりにくいんじゃないか?」
こう返してみる。すると、
「でも! デートしてる時だってそうなんですよ! 大分盛り上がったなってところで、しかもこれから日が沈んでロマンチックな時間帯ってところで! 『あ、急に良いフレーズ思いついたわ』とかなんとか言って! それで終わりなんですよっ!? おかしいでしょそんなの!?」
「……それは。まぁ……うん。おっしゃる通りですな」
いきなりやってきた彼女の勢いに押されながら、春日はずずっと麦茶をすすりながらそう言った。
しかしこの二人の奇妙な関係はつくづく不思議な話であるなと、実は春日も前々から思っていたのだった。そこのところが気になって春日は、
「ところでお前達は付き合っているのか?」
と突っ込んでみたところ、松前からは無言の首振りが返ってきた。
ここなのだ。
あの無類の女好きである鵜飼が、よりにもよってスペック高しと未開大内で噂の松前と、まさかのノータッチ交際なのである。いやそもそも現時点では交際という括りですらない。
おかしいにも程があるのだ。最初にネット通話で話した時には、千佐都にも月子に対してもものすごい食いつきっぷりで、肉食さを懸命にアピールしているようにも伺えた。
その鵜飼が、松前に対してだけはなぜか健全でピュアな付き合いを押し通そうとしている。去勢でもされたのかと言いたくなるほどに。
「私が鵜飼さんのことを好きなのは……きっと本人は気付いてるはずなんです。でも、鵜飼さんは私に対してなんにもしてこない。手を繋ぐことすら……」
「むぅ……」
あのちゃらんぽらんは、はっきりいって何を考えているのか判別するのがすごく難しい。悟司も何を考えているのかものすごくわかりにくいキャラではあるのだが、あれは単に何も考えてない場合が多いからそのせいも相まって予測不可能なだけだ。
鵜飼は悟司とは大分違ったタイプの人間だ。いや、悟司どころか未開大の知り合いを思い浮かべても規格外の人物で参考にすらならない。一番近そうなのは成司だが、それでも彼はどちらかと言われると悟司と似たような部類の人間だと思うのである。
鵜飼は、はたしてどういう人間なのか。
もう知り合って結構経つにも関わらず、春日には未だに彼の人間像がいまいちはっきりと掴めないのであった。
「とにかくそれで僕に相談なのか。鵜飼は一体自分のことをどういう風に思っているのか、と」
松前がゆっくりと頷くのを見て、春日はデスクチェアーの背もたれに、今度は勢いよくひっくり返らないようにゆっくりと背をあずけた。
ぎしぎしと背もたれを揺らしながら春日は言った。
「しかしだなぁ。僕も彼のことについてはよくわからんぞ。破天荒という言葉がぴったりというか、どうにも変な人だしな。言うこと為すこと、随分浮き世離れしている」
「ボーカロイドで……すごいんですよね。悟司くんよりも」
「ああ。僕らなんかじゃとても敵わないほどにな」
そういえば、先ほどの雑誌にも「ひまじんP」として記事が載っていたなと春日はぼんやり思った。本人からは詳しく聞いていないけれども、どこかプロのレーベルから声がかかっているとの噂もある。
そう考えてみると、実は結構すごい人なんだよなとあらためて気付かされる。
これまで芸能人など一切お目にかかったことがない春日にとっては、鵜飼のような人物と普通に話しているという事実は、なんだかとても奇妙なことに思えてしまうのであった。
そして、そんな人物とデートしているこの松前という女にも――
「私……もうダメなのかな」
暗いトーンで、ぽつりと独り言のように松前がそう漏らす。
「結構、頑張ってきたんだけど。私じゃ、鵜飼さんとは釣り合わないのかな」
「そんなことはないんじゃないか」
少なくとも外見的には、という言葉を押さえ込んで春日はそう言った。実際に二人が並んでいる姿を見たことはないが、おそらくベストカップルであろう。松前の背丈が、鵜飼の背丈に対してやや高すぎるような気はするけれども、別に抜かされてるわけではないのでオールOKである。
「となると問題は互いの中身、か」
春日はそう言ってから、麦茶をテーブルではなく自身のデスクの上に置いた。
「思うに、松前は鵜飼のどこが良いと思ったのだ?」
「顔」
身も蓋もない、と思ったところで、
「だったけど、別にそれって普通ですよね? 第一印象というか、最初に惹かれたのはやっぱそこですよ」
そう言って、顔の前でぱちんと手を合わせる松前に、春日は曖昧に納得しつつも頷いた。
「その後は?」
「その後は……話してみると面白い話でよく笑わせてくれるし。それに……あのぽわんとした空気って言うんですか? あのオーラがなんだかすごく、癒されます」
「ぽわん、って。あの人の場合のそれは、ダメ男のオーラなのではないか?」
「それはちょっと思いました」
思ったのかよ。
「多分鵜飼さんって、だらしない人なんだと思います。よくお金がないない言いますし」
「あぁ。そういえば楽器というか、いっつも音源ソフトとか機材を買ってるな」
春日は腕組みをしながら、以前にもそんな話を弘緒がしていた事を思いだした。
「で。松前はそんなダメ男が良いと?」
「多分。でも自分の好みって、あんまりよくわからないから言語化が難しいですけど、少なくとも春日先輩みたいなのはちょっと」
「ずいぶんと傷つくことを実にさらっと言うな君は」
逆にだ、と春日は鼻を鳴らしながら松前に向き直った。
「逆に、僕みたいにきちっとした人間の方がきっと幸せになれると思うのだがな。――と、別にこれはお前が好きと言ってるわけじゃないぞ」
「わかってますよそんなの。むしろやめてください。こっちから願い下げです」
ひでぇ言い草。相談してきた相手に対してなんて悪態だろう。
「きちっとしている男の人って、ようするにまるで隙がないってことですよね? 隙がない男の人は逆に敬遠しちゃいますよ。やっぱり、ほどほどにダメな方がいいんです。私は自分に隙があるってわかってるんで」
「ほほう。ということは僕には隙がないという意味で取って良いのか?」
「そうじゃありません違います」
即答かよ。
「先輩は逆に隙だらけですよ。ただ、ツボが違うんですよ」
「わかりにくい言い方だな。なんだよツボって」
「ツボはツボですよ。少なくとも、私の中では部屋を綺麗に保ったままの男の人は神経質そうで嫌いです」
「とうとう嫌いとまで言い切ったな、後輩。相談打ちきって良いか」
「もちろんダメですよ?」
春日は顔では笑っていたが、内心はマグマで煮えたぎっていた。




