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8月16日 春日驚輔

第二話更新です。

三話以降は本編の連載と被っちゃうかもしれませんが、

よろしくです。


 八月十六日。

 北海道帯広市。

 その市の郊外に春日驚輔の実家はあった。

 家の前には、一度車でその道を通った者なら誰もが気付くほどにでかでかとした字で「春日牧場」と書かれた看板があった。その看板の前にある入り口からすぐ入ったところにはこれまた大きな牛舎小屋があり、そのすぐ隣には二階建ての大きな一軒家。これが彼の実家の全貌である。

 さて、その大きな一軒家の玄関の灯りが突然ぱっと灯った。ほどなくして玄関から一人の長身の男が外へと出てくる。

 これが春日驚輔。その人物だ。

「それじゃ、僕はもう行くから」

 春日はリビングに向かってそう声をかけると、肩に提げたバッグの中身を確認しながら、親から譲り受けた自家用車へと向かって歩き出した。

「あぁ、兄ちゃん! 待ってっ」

 その言葉を聞いた春日は、嫌な顔をしながらゆっくりと立ち止まった。

「……なんだ? 急いでるんだ」

 めんどくさそうに振り返ると、そこには外の夕闇と同化するように黒い衣装に身を包んだ少女、春日三睦みちかがぷぅっと顔を膨らませて立っていた。

「『なんだ?』じゃないさっ! みちかも連れてってくれるって約束したじゃん!」

「そんな約束をした覚えはない」

 春日が無理矢理会話を打ち切ろうとしてそう告げると、三睦は大きくかぶりを振った。彼女の真っ黒なツインテールがわさわさと揺れる。

「したよ! 前の春休みに『札幌連れてって』って言ったのに、お兄ちゃんは何度も『ダメだ』って言ってきたっけ、公平にじゃんけんしたべや。したっけ(そしたら)お兄ちゃんなまら(すごく)じゃんけん弱くて、本来なら一回だけって約束だったのに無理矢理三回勝負にしてさ。んでも兄ちゃんまた負けたから結局五回やることになって――」

「さてどうだったかな。あいにく良く覚えてないんだ」

 妹に向かって適当に相づちを打ちながら春日は助手席にバッグを置いて運転席へと回る。

 バッグの中身は『とある人物』から頼まれていたお土産だった。しかし、どうしていきなり『あいつ』はこんなものを頼んできたのだろう。

 このことに関しては、突然電話があったときからずっと疑問だったが、まぁそのことは直接会って渡したときにでも聞けばいいだろうと思い、春日は再び妹の顔へと目をやった。

 相変わらず三睦の姿は夕闇に染まって真っ黒だった。このまま完全に日が沈んでそのまま一緒に闇の中へ溶けてくれないかなと、春日は半ば本気で願っていた。

 だが、おそらくこの口やかましい妹はそんなもんじゃ収まらないだろう。

 案の定、三睦は地団駄を踏みながら大声で春日を攻め始めた。

「んでもお兄ちゃん負けたべや! したっけ苦し紛れに言ってたじゃん! 『夏には連れてってやるから今回は勘弁しろ』って。あの約束、もう忘れたんかい!」

「ああはいはい、思い出した思い出した。でも今回は無理だ。てことで」

 そう言って春日はばたんと運転席のドアを閉めた。

 これ以上のやりとりは無用だ。そう思った時だった。

 途端、三睦の顔がべったりと運転席の窓へと張り付いてきたのだ。

 そのあまりにもホラーな表情に、春日は思わず声を上げそうになる。

「無視して車にのりゅなぁ! 兄ちゅあん!」

 窓にぐいぐい顔を押しつけながら三睦は白目を剥きだしにしていた。なんなのだこいつは。春日は背筋をぞっとさせながら、これが本当に同じ血の繋がった妹なのかどうか本気で疑い始めていた。はっきりいってヨゴレってレベルじゃねぇぞ、これ。

「は、はなれりょ」

 ろれつが回らなくなって春日はついつい妹と同じような喋りになった。自分の妹なのに恐ろしくてまともに顔を見ることが出来ないとは。

 仕方なしに春日は彼女の衣装の方へと目をやることにした。

 三睦はいつもゴスロリータ系の服を好んで着ていた。今日もそうだ。そもそもなぜこいつは真夏にまでそんな暑苦しい格好をするのか。

 おかげ様で今日も見ているだけで暑苦しい。

 春日はこめかみを揉んで、大きなため息をついた。

「にゃらちゅれてけってーっ! にゃんでしょんなにちゅめたいんしゃ!?」

 なおも三睦は窓をばんばんと叩き始める。ちゃんと喋れないことにようやく気付いたのかその小さな顔をわずかだけ逸らし、ほっぺただけをつけた状態で三睦は続けた。

「いっつも兄ちゃん優しいのに。昨日だってみちかのためにカレー温めてくれたじゃん」

「ば、晩飯の残りのカレーを温めるくらい、誰にでも出来るだろ。造作もない」

 ようやく妹のホラー顔から抜け出してほっとする春日。

「温め方の難易度なんてどうでもいいんさ! なんでみちかが遊びに行きたいって言うとそんな嫌がるんさ。わけを言え。言えってー」

 ばんばんばんばんばんばんばんばん…………。

「あー…………、もう………」

ばんばんばんばんばんばんばんばん…………。

 とうとう春日のイライラが限界に達した。

「うるさいっ!」

「ぎゃんっ」

 春日が運転席のドアを開けると、突然の事に対応できなかった三睦が窓に押しのけられて派手にすっころんだ。あっという間に漆黒の少女が砂まみれになる。

「あのな。前にも言ったが、僕の部屋にお前を泊めるスペースなんてない。それに加えて布団も一つしかないんだ。いっつもお前が寝ているあの立派なベッドも枕もない。寝床は僕の部屋の地べた一つ。そんなとこで寝てみろ。朝起きたら体中ぎっしぎしですごく痛いぞ? それでもいいって言うのか、お前は」

「い、いいもん……」

 ぶたれたみたいに頬を押さえながら三睦は春日を見上げた。そんなに強く開けたつもりはなかったが、もしかしたら少し腫れたりはしたかもしれない。

 その姿を見て良心が少しだけ痛んだ。

 が、ここまで来てもう後には引けない。

「みちか平気だもんっ!」

 三睦は涙目だった。

「……どうしてそこまで付いていきたいんだ。確かそろそろお前の学校も始まるだろ?」

 春日はため息まじりにそう言った。

 今年、高校二年生になる三睦の学校は二十日から始まるはずだ。もうあまり日もない。仮に三睦をあの街へ連れて行くならば、最終的には再びこの家まで送り返さなくてはならない。

 正直に言って、そんな面倒くさいことを春日はしたくなかった。

 実家から大学の町まで、車で向かっておよそ五時間。一度戻ってきたら、とてもじゃないがその日のうちに再度運転する気などとても起きないだろう。だから、三睦を自分の家に一泊か二泊させてやって後日、さらに五時間の距離を戻る。そうして実家に着いたら、またも運転する気などなくすはずだから、実家で一泊かには――ってやってられるか!

 冗談じゃない。春日は首を振って思った。なんで自分がそんな面倒なことしなけりゃならんのだ。

「僕は新しく組んだメンバー達と一刻も早く次の曲を作らなきゃいけないんだ。作曲担当の後輩が既にもう曲を仕上げている。別に曲自体は締め切りがあるものじゃないが、待たせておくと今度は作詞担当の千佐都というとんでもない悪女が何を言い出すかわからないからな、だから――」

「……やっぱり兄ちゃんは……あの女が」

「……あの女?」

 春日が片眉を上げて聞き返すと、三睦は慌てるようにして口を押さえた。

 なんだこの反応は。

「おい、三睦。今のはなんだ? 『あの女』ってどういうことだ。お前なんで千佐都のことを知ってる?」

 語気を強めて迫るが、三睦は口を両手で押さえたままぶんぶんと忙しく首を振るのみ。

 どうにも怪しい。そう思った瞬間に春日ははっとした。

「まさか――お前勝手に」

 心当たりが一つだけあった。


 あれは先週のこと。母からおつかいを頼まれ、町の方まで買い物にでかけた時のことだ。

 あの日春日は車を走らせてスーパーに着いたとき、自分のスマートフォンを家に置き忘れてきたことに気付いた。せっかくの帰郷なのだし、どうせならおつかいを済ませた後でそのまま大きなデパートの方まで足を向けようかと思っていたのだが、急遽それを取りやめにしておつかいの品を買うと、春日はそのまままっすぐ実家へと帰宅したのだった。

 家に戻って母へおつかいの品を渡すと春日はスマートフォンを取りに、真っ直ぐ自分の部屋へと向かった。階段を上がり部屋のドアを開けると、なぜかそこには家を出る前にはいなかった三睦がおり、彼女は春日のベッドの上に寝そべったままのんきに雑誌を読みふけっていたのだ。

 その当時の様子を今ながら振りかえると、言われぬ違和感がぐるぐると駆け巡る。

 三睦が勝手に春日の部屋に入って雑誌を読んだりしていることは、それほど珍しいことでもなかった。昔は兄妹同士でマンガの貸し借りなど普通に行なっていたし、そもそも三睦は春日自身も自認するほどに重度のブラコン気質である。たいした用がなくても三睦が勝手に自分の部屋にあがりこんでいることなど、今更目くじらを立てても仕方のない、見慣れている日常風景の一つなのである。

 なのであの時は一見、いつも通りの光景のように思えた。

 だが、よく考えてみれば問題はその読んでる雑誌の内容だ。

 彼女が読んでいたのは以前自分が購入したDTM関連の機材の紹介をする雑誌だった。

 大好きなビジュアル系雑誌ではなく、なぜか三睦は普段絶対に興味を持つはずのないその雑誌。

 そしてその横には自らのスマートフォン。

 そのスマートフォンはなぜか、三睦の手がすぐ届く位置で裏返っていたのだった。


 そこまで考えてから、春日は確信を持ってポケットからスマートフォンを取り出した。

 すると、

「ああああ! 兄ちゃん!」

 途端激しい動揺を見せる三睦。ビンゴだ。

「貴様……もしかして電話したな?」

 ぎろりと三睦を睨み付けると、背筋をぴんと張って三睦が言った。

「し、してない」

 その声は先ほどとは別人のように弱々しい。

「わかった。なら確認するからしばらく静かにしていろ」

「だ、だめ……」

 いやいや首を振る三睦を無視して春日は発信履歴を開いた。休み中に連絡した人間はどれも完全に記憶している。たいした数じゃなかったので、怪しい履歴はすぐに見つかるはずだ。そう思って順番に上から眺めていくと、それは思っている以上に簡単に見つかった。

 その発信は八月九日、相手は樫枝千佐都。

 間違いない。

「三睦……貴様、千佐都に何を言った?」

「ひっ」

 おびえる妹の顔を見て春日は自分が今、相当怒りに満ちあふれた顔をしているのだろうと思った。

「僕はな、三睦。勝手に人のプライベートを探るような人間が大嫌いなんだ」

 そこまで言って一瞬、過去に千佐都に演奏動画を見られた時のことがフラッシュバックしたが、今そんなことはどうでもいい。

「答えろ三睦。今なら怒ったりしない」

「……う、うそだ。に、兄ちゃん。もう怒ってる、もん」

「オーケー。ならば訂正しよう。『今ならこれ以上怒りのボルテージを上げないでおいてやる』……さぁ。早く言えよ、三睦」

「ううっ」

「言えって言ってるだろっ!」

 春日は牧場の隅まで届きそうなほどにでかい怒声を出した。

 その迫力に気圧されるように、

「……ふぇっ」

三睦の顔はくしゃくしゃに歪んでいき、

「…………ぐすっ。兄ちゃんの――」

威勢を張る力を徐々に失なわせながら三睦は、

「にいちゃんの…………ばかああー。うわああん!」

 先ほどの春日の声に負けないほどのでかい声でぎゃんぎゃん泣き喚き始めた。

 春日は耐えきれず耳を塞ぐ。

 我が妹ながらとんでもない人間拡声器だ。

 近所迷惑にもほどがある、と言いたいところだが幸いにも春日の家は隣の家まで数十メートル以上離れていた。広大な牧場を囲んでいる高原一帯に向かって、迷惑などという言葉はあってないに等しい。自分もそれをわかっていてわざと全力で声を荒げたのだ。

 しかし、当然その声を聞きつけるものはいる。

 身内の者達だ。

「あらあら驚輔、三睦を泣かせちゃダメでしょや」

「ほっほ。なまら威勢の良い声で泣いとるもんがいると思ったら、みっちゃんでねーか」

 春日の母親と祖父が一斉に牛舎小屋の方から泥だらけでこちらへ向かってくる。さらにその遙か後方には父の姿まで見える。みんな牛の世話をしながら、一日の終わりの片付けをしていたのだろう。

 ……ああ、『また』今日も帰れないのか。

 春日はくらくらとめまいがして頭を押さえた。


 実は今回のようなやり取りは、春日が実家へ帰ってから既に何度も繰り返されてきた光景であった。本当ならば、もっと早くアパートに戻っているはずだったのだ。

 なのにいつもこの三睦がそれを阻止してくる。理由は前述のように自分を一緒に連れていけという、その無茶な要望のせいだ。それを拒否すればするほどこのバカ妹は益々だだをこねだす。そしてそんな三睦の声を聞いた家族が横からどんどんとやってくるのだ。

 気付けば家族全員が「連れて行け連れて行け」の大合唱。そうして連呼する家族の声が耐えきれなくなると、春日はたまらず話を打ち切って部屋へと逃げ戻っていくのだった。

 ここ数日はずっとこれの繰り返し。

 いい加減、うんざりだった。

 この現象のたちの悪いところは、自分が部屋へと戻って数分もすれば我が家の大人達はこぞって晩飯をつまみに酒を飲み始め、それまでのことなど綺麗さっぱり忘れるところだ。

 三睦も三睦でそんな酔っ払いの彼らに囲まれて猫可愛がりされると、どれだけ泣きべそかいていようがころりと機嫌を取り戻して酔っ払い連中と共に大騒ぎし始めるのだ。

 ああ、なんて賑やかな家族だろう。春日自身もそこが我が家の長所だとは思う。思うのだが、今回のような事態の場合は本当に最悪なのだ。

 家族は基本的に三睦の味方だ。二人で言い合いをしたら必ずと言って良いほど家族は三睦の方へとつく。末っ子で女の子ということもあるのだろうが、とにかく家の連中は三睦にとことん甘いのだ。

 その上、腹が立つほど忘れっぽい。酒を飲めばどんな些末ないざこざも全て解決出来ると勘違いしてやがる。そのおかげでこっちはどれだけ同じやりとりを繰り返されたと思ってるのだ。何度も何度も同じ台詞と行動をループしてんじゃねぇよ。SFじゃねぇんだぞ。

 内心そう毒づきながら、春日は目の前で今日も母と祖父に撫でられる三睦を睨み付けていた。こうしている内にも時間は淡々と進み続け、日数はもったいないくらい無駄に過ぎているというのに。

 こんなところでいつまでも過ごしていたら、あっという間にゲートボールが生き甲斐の老人になりそうだ。

 田舎ってヤツはまるで、タイムイズマネーの概念が存在しない亜空間だ。

 ……我ながら至言だと春日は思う。

 兎にも角にも休みだからと言ってひょいと顔を出すだけでこれなのだ。まぁ休みごとに一回は帰ってこいというのは大学に入る前からの両親、および祖父母との約束なのでやすやすと無碍にするわけにも行かないのだが。

「さ、驚輔。三睦に謝りな」

「驚輔、とりあえず風呂入ってからじっちゃんとゆっくり話すか? な?」

 ……ああその台詞、全く同じシチュエーションで実家を離れようとした前回(三日前)にも全く同じ事を言っていたぞ。我が母、および我が祖父よ。

 しかし、さすがにもう本当に限界なのだ。いつまでもこのループに縛られててはたまったもんじゃない。

 ゲートボールはまだ早いのだ。そんなことを思っている間にも牛舎小屋からのんびりとした牛の鳴き声がした。くそっ。お前らも気付けばあっという間に肉になるんだぞ畜生。


 ……逃げよう。

 そう決意した春日は再び車に乗り込むと急いでキーを回した。

 こうなったら、こちらのペースを無理矢理にでも掴んで脱出するしかない。

 エンジンが軽快に振動を立て始めた。

 いける!

「あ、こら。ちょっと驚輔。お待ちよっ」

「ああ風呂、入っていかんのかー? 驚輔」

 母と祖父の声も無視してハンドルを回す。

 てかこんな時でもゆったり喋るんだな、この二人は。

「ああああん! お兄ちゃんのばかああああああああああ!」

 春日のその行動を見て、より一層でかくなる三睦の泣き声。

 ……こいつもこいつだ。一体どんだけ声量あるんだ。

 春日は呆れながらもそんな三睦の声を振り切って車をバックさせた。そのまま切り返して車体を我が家の入り口「春日牧場」の外へと向ける。

 春日はちらりと三人の顔を見た。夕闇に紛れてしっかりと顔を確認することは出来なかったが、どうやら母も祖父も車に飛びついてきたりはしなさそうだった。砂まみれでへたり込んでいる三睦もいつの間にか家の中にいたはずの祖母に抱きかかえられて身動きが取れないでいる。

 行ける!

 今日こそ、帰れる!!

 意を決してペダルと踏み込もうとしたその時、こんこんと運転席の窓を小突く音がした。

 驚いて春日が窓の外を見ると、いつの間にか作業着の父がそこに立っていた。

 指をくいくいと動かす父。

 ――窓を開けろと言うことだろうか?

 途端、緊張が走る。

 父は、この家族の中でも唯一自分の時間をしっかりと持っている人間だった。

 ――何を言うつもりだろうか。

 だが、今更何を言われても三睦を連れて行く気はない。もし父に何か言われてもそこだけはしっかりと主張しよう。

 そう思って春日は覚悟を決めたように運転席の窓をゆっくりと開けた。

「驚輔。三睦は本当にお前のいる町に行きたがってるんだ」

 父の口から出てきたのやはり三睦のことを思っての言葉だった。

「わかってます……。いつかは連れて行ってやろうとは思ってます。でも、今回は」

 春日は父親が苦手であった。

 あまりにも賑やかすぎるこの春日家の中でも、父だけはいつだって非常に寡黙で、いつもむすりとして何を考えているかいまいちつかみ取れない人だった。

 まるで感情のない機械人間。

 それが春日の持つ父へのイメージであった。

 だがそんな父親にも非常に人間らしい一面を持っている部分があった。

 それはロックアルバムの収集である。父は過去から現代まで、非常に多くのレコードやらCDなどをかき集めていた。

 幼い頃、春日は父がそれらの内の一つをソファに身体を預けたまま愉快に視聴している姿を目撃した。

 父が唯一人間らしい笑みを見せる時。それが音楽を楽しんでいる時だった。

「また、新しく学校の仲間たちと何か始めたそうだな」

「それは……母さんから聞いたんですか」

 父は表情を変えずに頷いた。

「大学でも音楽をやっていると言う話は聞いている……どうせそれ関係のことだとは思っているがな。ところで――」

 強く彫りの入った父の顔がきゅっと締まる。

「――まさかと思って聞くが、馬鹿なことを考えてはいないだろうな?」

 やはり、それを聞いてくるか。

 思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。

 わずかな沈黙の後で、春日は口を開いた。

「どういう、意味です?」

 その返事はどこかぎこちなかったかもしれない。

「……なんでもない」

 父はそれだけ言うと、春日から目を離した。

「行け。三睦の件は俺がなんとかする。だが約束だ」

「約束?」

「ああ。今度は俺と約束だ。次帰ってくるときは必ず三睦を連れて行ってやれ」

「父さんと、約束ですか」

「そうだ」

 父との約束は破れない。

「わかりました」

 春日は渋々と頷いた。

「あいつの目的は知らん。聞いても答えないからな。だが、一度約束をしたのならばそれを反故にするな。それは高校の頃、俺とした約束も同様だ」

「……わかってます」

「……わかってるならいい」

 それきり父は何も言うことなく、三睦達の方へと歩いて行った。

 春日は一気に緊張の糸がほぐれ、大きく息を吐いてからアクセルペダルを踏んで牧場を後にした。


 一時間ほど暗い夜道を走り続け、途中でガソリンスタンドに寄って缶コーヒーを買った。

 片手にコーヒーを持ち、もう片方で給油をしながら春日はぼんやりと三睦のことを思った。

 悪いことをしたとは思っていない。あいつはそもそもどうしてそこまで自分がいる街に行きたがるのか、それがわからないからだ。

 第一、今の仲間達に自分の妹を紹介する気にはなれなかった。

 あんな奇抜な格好をしている妹を、みすみす見世物になどしたくなかった。

「あいつらが……そういうヤツじゃないってのはわかってるんだけどな」

 覚悟の問題だ。今はまだ、そういう気分じゃない。春日はそう思った。

 三睦はビジュアル系と呼ばれるバンドを好んで聴いている、いわば『バンギャ』と呼ばれる部類の人間であった。

 しかもきっかけは他でもない春日自身からのものである。


 小学校の頃から父のコレクションを聴いて育った春日は、中学に上がる頃ビジュアル系バンド『デスペラード』の存在を偶然、同級生から知らされることになった。

 それまで父のコレクションである七十年代のブリティッシュロックばかりを聴いて育った春日にとって、『デスペラード』はまさに脳髄を揺さぶられたような衝撃であった。

 彼らは奇抜で艶やかなファッションに身を包み、一般的にハードロック、デスメタルと呼ばれるジャンルの激しいプレイで演奏するビジュアル系バンドであった。

 現在のミキシング技術によって音圧パツパツにマスタリングされた音は、それまで春日が聴いていたロックとは完全に別次元の魅力を秘めていた。それはまさに驚天動地という他ない。春日はあっという間にビジュアル系の魔力に取り憑かれ、自身も黒ずくめの服装を好んで着るようになっていった。

 中学校を卒業し、帯広市の中心の方にあった高校へと進学した春日はそこで自分と同じように音楽が大好きな連中達と出会う事になった。

 だが、彼らはビジュアル系など一切興味のない、むしろそういった音楽の存在を嫌悪するような連中ばかりであった。

 彼らはなぜかそういった音楽を激しく嫌い、罵り、バカにした。

 そんな連中達と出会って感化されていく内に、春日はいつしかあれだけ夢中になっていた『デスペラード』の新譜を追うことをやめてしまっていた。

 今ではその『デスペラード』も解散し、現在はボーカルとベースのメンバーが新しく『イントルーダー』というバンドを組んでいる。

 三睦はその『イントルーダー』の大ファンだった。三睦の部屋には今でも彼らのポスターが天井の隅までべったりと貼られている。

 おそらく妹のあの格好は、兄である自身から受け継いだものなのだ。

 わざわざ口にしたりはしないが、あれだけブラコンを発症させまくっている妹だ。間違いなくあの格好の原因は自分にある。春日はそう思っていた。

 三睦のあの格好は春日家には大人気であった。祖父祖母いわく「お人形さん」、母いわく「都会で流行のボスロリ(微妙に惜しい)」、父いわく「ふりふりドレス」らしい。ただでさえ溺愛しながら育ててきた上に、そんな人形っぽい格好をし始めたのだからもう信じられないくらいに可愛がる可愛がる。

 だが春日は、そんな三睦の格好を見ていると、時々無性に当時の自分のことを呼び起こされて嫌な気分になることがあった。

 というのも『デスペラード』の織りなす音楽の世界観がビジュアル系バンドの中でも極めて、思春期特有の厭世観にマッチしていたからであろう。

 一言で言えば「厨二的」なのである。「僕は僕で誰かじゃない」とか急に言い出しちゃったりする、アレだ。

 春日自身も『デスペラード』を聴き漁っていた時ちょうど中学二年生系ウイルスにやられていたので、彼らの歌詞は自らのアンテナをびんびん感知させ、大いにその力を持て余すことなく外界へと発散させていたのだ。

 だからであろうか。三睦を見ているとあの頃の自分の痛い言動、行動を思い起こして激しく胸をざわつかせるのだ。幸い三睦はそんな症状に冒されてはいないようだが。

「……全く。黒歴史っていうものをどこかに放るゴミ箱のようなものでもないものかな」

 今では懐かしくもありほろ苦くもある微妙な心境なのだが。

 捨てたくて捨ててしまったものだが、時折無性に愛おしく感じたりする。

 やがて今以上に年を取れば、そんな痛々しい思い出も笑い話ですんでしまうのだろうか。

 同時に、今自分が真剣に取り組んでいることも年を取れば消したい思い出へと変わってしまうものなのだろうか。

「馬鹿馬鹿しい」

 考えても意味など見つかるわけないのだ。あの頃だって、ずっと考えていた。毎日真剣に考え、それでも『厨二』を選び、それを貫き通していたのだ。痛いとか考えることなく。

 もちろんあの時と今では状況も全く違うし、やっていることもかけ離れている。あの頃の自分はただの一リスナーであり、今ではそれをクリエイトする側なのだ。

 『デスペラード』の影響を根底では少なからず受けているのかもしれない。以前、千佐都のヤツにダメ出しを食らった歌詞もどちらかといえばそうだったかもしれない。ひいきめにみて。おおげさにいえば。ちょっとだけ。

 でも、今の音楽は『デスペラード』とは違う。

 あの頃夢中になったもの、いつしか離れていってしまったモノ、父から聴かせてもらっていたもの、それがいくつも無数に混ざり合って出来上がっている気がするのだ。

 もちろん作曲は自分ではなく、樫枝悟司のものだ。歌詞だって違う。

 でもそのエッセンスは自身のアレンジ力やベース演奏にきっともたらされているはず。

 それが吉と出ているのか凶と出ているのかはわからない。だがきっと今の自分のやっている音楽は無駄にはならないはずなのだ。自分の中にある『デスペラード』と同じように。

 ガソリンを入れ終わって、春日は車に乗り込んだ。キーを回して再び車を動かそうとしたときになんの気なしにラジオが聴きたくなった。

『――えー、今日の一曲目は「イントルーダー」の「サディスティック・エコロジー」でした。このシングルは来週発売とのことで、彼らはこのシングルを皮切りに全国十箇所でライブツアーを行う予定――』

 吹き出しそうになった。

「なんなんだ……全く」

 にやけながら、春日は久しぶりに『デスペラード』の曲が聴きたくなった。

 聴くことはないだろうと思っていたが、ダッシュボードの中には彼らの三枚目のアルバムが入っていた。このサードアルバムは『デスペラード』の中でも屈指の名曲揃いで、中学校時代に腐るほど聴いたものだ。

 ダッシュボードからCDを取り出すと、春日はそれを無造作にオーディオの中に突っ込んだ。すぐに激しいラウドなギター音が流れ、一瞬で爆音の渦に飲み込まれる。

 真っ暗な雑木林を駆け抜けながら運転席の窓を開けた。対向車も後続の車もほとんど姿を見せない。

 激しく気分が高揚するのを春日は自身の胸の奥に感じた。

 懐かしい。それに相変わらず厨二過ぎる歌詞だ。

 サビに入ったところで気付けば声に出して口ずさんでいた。

「『俺の目に映る未来♪ 歪んだ偽りのディスピア♪』……くくっ。はは。ははは」

 なんだそれ。どういう意味なんだよ。

 考えれば考えるほど、笑えてきて仕方がなかった。

 そうして春日は車を走らせながら、大声で歌い始めた。

 行き先はあの場所。

 皆が待っている、あの町へ。



「……なんだ、帰って来たの」

 千佐都がじとっとした目で春日を睨んだ。

「なん……なんだ……その冷たい視線は!」

 誰もあんたのことなんて待っていなかったわとでも言いたげな視線でねめつける千佐都の横で悟司はヘッドホンを耳に当てながらギターを弾いていた。こいつもこの様子だと、おそらくここに自分がいることすら気付いていない。

「べっつにー。ただ、悟司の方はもうほとんど仕上がったってさ。あとは歌入れるだけみたいだけど、それはあたしの歌詞がまだ出来てないから一旦作業中止、みたいな?」

「ちょっと待て。樫枝はどうして音源を作ることが出来る?」

 『樫枝』とは千佐都のことではなく、悟司のことだ。春日はいつも悟司の事を『樫枝』と呼び続けていた。千佐都はその呼び方が気に入らないようだが、春日はそんな千佐都のことを無視して悟司のことをそう呼び続けている。

「どうしてって、あんたが夏休み前に置いてったんでしょうが」

 そう言って、千佐都が隣の部屋に通じる扉を指さした。

 悟司の部屋は二部屋あった。一つが今三人が一緒にいる部屋でもう片方は少し前までは千佐都が住んでいた。

 詳しいいきさつは春日もよく知らないが、千佐都は夏休み前にこの部屋を引っ越して今は別のアパートで暮らしている。なので、代わりに出来たこの空き部屋を自分たちの共有スペースにしようと千佐都が提案し、今では春日が持っていた様々な音楽機材はこの部屋の中に納められているのだ。

「それは知っている。そうじゃなく、どうして悟司が一人で録音出来るのかと僕は聞いているんだ」

「わかんないけど、使えるようになったみたいだよ?」

 そう言いながら千佐都はいつの間にか手に持ったアイスをのんきに舐め始めた。

「なんだと……」

「あーあ。かすがもとうとうお払い箱かー。今まで楽しかったよ。うん」

 いつもの様に軽口を叩きながら千佐都がけらけらと笑う。こいつはいつもそうだ。一つ年下のくせに、なぜかものすごく態度がでかい。

「おい、樫枝」

 千佐都を無視して春日は悟司の肩を掴んだ。すると、悟司はギターを弾いていた手を止めてゆっくりと振り返る。

「……あれ? 先輩。帰って来てたんですか」

 そう言うと悟司はヘッドホンを置いてくるりとこちらを向いた。相変わらずマイペースなヤツだ。そして案の定自分のことに気付いていなかったかと、思わず顔を引きつらせる。

「どういうことだ。いつの間に僕のDAWソフトをいじれるようになった?」

「あー……なんか、ですね。出来ちゃいました」

 お前、いっつもそんなアバウトな答えばかりするからコミュ障なんだぞ。

 喉の奥でそんな言葉が出かかったが、春日はなんとかこらえてみせた。

「とりあえずギター録って上物をテキトーにやって――あ、最初にリズム隊の打ち込みしたんで先輩が置いていったベースを使ったんですけど……やっぱあそこにあるベースじゃなくて、先輩のスティングレイがいいですね。そう思って、あとで録り直そうかずっと悩んでたんですよ」

 ギターと数本のベースは隣の部屋に置きっぱなしにしたままだったが、スティングレイは自分のアパートに置いてきたままだった。

「先輩、一度聴いてみてくれません? もし良かったらベースラインは好きに変えちゃって良いんで」

 そう言って悟司はのそりと立ち上がると、ふらふらと隣の部屋へ行こうとする。なんだかやたらと疲れているように見えた。

「待て、樫枝。そういえばお前に言われていたものを持ってきてるんだ」

 春日がそう声をかけると、悟司はぴたりと足を止めて振り返った。春日はバッグの中から頼みの品を取り出すと、

「お前が言っていた『豚丼セット』だ。ちゃんと指定された店で買ってきた。しかし、なんでいきなりこんなものを――」

「おお。なにこれ、すっごく美味そうじゃーん」

 突然春日の言葉を遮って千佐都が豚丼を眺めながら近寄ってきた。悟司は春日に向かって一瞬口を開いたが、千佐都の勢いに負けて再び口を噤む。

「あ、そういやさ。先週あんたの妹から電話あったよ」

「ああ、その話か」

 迷惑をかけたな、そう言おうと思った瞬間。

「……おねしょ、小学校の高学年までしてたんだって?」


千佐都の、ぷすっと吹き出した笑い顔が強烈に印象に残った。

『捨てたくて捨ててしまったものだが、時折無性に愛おしく感じたりする』

 訂正しよう。

 ……これは、そうじゃないものだ。

 後日、春日は電話越しに妹を激しく罵倒し再び泣かせたことは語るべくもない。

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