第2話 「あなた、誰?」
遅れてすみません。
バイトが忙しい毎日を送っています。
「ねえ、君」
杏は頭上から振りかけられた声に肩を跳ね上げた。飛び退くようにして立ち上がると、後ろに立っていた中肉中背の男と対峙する。男は血で染まったワイシャツを羽織っていて、下半身はトランクス一枚きりだった。太ももからつま先にかけて血液でまみれていたが、男には傷がなく、返り血のようだった。
「あなた、誰?」
杏は訊ねながら、無意識に手汗を胸元でぬぐっていた。
「それは僕のセリフなんだけどなあ……」
男は目を細めて狐のように笑うと、右手で頭を掻いた。左手は不自然にもずっと腰のほうに回している。「みんな逃げたと思ったのに、どうして君は残ってるの?」
男は摺り足でじりじりと杏との距離を詰めていた。杏もそれに気付いていて、対応して一歩退く。
「逃げたって、どういう事ですか?」
もう杏にはこの男が平常でないことが悟れていた。傍らに倒れた死体に何の反応も見せないからだ。杏は視線を左右に泳がし、すでに逃げる算段を行っているようだった。
「どういう事って……。そりゃ、こういうこと」
呆れたように溜息をついた男は、後ろに隠していた左手を杏に差し出した。杏には一瞬、男の指先が光ったように見えたが、それは彼に握られたナイフが反照しているものだった。
凶器を目に捉えた途端、杏は張り詰めていた空気を突き崩すように踵を返し、アーケード外へと駆け出した。周囲の腐敗臭を取り払うように腕を振る杏は、雑然とした商店街に乾いた靴音を響かせた。
「もうすぐ警察が来るみたいなんだ。やっぱり人質がいないと捕まっちゃうよね」
男の流暢な声が背中に投げかけられたが、杏は無視してアーチ看板を抜けていく。ガラスの天井が杏の後方へと流れていき、再び鮮明な夕焼けの元へ飛び出す。
男は追走してくる気配がなく、杏は不思議そうに何度も振り返ったが、二人の間隔は一向に離れていくばかりだ。
前方の建物と建物の谷間を、立て続けに二台の車が通過し、杏は安堵したように表情を緩ませた。自分を助けてくれる人間はとっくに逃げ出していて、もう近傍には誰もいないのではないかという可能性が彼女のなかから消えた。商店街の出口は公道に接しているため、表へ出れば通行人に助けを求めることができる。
しかし、その時。
乾いた銃声が虚空を震わせ、順調に表通りを目指していた杏の脚が突然もつれた。杏は激しく前方へ倒れ込むと、途端に右のふくらはぎを抱え込むようにして悲鳴を上げた。ふくらはぎを抑える彼女の手のうちからは血が溢れ出てきて、それは間もなく石畳へと滴り落ちた。
~第2話~
男の不気味さに留意して書きました。