五一・最後の古血統
見上げた空の美しさに、ドゥガは思わず息を呑んだ。
死の淵に腰まで浸かっていた、あるいは未だに浸かっているせいもあるのだろうか。
意識を急速に覚醒させる原因となった少女の声も、自分が今どういう状態なのかも忘れて呆然と空を見上げ……それから小さく笑いを浮かべる。
死ぬ前にこれ程綺麗な空を見られたこと、それを少女に感謝するべきなのかどうかをつい考えてしまい漏らした笑いだったが、その笑いが不意に凍りついた。
今、自分は両目で空を見ていなかったか?
慌てて両手の指先で眼窩を押さえると、左右とも瞼越しに同じような眼球の手触りを伝えてくる。右眼は潰されたはずではなかったのか?
そして、今左眼を押さえている左手も。
未だ死の淵で見る微睡む様な夢の中にいるのかと、一瞬考えたドゥガの耳を再び先刻聞こえた少女の小さな声が打つ。
「……ドゥガ……?」
不安そうな、安堵したような。
後悔しているような、希望を感じているような。
喜びと悲しみが深く入り混じったその囁くように小さく、鈴が鳴る様に可憐なその声はドゥガにとって初めて聞く声だった。
そのはずなのになぜかその声は、ドゥガの心の奥深くを優しく揺さぶる。この知らない声を聞くことは初めてではない、そう告げるかのように。
ゆっくりと視線を声が聞こえた方向に向けると、そこにいたのは自分が想像した通りの少女と、自分が想像もしていなかったものが存在していた。
「……俺?」
妙に甲高い自分の声に一瞬眉を顰めながら、ドゥガは呟いた。
少女……アクィラの方はまあいい。先程の声はこの言葉が話せないはずの少女が口にしたものなのか。辛そうな泣きそうな、けれどもどこか嬉しそうなその表情の理由は何故か。
聞きたい事が色々思い浮かんできたが、それは後回しにしても……よくはないが今は仕方がないだろう。
自分の目の前にいる自分。
一カ所だけでも致命傷と断言できる傷を複数負い、出血を抑える為に傷口を”凍結”で強制的に塞がれている自分の姿を外側から見詰めているというのは実に曖昧で不思議な感覚だった。
恐怖は……意外と覚えなかった。
普通自分の死体をその外から眺めるような事態に遭遇したなら、もう少し取り乱しそうなものなのだろうがとドゥガは思ったが、逆に平静な自分の心に別な意味での驚きを覚えていた。
恐らく既に“死”に対する覚悟が出来ていた事が理由なのだろうと、無駄に冷静に考えている自分に対して苦笑さえ漏らしそうになる。
そんな冷静な状況観察する心とは全く別な部分で湧き上がってくる感情は……これも場違いなように感じるものだが……間違いなく歓喜だった。
これほど傷だらけになっても最後の最後まで少女の事を守り抜けたという喜び。
その喜びの前では今自分がどういった状態になっているのかという疑問と、それにまつわる恐怖など、実に些細なことのように感じられる……が、いつまでもその喜びに浸っているわけにはいかない。
自分の……恐らく死体を外側から眺めているという状況。どうやら今自分の意識に従い動いているこの身体に自分という存在が移し替えられたことは、少女の複雑な表情とその仕草から読み取ることができる。
少なくともそれくらいは判る程度には少女と深い関係があると、思っている。
どういった方法を用いたのかは全く理解できないが、自分は目の前の使い物にならなくなった……死を待つしか無かった身体から意識、あるいは魂を別の五体満足な肉体……器に移し替えられたのだろう。
ともあれある程度は終息したとはいえ、ここは戦場の近くだ。北方から響いていた戦場音楽も途切れている以上、敗残の兵がこちらに向かってくるとも限らない。あるいは戦場から金目のモノを回収しようと、野盗に近しい人間がやってくることもあるだろう。
ドゥガはとりあえず全ての事柄を棚に上げると現状を確認するため、それでもこの慣れない身体に無理な負荷を掛けないようにゆっくりと上体を起こす。
自分の身体が以前のそれとは全く違うものに、どれだけ違うものに変わっているのかということにようやくドゥガが気が付いたのはまさにこの時だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大して混乱しなかったのは、以前に第二氏族の長であるあのちゃっかり者が語る、古血統の誕生にまつわる話を聞いていたからだろう。
どうあってもあの致命傷から回復し生き長らえることは不可能であったろうし、それこそまっさらな肉体を用意してそこに魂を移し替えるくらいしなければ、自分は今頃とっくに死の国へと……そんなものが存在するのならばだが……旅立っていた事だろう。
だからこれは感謝するべきことなのだろうが……
ドゥガはすっかり華奢になってしまった……太さで言えば半分以下になってしまった自分の腕を見つめ、従妹よりも大きいのではないかと感じる胸の膨らみに視線を落とし、小さく溜息をついた。
その反応に少女が一瞬身体を強張らせているが……ここは笑ってやる所だろう。
「気にしていないと言えば嘘になるがな……」
一度だけ聞いた少女の声が鈴音の様だとするならば、自分のこの声は……八弦擦弓のようなと表現するのが適当だろうか?
どちらにしろ以前の自分の声よりも遥かに高く軽やかで、その分なけなしの威厳というものが悉く削り落とされてしまっていることだけは間違いないが。
「……正直こんな娘の身体になってしまったのだから、気にならない方がどうかしていると思うしな」
自分の死体を前に、小娘……ざっと自分の手で撫でまわした感じでは一七、八くらいのように思える身体の具合を確認している光景も、はたから見ていればなるほど異様な光景のようにも思える。
「しかしまあ、それでもだ」
先ほどからずっと萎縮している少女に対して、ドゥガは心からの笑いを浮かべながらその言葉を告げる。
「あのまま死ぬよりは、こうしてお前を見て笑える方が余程いいと感じているのもまた確かなことだ」
その言葉に一瞬だけその身を震わせた少女は、直後今まで我慢していたのだろう。涙を溢れさせながら、ドゥガの胸へと飛び込んでくる。
「……っと」
いつもなら完全に受け止めきれるのだが、今のこの身体にそこまでの筋力は見た目からしてない。それでもなんとか少女の身体を受け止めきったドゥガは、以前と全く違う柔らかな二つの膨らみに顔を埋め、声を上げずに無く少女の頭を華奢な掌で撫で、武器を持つには些か細すぎる指でゆっくりと少女の黒髪を漉いていく。
少女が何に怯えていたのかも、大体は想像できる。
大方自分勝手にこの身体へと魂を映すなどという事をしたこと自体、後悔していたのだろう。頼まれた訳でもなくこんなことをしたのは、あきらかに我儘と呼ばれる行為……あるいはそれ以上の行為であるのだから。
その過程にドゥガの意思は全く関与していないため……恐らくこの少女は、同意を得ずに新しい身体を無理矢理与えたことで、自分から罵り恨みの言葉を投げつけられることを恐れていたのだろう。
……そうされても仕方がないと覚悟しつつも、だ。
少女自身、第一氏族が作り上げた呪い……あの白い月の術式に囚われ、その本来の姿を奪われこの世界へと放り出された存在であるだけに、行き場のない憤りを常に感じていたのであろうから。
が、それは些か自分というものを見くびり過ぎだろうとドゥガは思った。
少女がこの世界へと無理矢理巻き込まれた際の術式……いうなればあれは悪意の塊だ。あれはあくまでこちらの世界……第一氏族の都合に無理やり従わせるものだから、それに嫌悪感を感じるのは至極当然ともいえる。
翻って今、自分に施された術式は……理屈は判らないがともかく命を救う、あるいは『ドゥガ』という存在を存続させる事を第一に考えて施されたものだ。
確かに同意は得ていなかったろう。
多少は自惚れてもいいならば、少女がドゥガという存在を失うこと自体を恐れたという、利己的な理由もあっただろう。
それでも、少女が何とか命を助けようと考えた末の決断だったという事実は消えはしない。
「……姿形は変わっても、無くしかけていた命を拾ってくれたお前に感謝することはあっても、怒ったり罵ったりするわけがないだろう?」
性別が変わるどころか種族も少女と同族になってしまった上、外見的な年齢まで大分若くなってしまった事に対しての戸惑いはあるが、こうして再び生を得られたのだから文句の出ようはずもない。
ほんの数刻前まで、男だった時にはできなかっただろう繊細な手つきで髪を漉きながら、ドゥガは少女の耳元に唇を寄せてそう囁く。
「それともお前は、俺がそんな狭量な男だと思っていたのか?」
その言葉に、少女は勢い良く頭を上げると左右に振る。それを見てドゥガは口元に微笑みを浮かべてみせる。
「ならばそんな顔をするな。もっと誇らしげに……するのは難しいかもしれんから、とりあえず笑って見せてくれ」
そのドゥガの言葉に何を感じたのだろうか。少女はその大きな瞳を瞬かせると、多少無理矢理ではあっただろうが、日常を送る時によく見せているふんわりとした笑顔を浮かべて見せる。
ドゥガもそんな少女に微笑みを返し、頭を撫で、髪を漉くことを再開する。
その光景は、肌の色こそ違くとも仲睦まじい姉妹の様だった
「……問題は、この状態をどうやって説明するかだな」
少女とドゥガの顛末もこれで一応終了です。
少し淡白な気もする上、ドゥガの反応もある意味斜め上というか……
でもまあ、姿が変わったくらいで取り乱す姿が想像出来ないんですよね
このオジサン
次回エピローグになります
とりあえず白い月関連の魔法に関する解説を上手く入れられればいいのですが……