2-4 零れる滴は
執務室で書類をめくっていたリリアナは、手をピタリと止める。
ナターシャの叔父が申請してきた、貴族への贈り物の予算――
「先日も似たようなものがあった気がするけれど……会計係が通しているのだから、大丈夫なのかしら?」
――リリアナは何か引っかかる。
ちりんちりん、とベルを鳴らして白ひげの会計係を呼び出す。
「王妃様、お呼びですか?」
「すみません、今までの予算一覧を見せていただけますか?」
彼は白ひげを撫でながら、少し嫌な顔をした。――黙って承認しろということだろう。
ずっしりと重い羊皮のファイルを受け取ると、会計係は去った。
リリアナは一枚ずつめくる。
「やっぱり……」
何度も同じ請求があった。王はこのことを知っているのだろうか。
トントン――
せっかちなノック――音だけで分かる。オスカーだ。
彼は返事を待たずに入ってくると、ぱっと机の上に積まれた書類の山と、リリアナを見た。
「行くぞ」
「どちらへ――」
オスカーは答えずにリリアナのマントを手に取る。城の外に行くということか。
歩み寄ると、彼はリリアナをマントですっぽりと覆った。
(あたたかい……)
オスカーの歩くスピードは、すっかりリリアナと合っていた。
「オスカー様、リリアナ様お待ちしていました」
馬車の前にはユリウスがいて、リリアナが乗り込むのを補助しようと一歩前に出た。
「ありがとうございます」
ユリウスの手を取りかけると、にゅっとオスカーの手が馬車から伸びた。
それを見たユリウスは、手を後ろに引っ込め、ヒソヒソ声で言う。
「補助は、オスカー様がやりたいみたいですよ」
オスカーは無表情だが、急かすように腕をもう一度ぐっと出した。リリアナはおずおずと捕まり、彼の真向かいに座る。
狭い車内に2人きりでいると、息が詰まりそうだ。そこへユリウスが乗り込みオスカーの隣に座ったので、リリアナは思わずほぅっと息を漏らした。
あからさまなリリアナの態度が、オスカーは気に触ったようで、眉をひそめる。
変わらず車内の空気は重いが、ユリウスだけはにこにこしていて、そこだけ花が咲いたようだ。
オスカーは頬杖をついて窓の外を眺めている。
彼が陽の光に目を細めると、長いまつげが影を落とす。黒い服と黒いマントがよく映えて、そこだけ一枚の絵画のようだ。
(本当に、お人形みたい――)
「今日は、ドレスのアトリエへ行くんですよ」
ユリウスの声に、はっとした。
「ドレス……?」
「はい、魔力で美しくしたシルクを使うので、エルジオのドレスは他国にも人気があるんです。
それを見たら、リリアナ様がお喜びになるんじゃないかって」
エルジオが小国ながら他国と渡り合っているのは、魔力を使って経済を活性化させているおかげだった。
「おい、余計なことを……」
オスカーの声を無視して、ユリウスは身を乗り出す。
「そう言えば聞きました? 結婚式で誓いの言葉を省略したのだって、急ぎの軍議があったからで……いたっ……痛いです!」
ユリウスは脇腹をオスカーに小突かれ身をよじっている。
(急ぎの軍議が……じゃあ誓いの言葉を省いたのは、私を嫌いなわけでは……?)
本当なのだろうか。リリアナは、窓の外を見たままのオスカーに問うた。
「どうして、そう言ってくださらなかったのですか?」
「誓いの言葉など無駄なだけだ」
切り捨てるような声――
彼の冷たいグレーの瞳には、リリアナのことなど一切映っていない。
リリアナは涙を堪えて俯いた。
少しずつではあるが、彼の優しさに触れ、距離が縮まってきたと思っていたのは自分だけだったのか。
(オスカー様にとったら、所詮、私は政略結婚の相手でしかないんだわ……)
リリアナは、膝上でドレスを皺になるほど握りしめていた。
「リリアナ様、違うんですよ!」
ユリウスがなんとか場を取り繕うとしているが、それがかえってリリアナの心を惨めにさせる。
セルジオでは、食べるものも礼儀作法も母国と違う。大好きな音楽もない。
やることなすことすべて見張られているような緊張感の中で、何とかここまでやってきた。
だけど――
(私はここでも……誰にも必要とされていないんだ)
「うっ……ううっ……」
堪えきれず漏れた嗚咽に、オスカーはやっとリリアナを見た。
だけどもう、リリアナには彼がどんな表情をしているか分からなかった。
リリアナは泣いた。誰が見ていようが関係なかった。
手で涙を覆い、ぶるぶると肩を震わせるその姿は、年相応の少女に戻っていた。
どれくらい泣いただろうか。
不意に、誰かに背中を優しくさすられた。
リリアナは、泣きすぎて顔を上げられなかった。大きな手は、変わらず背にぬくもりを与えてくれている。
「リリアナ……」
意外な人物に名前を呼ばれて、思わず涙を止めた。
てっきりユリウスかと思っていたら、隣にいたのは困った顔をしたオスカーだった。
「へ……いか……?」
「泣かないでくれ……そんなつもりでは……」
「だからちゃんと伝えた方が、って言ったじゃないですか」
ユリウスの声に外を見ると、馬車は既に止まっていた。
「誤解を解いてくださいよ。僕は先に行ってますからね」
パタン――
馬車の中に取り残された二人。オスカーは、手でリリアナの涙の跡を拭いた。
「悪かった。無駄と言うか……その、誓いの言葉は必要ないと思ったんだ」
ロゼベージュの瞳には、止まっていたはずの涙がみるみる溜まりだす。
「……うっ……同じっ……同じことです。私なんか、に言う……価値もないって……そういう、ことでしょう……?」
「なぜそうなるんだ」
オスカーは困惑しているが、リリアナに取ったら、なぜもなにもなかった。
(だめ……困らせている……)
リリアナはハンカチで滴を拭き、なんとか涙を止めた。
「申し訳ございません。陛下。もう大丈夫です……参りましょう」
立ち上がりかけたリリアナを阻むように、オスカーに腕を取られた。
ぐっと引き寄せられ、気付けばリリアナは彼の胸のなかにいた。
オスカーの心音が、大きな胸に預けた耳からどくんどくんと聞こえてくる。
遅れて、低い声が耳から響く。
「愛情は、言葉より態度で示すべきだと……そういう意味で言っただけだ」
その言葉でリリアナは力が抜けた。
そっと顔を上げる。
冷たいと思っていた彼の瞳が、今は柔らかな戸惑いの色に見える。
(どうして私は……オスカー様の気持ちを理解しようとしなかったのだろう……)
思い返せば、彼なりに気にかけてくれていた。恋情ではないにしても、嫌われてはいないのかもしれない。
そして、望まぬ結婚であることは、オスカーとて同じだ。そう思うと、リリアナは胸の奥がズキンと痛んだ。
「本当にもう……大丈夫です」
微笑んでみせると、オスカーは子供にするように、リリアナの頭を優しく撫でた。
「なるべく……言葉にするようにする」
リリアナは自分の身勝手さに辛くなり、首を振った。愛されたいと言うなら、自分から行動すべきだった。
(だけど……私は、オスカー様に愛されたいのかしら……
それとも、認められたいだけなの……?)
答えが出なかった。恋や愛という感情を、つい理論で考えてしまう自分が嫌だった。
「ユリウスが待っていますね。参りましょう」
二人は馬車を降りた。




