ざまぁは静かに確実に
観光に訪れた地方都市で、三年前に離婚が成立した元夫とばったり会ってしまう確率は、さて、いかばかりか。よりにもよって、なぜ今このタイミングなのだろう。
そんな内心はおくびにも出さず、私は顔にさっと笑顔を貼り付けた。
元夫と遭遇してしまったのは、街のメインストリートだった。観光客向けのお土産を売る店が軒を連ねる、華やかで賑やかな一角だ。家族へのお土産選びを兼ねてショッピングを楽しんでいた私は、残念ながら周囲にまるで気を配っていなかった。人気の菓子店から出てきたところで、買ったばかりの焼き菓子に気を取られていたからだ。
「この街のお菓子は甘さ控えめね。これでしたらエディのオヤツにもいいかしら」
「くどくない甘さですから、旦那さまやグレイウッド隊長も召し上がるかもしれませんね」
「奥様、あちらに玩具店がございますよ」
左右に伴う侍女二人と、そんな他愛ない会話をしていた、そのときだった。
「リディアじゃないか」
背後からの呼びかけに立ち止まる。聞き覚えのある声に少々の不快感を覚えながら振り向くと、通りの反対側には思い浮かべたとおりの人物が立っていた。仕立てのいい紺色のスーツを身に纏った、長身で細身の見栄えがいいその男性は、元夫のセドリック・レイヴンズクロフト公爵令息だ。
ちょうど斜向かいの香油店から出てきたところだったようで、店の扉からは続けて二人の女性が姿を現す。
一人はセドリックさまの母、オリヴィアさま。年配とはいえ、まだ充分に美しさを保ち、鮮やかな緑のアフタヌーンドレスがよく映える。センター分けした栗色の髪を両サイドに振り分けて複雑に編み込み、後頭部でまとめてシニヨンに結う、という古風な髪型である。
もう一人はセドリックさまの現在の妻、マリアンヌさま。スタイルの良さを誇示するような濃紺のナロードレスを纏い、艶やかな金髪をリングレットにして、華やかな容姿をこれでもかと際立たせている。
実によく見知った三人は、王家と縁戚関係のある高貴な公爵家ご一家で、血筋と見た目は申し分ない。マリアンヌさまも、末端とはいえその親戚筋の出身である。わたしの身分ではどうにもこうにもならない相手であり、そもそも相手などしたくもない。
なにより、家同士の「対処」はすでに終わっている。何を言われようと聞き流せばいいだけだ。
とはいえ、この再会はかなりの不意打ちだった。動揺したのは仕方ないだろう。なにせこの三年間まったく接することもなく、思い出す機会すらなかった人たちである。せっかく旅行を楽しんでいたというのに、台無しにしやがって! ……あら、やだ、私ったら、この一週間で下町言葉に馴染みすぎたみたい。
有名な観光地とはいえ、王都から馬車で四日の距離がある場所だ。王都大好きなこの人たちが訪れるということは、さしずめ現在この街が王都で話題になっているのだろう。
セドリックさまがオリヴィアさまとマリアンヌさまに私がいる旨を伝えると、二人は私にねっとりとした視線を寄こした。それから三人そろっておもむろにこちらへと近づいてくる。ゆったりとした動きと優しげな笑顔は実に上品に見えるのだが、おそらく私をいたぶる気満々だろう。
侍女の一人が間に入ろうと一歩踏み出したが、片手で「敵対行動は取らないように」という合図を送る。内心の溜め息を飲み込みつつ、私は微笑みを崩さなかった。
「お久しぶりです」
私と侍女はそろって素朴なワンピースを着ており、しかも街路にいるのだから、丁寧すぎる挨拶では服にも場にもそぐわない。両手を脇に垂らしたまま、軽く膝を折るだけに留めた。
対して、公爵家の方々は実にフォーマルだった。女性二人は深々と膝を曲げ、両手でスカートの裾を軽く持ち上げる仕草まで入れた丁寧なカーテシー。セドリックさまのほうは、見事に優美なボウ・アンド・スクレープ。
道行く人たちがちらちらと視線を寄せる。当然だろう。庶民街の真ん中でこんなことするようなバカ──いえ、このように優雅すぎるご挨拶をなさる上品すぎる方々など、滅多に目にしないはずだ。私の略式のカーテシーですら大仰だというのに……。
オリヴィアさまが、にこやかな笑顔を浮かべてから、それを気遣わしげな眼差しに変える。
「本当に久しぶりですこと。あらまあリディアさんったら、女性三人だけで往来を歩くだなんて、貴族として恥ずかしい行いですわよ」
オリヴィアさまは苦言を呈する様子で扇子を口元に当てているが、その仕草も実に優雅だ。さすが計算された所作は美しい。よし、扇子はこの角度が綺麗に見えるのね、次回の夜会では真似しよう、と思った。
ここは治安の良さを売りにしている観光地で、安心して自由に歩けるから人気なのだし、皆少人数でのんびりと歩いているのだから、護衛をぞろぞろと引き連れているほうがそぐわないですよ、などという指摘はもちろん口にしない。
「貴族といっても、子爵家のご出身ですもの。どうしても公爵家とはいろいろと違ってしまいますわ」
マリアンヌさまがにこやかに続ける。仕草のひとつひとつが愛らしい。首を傾げる角度といい、指の配置といい、まさに完璧だわ、と思った。
いえいえ、公爵家の親戚とはいえ、あなたご自身は私と同格、子爵家のご出身でしたよね、などという事実は指摘しない。
「出戻りは恥だからと家を追い出されたものと聞いていたが、本当だったようだな」
セドリックさまは、三年前と同様にすこぶる尊大な態度だった。男性は堂々とした姿勢が望ましいとされるが、いまだに彼は不遜のふるまいとの違いがわからないようだ。相変わらず残念な人である。この方は、特に参考にするところがない。あえて言えば、反面教師か。他人さまにこのような態度をとるのだけはやめよう、と強く思わせるので。
最初の動揺が嘘のように失せ、それどころかなんとも気が抜けてくる。戻ったばかりの実家から再び出た、というのは正しい情報だが、どこをどうして追い出されたことになったのだろうか。彼の情報収集・分析能力に疑問が生じた。
私って実家を追い出されたんですか? はあ、そうですか。私は昔も今も家族から大切にされていますし、ここへは旅行で来ているだけです。などと心の中でツッコミ半分に反論しつつ、微笑みは決して崩さない。この人たちへの対応は心得ている。適当に流すに限るのだ。
「身なりから察するに、生活には苦労しているようだな。実家を追い出された身では致し方なかろうが……」
そう前置きをしてから、セドリックさまは値踏みするように、私と左右に控える侍女二人を順番に眺めた。このようなときにタメを作るのは、彼の自己演出だ。
「ふうむ、どこぞで使用人でもしているといったところか? その二人は差し詰め同僚だな?」
「そうですね」
私は曖昧に頷いた。当主との間に雇用契約はないが、実務の簡略化のために、政令使用人として正規登録している。同じ屋敷でそれぞれの職務を受け持って働いている、という意味では確かに同僚である。ええ、どちらも嘘ではない。この二人は私の侍女でして、護衛も兼ねており、よく訓練されてますから、あなた程度でしたら数秒で無力化できます、などと訂正する必要もないだろう。
それにしても思い込みというか決めつけというか、ある意味すごいな、と思う。
「セドリック、そのように言うものではありませんよ。動きやすそうな良いデザインではありませんか」
オリヴィアさまが言う。表情も口調も、本当に息子を窘めているようだ。
「それに素朴さがリディアさまによく似合ってらっしゃるわ」
マリアンヌさまが続けた。話し方に少々わざとらしさを感じるが、これもあと十年くらい経てば、彼女の義母レベルになるのだろう。
どちらにしてもこのお三方は、私たちが町娘のような服装でいる理由や、自分たちがこの通りでひどく浮いているという状況を、まったくわかっていないようだ。説明する手間をかけたところで、受け入れる方々でもないが……。
「この街で働いているのか? ならば私たちが使ってやってもいいぞ。ちょうど新婚旅行で滞在中でな。侍女をもう一人連れてくればよかったと、母が言っていたところだ」
セドリックさまがさも親切そうな顔になり、その隣でマリアンヌさまがなにやら上機嫌に頷く。
「そう、新婚旅行ですのよ。王都では最近、若い夫婦の間で流行っているのだけれど、ご存知かしら?」
私も上機嫌を装って頷いた。
「新婚旅行でしたら存じております。十年ほど前からだんだんと一般的になったものと聞いております」
「あら、リディアさまが思っているものとは違うのではないかしら?」
マリアンヌさまが、少しだけ首を傾げた。
母親が同行する新婚旅行など、確かに初めて知った。なるほど、私が思っているものとは異なるようだ。
「王都ではね、新婚旅行は結婚したばかりの夫婦だけのものではありませんの。新婚の頃と同じように愛し合っている夫婦であればいいとされているのよ。ですから私たちも参りましたの。なにせ、セドリックさまと私は、いまだにアツアツですもの」
蠱惑的に微笑むマリアンヌさまが、わざとらしく片手を腹部に添える。ちらりとこちらを見る視線が、意図をまったく隠していない。
「ひょっとして次のお子様を授かったのですか?」
仕方なく、求められている反応を返すと、なぜか妊婦本人ではなくオリヴィアさまが胸を張った。
「ええ。これで三人目ですのよ。マリアンヌさんは、すでに男児二人を産んでくれましたからね。我が家は安泰ですのよ」
「お義母さま。子を産めない方に、そのようなことを言っては、お気の毒ではありませんか」
マリアンヌさまがわずかに俯いた。愁いを帯びた眼差しは、本当に配慮しているかのように思わせる。
「あら、ごめんなさいね、リディアさん。でもね、子供は多いほどいいでしょう? 私ったら嬉しくてつい……。」
オリヴィアさまはいかにも、喜びのあまり言ってはいけない相手に溢してしまったという体を装い、さらに続けた。
「とはいえ、あまりにも立て続けでしたから、少し間を空けたほうがいいと助言したくらいなのよ。生むのも育てるのも大変ですからね」
どう反応したらいいだろうか、と私はかなり困った。思い浮かんだのは、大衆小説で読んだ「それはお盛んですね」という台詞だったが、これはさすがに下品だ。焦りながら、咄嗟に口から出たのは、
「でしたら、評判の薬師を存じておりますので、ご出産後に必要となりましたら、ご紹介いたしましょうか?」
……だった。言ってしまってから、しまった、と思った。オリヴィアさまを怒らせたかもしれない、と身構える。いろいろと面倒くさいのは遠慮したいので、怒りを買いたくはない。
だがオリヴィアさまもマリアンヌさまも、特ににこやかな態度を変えなかった。
「そういえば、あなたの元には薬師が出入りしていたわね。確かヴァン・グレイロックと言ったかしら?」
オリヴィアさまが思い出したように言うと、マリアンヌさまも反応した。
「聞いたお名前だわ。たしかとてもよく効く避妊薬を調合なさることで有名な方ですわね」
「あら、そうなの? けれどリディアさんには関係のないお薬ではなくて?」
オリヴィアさまが首を傾げる。
「いいえ、お義母さま。避妊薬を扱うということは、不妊治療薬も扱っているはずですもの」
マリアンヌさまが訳知り顔になる。
好き放題に言っているものだと思ったが、私を貶すことに精を出している間は、ご機嫌を損ねる心配がない。
レイヴンズクロフト家の方々が、下品な内容を上品に話すのを特技となさっているのは元からだが、まったくもって往来で話すような内容ではなかろうに……。またしても返答に窮していると、今度はセドリックさまが鼻で笑った。
「子を成す望みのない女に、何の価値があるのか。そのような者など、新たに嫁にもらってくれる家もなかろう。なんだったら今後は我が家で子供たちの家庭教師として雇ってやってもよいぞ。お前は成績だけは良かったからな」
かなりひどい言われようだが、今さら驚くほどのことでもない。このような方であるのは、以前から存じ上げている。
さて、どう応じればよいだろうか。そう考えた瞬間だった。
「せっかくのお申し出ですが」
よく通る低い声が割って入る。黒髪の男性がいつの間にか私の隣に立っていた。
「彼女はすでに我が家で辣腕を振るっておりますので、他家に譲る気はありません」
確認するまでもなくアンドリューとわかり、私は心から安堵感を覚えた。彼がちらっと視線を送ってきた。その黒い瞳が気遣わしげな色を浮かべるので、大丈夫だと表情で返す。
アンドリューは、さりげなく半歩だけ前へ出た。私を庇う位置になるが、威圧するような気配はなく、あくまで穏やかな所作だ。セドリックさまの表情は、変わらない上品さを保ちながらも、わずかばかり不快感を浮かべる。
「おや、すでに貴家の使用人でしたか」
「使用人ではなく、妻ですよ」
貴族然とした澄ました笑みを浮かべるセドリックさまに向けて、アンドリューもまた礼を失しない笑顔だ。
「ああ、そういえば君は、リディアが私と結婚する前の婚約者でしたね」
いかにも存在すら忘れ去っていたかのようにセドリックさまが言うものだから、私は苦笑しそうになった。
彼がアンドリューを敵対視していたのは、同年代の者であれば誰でも知っている。それも、学校の成績や顔面偏差値、男子生徒からの信頼に女子生徒からの人気などなど、すべてがアンドリューに敵わないから、という理由で……。嫌っているアンドリューへの嫌がらせのためだけに、両親どころか王家まで使って、私との結婚を取り付けたほどだ。すでにアンドリューと私の結婚は秒読みだったというのに……。
セドリックさまは、大袈裟な仕草で、抑揚を付けた話し方で続けた。
「なるほど、我が家で用済みになった中古品を引き取らされた、というわけですか」
アンドリューの表情が強張るのが、横目でもはっきりとわかった。
「アンドリュー」
私はそっと声をかけて制し、セドリックさまには変わらず穏やかな笑顔を向ける。
「ええ。実家に戻って間もなく、アッシュフォード家に嫁ぎました。おっしゃるとおり、引き取っていただいた形ですわね」
わざと軽く受け流すと、彼は満足そうに頷いた。
対してアンドリューは不快そうに一瞬だけ眉を寄せたが、それを消し去ると穏やかな口調で続ける。
「私は彼女を迎え入れられて、むしろ幸運だったと感じております。ご存じかと思いますが、彼女はたいへん有能で、家の采配にしても領地経営にしても、安心して任せられますから」
平坦な口調で、あくまで事実を述べている、という体裁だ。
「ああ、アッシュフォード家では港湾管理と貿易を担っておられましたね。何かとお忙しいことでしょう」
セドリックさまが感嘆の声を漏らす。本当に感心しているはずはないので、「領地から上がる収入だけではやっていけないから、領地経営は妻任せで、自分は他の仕事をしなくてはならないとは、実にタイヘンなことだな」といったところか。
またもやアンドリューが瞬間的に眉間に皺を寄せた。
「そうですね。ここ数年は密輸ルートの解明のため、我が家はかなり立て込んでおりました。ですがそれも先週摘発されて、ようやく一段落したところです」
「なるほど。落ち着いたので、ご旅行というわけですか?」
「ええ、この街が評判だと聞きまして」
「たしかにここは新婚旅行の行き先として、最も人気が高いのですよ」
セドリックさまは、相変わらず芝居チックな様子で続ける。
淡々と応じながらも、アンドリューの声はわずかに低くなった。相当に不機嫌だ。大丈夫だろうかと窺いつつも、控えめな妻を演じて黙って見守る。
「ええ、新婚旅行について先月の収穫祭の折に耳にしまして、私たちも流行に便乗した次第です。今回はさしずめ、二度目の新婚旅行といったところですね」
私は反射的に彼の袖を引いた。セドリックさまに余計な詮索をしてほしくない。
意図を汲んだらしく、アンドリューがちらっとこちらを見た。感情が見え隠れするものの、私が微笑むと不承不承といった様子で小さく頷き返す。
アンドリューが、にこやかな笑顔になった。
「そういえば、この度はエレオノーラさまが第四王子殿下とご婚約されたそうですね。誠におめでとうございます」
途端にセドリックさまとオリヴィアさまが、そろって表情を綻ばせた。
「ああ。以前から話はあったのだが、先々週にようやく正式決定となってね」
「王家とさらに縁が深くなるのですもの、これ以上ない名誉ですわ」
セドリックさまが満足そうに頷き、オリヴィアさまは誇らしげに微笑む。
「本当におめでたいことです」
私も喜びで声を弾ませた。この知らせを先週聞いたときにも嬉しかったが、はしゃいだ様子の二人を見るにつけ、心の底から本心で言祝ぐ気持ちになる。
ほんの少しだけ和やかムードになったそこへ、控えめに侍女の一人が進み出た。その侍女が、通信機で何か会話しているのには気付いていた。アンドリューが、どうしたのかと小声で問う。
「モリーから連絡がございました」
アンドリューは小さく頷いた。
「なんと言っていた?」
「エドワードさまがお目覚めになり、ご両親がいらっしゃらないことにご不満の様子とのことです」
「おやおや……」
アンドリューは苦笑を浮かべてから、セドリックさまへと向き直った。
「申し訳ありませんが、乳母に預けている息子が、昼寝から起きてぐずっているようです。急ぎ戻らねばなりません」
公爵家の三人は、露骨なほどに興味津々となった。
「アッシュフォード卿にはお子様がいらしたの?」
「あら、まあ」
「ほう。卿に側女がいたとは、知らなかったな」
空気が冷えるのを感じた。だが、冷えきった空気を漂わせながらも、アンドリューは感情を一切含ませない声で答えた。
「私には側女などおりません」
「あら、でしたら、ご養子を取られたのかしら?」
「ああ、そういうことですのね。それでしたらリディアさまも、子供をもつ経験ができて、よろしゅうございましたわ」
アンドリューが無表情になっている。怒りを懸命に堪えているのが見て取れた。
「息子は、私とリディアの実子です」
「だがリディアは──失礼、アッシュフォード夫人ですな。夫人は子ができないのでは?」
セドリックさまは、私のことをファーストネームで呼ぶべきではないのだと、ようやく気付いたらしい。だが、その言い直しがさらにまたアンドリューを不愉快にさせているようだ。夫のこめかみに怒りマークが浮かんでいる。
「間違いなく私どもの子です。出産にはハロウェイ卿が立ち会い、血統の証明はエヴァレット卿が行っております」
三人は口をつぐんだ。御殿医のハロウェイ卿も、王宮顧問魔法士のエヴァレット卿も、王室からの信任は厚い。その二人に対して疑義を挟むなど、彼らがするはずもない。離婚の理由が理由なだけに、アンドリューの子を産んだという事実は、彼らにとって都合が悪いとはいえ。
セドリックさまは、アンドリューへの当てつけで婚約者を奪っただけで、私を気に入っていたわけではない。結婚してしまいさえすれば、後はどうでもいい存在として扱い、早々に愛人としてマリアンヌさまを囲っていた。そのマリアンヌさまが妊娠したのを期に、私を「不妊の妻」とすることで離婚を成立させたという経緯がある。結婚からたった二年で不妊と判断するのもどうかと思うが、少しでも早く縁を切りたかった私としては、ナイス判断と賞賛したいほどだったものだ。
ただ、先ほどはグレイロック薬師が来ていたのを不妊治療のためだったと勘違いしていたが、これで本当の理由を察してしまうと困るな、と懸念した。
「なにはともあれ、貴家も跡継ぎに恵まれて良かった」
「我が家からも何か贈り物を考えませんと」
「そうですわね」
「ありがとうございます。ですがお気持ちだけいただきます」
どうやら薬師のことは、三人の念頭にない様子だ。それよりもアッシュフォード家の慶事に不服のあまり、そちらに気を取られているという印象である。おそらく大丈夫。
どことなく歯切れの悪くなった公爵家に対して、アンドリューはむしろ幾分か声が大きくなったような気がする。
「ところで、公爵家こそご養子を取られたのですか?」
アンドリューが続けた。
「何のことだ? 何かそのような噂が出回っているということか?」
「我が家にはすでに男児が二人がおりますのよ。養子が必要なはず、ございませんでしょ?」
セドリックさまとオリヴィアさまの頭上に「?」が浮かんで見えた気がした。だが、マリアンヌさまだけ、どことなく落ち着かない様子で視線を泳がせる。
「アンドリュー、そろそろ参りましょう」
私が低く名を呼ぶと、彼は不満そうにしながらも口を閉じた。
ちょうどそのとき、数名の男性がこちらへと近づいてくる様子が目に入った。アンドリューの護衛官と事務官だ。待機の合図を出したアンドリューが、公爵家の三人に目礼する。
「迎えも参りましたので、これで失礼いたします」
立ち去ろうとする私たちに、オリヴィアさまが何か言いかけたものの、マリアンヌさまが慌てて割って入った。
「お義母さま、そろそろサロンのお時間ですわ」
「そうね、知事夫人からのご招待ですもの、遅れるわけにはいかないわね」
「では失礼する」
三人がようやく立ち去った。後ろ姿が遠ざかっていき、やがて人混みに紛れる。私たちは、ほっと一息吐いた。
「旦那さま、突然姿を消されては困ります。こちらは非常に焦りました」
それまで黙っていたウィルコックスが口を開いた。小声で静かな調子ではあるが、真剣に苦言を呈しているのはよくわかる。護衛チームの大柄、屈強、強面リーダーに怒られて、幼少期から面倒を見てもらっている当の本人はしゅんとした。
「……悪かった」
「そもそも、このような往来での転移魔法は、非常時以外禁止事項ではありませんか」
「……非常時だったぞ」
アンドリューがウィルコックスに絞られている間に、私は侍女に向き直った。
「アンディに連絡してくれたのね。ありがとう」
「公爵家と遭遇した場合は一報するよう、旦那さまから申し付かっておりましたので」
「あらあら」
くすりと笑いながら顔を覗き込むと、アンドリューは拗ねたように視線を逸らす。
「昨夜、情報が入っていた。彼らが旅行に来るとね。だが、君には知らせたくなかったんだ」
「だからといって、ウィルコックスたちを困らせてはダメよ。知事閣下とのご面会は大丈夫だったの?」
この街は州庁所在地であり、州知事を務めるエルズワース侯爵とアンドリューは顔見知りだ。そこで彼は挨拶に赴き、その間に私は領地の使用人たちへの土産を調達するため、商店街に来ていたわけだ。
「問題ない。エルズワース卿に失礼なことはしていないぞ。きちんと面会を終えて、知事公邸を出てから来たんだ。それまで辛抱したんだからな」
「馬車が公邸の門から出た瞬間に、転移されておいででしたが」
ウィルコックスの補足に、アンドリューは黙ってそっぽを向いた。私は思わずくすっと笑ってしまった。
「おかげで助かったわ。あの方たちは苦手だもの。でも、あまり煽らないでね」
「……気をつける」
ふと思い出して尋ねた。
「ねえアンディ、エレオノーラさまのご婚約だけど、あなた何かした?」
「陛下の側近の方々と、少し世間話をしただけだ。美しくて聡明な素晴らしい公爵令嬢が、母親の選り好みが激しいせいで行き遅れになりかけている、ってね。結果的に、第四王子の婚姻相手として進言されたみたいだね」
「そう。その世間話をしたのって、3年前?」
「はっきりとは覚えていないな」
「ふうん。……私への賠償金を、王家が肩代わりした理由って、それが一因かしらね?」
「さあな。私が知るわけないだろ?」
肩をすくめる彼に、私は微笑んだ。
「エレオノーラさまには、幸せになってほしいわ」
なにしろ、彼女はあの家の最後の良心だ。母親が息子にべったりで娘を顧みなかったのは、結果的に良かったのかもしれない。そのおかげでエレオノーラさまは、あの家の歪みにまったく染まらずに済んだ。
王家としても、第四王子の「婿入り先」が決まって、胸を撫で下ろしていることだろう。新たに公爵家を興すとなると、それこそ賠償金の何倍もの費用がかかる。政府から財政負担の軽減を強く求められている現状では、王家としてもこの流れに乗らない理由はない。
そんなことを考えていると、隣に立つアンドリューが私を見てニヤッとした。
「なに?」
私が訝しげに尋ねると、彼は楽しそうな笑顔を見せた。
「いや。君が今、何を考えてるか、手に取るようにわかるなと思って」
「それなら、もう余計なことを言ってはダメよ。つつかれるようなネタをあちらに与えないよう、気をつけないと。さっきあなたが『二度目の新婚旅行』だなんて言うから、焦ってしまったわ。今頃になってバレて、変な因縁を付けられたりしたら面倒くさいじゃない」
「………………すまない。つい、対抗心が出た」
「まあ大丈夫だと思うわ。『二度目』という意味は、まったくおわかりにならなかったみたいだもの。……あら? それとも、一度目の新婚旅行にはご自分が行ったものと、本気で勘違いなさっておいでなのかしら? 私、セドリックさまと旅行に出たことなど、一度もないのだけど」
「もう、あいつの話はやめよう。不愉快さが戻って来る」
苦々しく言うアンドリューに、今度は私が肩をすくめる。
「ええ、そのとおりね。わざわざお相手をする必要なんてないわ。だからあなたも、あまり煽らないこと!」
「わかってはいるが、なんとも腹が立つんだ」
「私のために腹を立ててくれるのは嬉しいけど、もういいでしょう?」
私は微笑んだ。
「ね、ご存じの方は、ご存じなんですもの」
離婚のゴタゴタの際に、実際に不妊であるのはどなたなのか、公爵家ご子息の血統がどうなっているのか、すべて検証し直されている。当然それは、紋章院の血統登記所も把握しているはずだ。だが、役所というのは、請求しなければ情報開示しない。検証は我が家で申請したので、私たちは報告書を受け取っているが……。
なにより、陛下のご意向で、当分のあいだは秘匿されるだろう。おそらく、第四王子がレイヴンズクロフト家の後継に定まるまで……。現段階では、公爵家が親族から養子を迎えるような策に出てしまうと、王子の婿入りの妨げになる。
もっとも公爵家にバレたところで、密輸の件を材料に、直接的に圧をかける手もある。逮捕された人物が、公爵家の寄子のそのまた寄子に当たるので、因縁を付けようと思えばいくらでもできる。関連報告書はすでに王室側に提供済みだ。
加えて、余計な口出しをしたという言質を、王太子殿下から戴いている。なにかあれば、王家に対してこれを持ち出してもいい。公爵家に言いくるめられて、セドリックさまと私との婚姻を促したのは、王太子にあるまじき軽率さだ。口外されたくはないだろうから、我が家としては、これも保険となるはず。
今のところ、さほど心配しなくてもよさそうだ。それでも、くれぐれも用心はしておかないとね。
私は、夫に笑いかけた。
「さあ、宿に戻りましょう。エディが待っているわ」
息子の名を上げると、アンドリューの表情が和らいだ。
私が紙袋を抱えているのに気付いて、アンドリューが自然な仕草でそれを取り上げる。他の土産物はすべて侍女たちが運んでいたが、息子のおやつだけは自分で持っていたのだ。
色とりどりの店が並ぶ通りには、行き交う人々の賑やかな声が満ちていた。遠くから楽器の音色が流れ、離れた場所でダンスに興じる人々が垣間見えた。祭のときのような、浮き立った空気が感じられる。
夫の腕に移った紙袋からは、焼き菓子の甘い香りが漂う。その香りに包まれながら、私たちは並んで宿への道を歩いた。
了




