第1章 守護者 第6話
傭兵はとても疲れていた。
彼が雇われていたアルヴォア公国の軍は、敵国の軍に圧倒され、壊滅に近づいた。二つの隣国が敵国側につき、公国に宣戦を布告したのが要因だった。
兵士だけでなく、指揮を執る者も次々と倒れ、軍は組織を維持できなくなった。
正規兵でない傭兵たちは戦場から離脱していった。軍から給金が払われない以上、当然である。
彼もその一人だった。
軍を抜けたあと、彼はアルヴォアの南部に向い、その南にある隣国を目指した。
多少の金は残っていたが、宿場町で食事を摂るだけで、街道から外れた人気のない場所で野営をし、昼夜を問わず、街道を南へ歩いた。
兵士としての能力が優れていたため、これまで正規軍への誘いを受けたこがあるが、どうしても気乗りしなかった。
複数の国を渡り歩き、戦で人々が意味もなく死んでいくのを見てきた。
傭兵稼業は、もう終わりにしよう。
彼は自分の居場所を探そうと思った。
育ての親と住んでいた森の中の山小屋が懐かしかった。
両親と別れて何年になるのだろう。
傭兵は、南に歩き続けて半月が経ち、小さな村に着いた。
村の中心を通る道を進んでいくと、海に出た。
港にはいくつもの小さな漁船が停泊していた。
太陽が沈もうとしていた。
海も空の雲も茜色に染まっていた。
海はいいな。
美しい夕暮れを眺めて気分は良くなったが、長旅の疲れは取れない。
久しぶりに宿でゆっくりと眠りたかったが、この小さな村には宿どころか、食事を出してくれるところもなさそうだった。
しかたなく、村を後にして、海沿いの道を西の方へ歩いた。
しはらく歩くと、その先に、塔がある大きな建物が見えた。
海の方を見ると、入江になった海岸があった。
入江には竪琴月が浮かんでいた。
彼は道を外れ、海岸に向った。
波打ち際に近づくと、繰り返す波の音が心地良かった。
茜色の雲と深い青色の空に浮かぶ竪琴月、それを映した水面に揺らめく光に、彼は魅了された。
「こんばんは。旅人さん」
近くに人がいるのに気づかなかった。
声がする方を見ると、若い娘がいた。
彼女も波打ち際に立ち、こちらを見ていた。
緩やかな風が、長い髪とゆったりした白い服を揺らめかせていた。
彼女は、彼から視線を外し、入江に浮かぶ月の方へゆっくりと顔を向けた。
「もうすぐ月が水底に沈むわ」
彼も視線を月に戻した。
しばらく、無心で西の空を眺めていた。
そのうち、月は姿を消して、辺りは濃い青色に包まれ、数多の星が輝き始めた。
娘も姿を消していた。
彼は陸の方へ戻った。
野営する場所を探したが、適当な場所が見つからなかった。
再び海沿いの道を西の方へ歩いて行った。
◇ ◇ ◇
巫女は乗り気ではなかった。
今日のお務めは夜だった。家でゆっくりしたかった。
彼女は雇われの巫女、歌姫だった。
たまたま参加した収穫祭で、彼女の歌声が神殿守の耳に留まったのだ。
彼女の家は神殿に近い。
今日も歩いて神殿に向っていたが、入江に沈みかけた月が目に留まった。
深く青い空と海に、銀色の竪琴月が輝いている。
わあ、とても綺麗。
彼女は道を逸れて、入江の方に歩いていった。
波打ち際に近づいたとき、砂浜に立つ人影に気づいた。
荷物を背負っている。
旅人だろうか。
その男も月に魅入っているようだ。
「こんばんは。旅人さん」
つい、言葉をかけてしまった。
彼がこちらに顔を向けた。
若い男だったが、その瞳に暗い影を垣間見た。
「もうすぐ月が水底に沈むわ」
彼は月の方へ顔を戻した。
淡い月の光に照らされて浮かび上がった男の横顔は、濃い青の空と灰色の砂浜を背景に、現実離れしている。
月が彼を捕まえてしまったのだろう。
彼女は、これから仕事だったことを思い出し、急いで入江をあとにした。
◇ ◇ ◇
「神殿守さま、こんばんは」
「こんばんは、イシリア。今日もよろしく頼みます」
「はい。すぐに支度をしてきます」
イシリアと呼ばれた娘は、控えの部屋に入っていった。
そこは、辺境には似つかわしくない、荘厳な古い様式の大きな神殿であったが、国の援助が少ないためか、手入れが行き届かず、少し荒れていた。
とは言え、中央広間には七人の神々の像が立ち並び、由緒ある神殿である。
神殿守を含めた四人の神職が住んでおり、さらに雇われの巫女が三人いて、イシリアはその一人だった。
彼女は、白と青を基調にした装束、首に古代文字が刻まれた銀の環、蒼い石が埋まった銀の鎖を額にまとい、控室から出てきた。
今日は神楽を捧げる神事が予定されていた。
「大広間でエア第18章と19章を。そのあと、主神の広間で第30章をお願いします」
「はい、承知しました。舞姫は誰ですか?」
「ああ、大広間ではフォーラが舞ってくれる。主神の広間では君の歌だけでお願いするよ」
「分かりました」
イシリアは、七人の神々を祀る大広間の一角にある台座に向かった。
歌姫は、白と緑を基調とした軽やかな衣装に身を包み、広間の中央で膝をついた。
神殿守と他の神職たちも広間に集まっている。
イシリアの透き通る歌声が大広間を満たすと、舞姫がゆっくりと全身を動かし始めた。
◇ ◇ ◇
傭兵は海沿いの道を歩き続け、道沿いに面した大きな神殿の前で足を止めた。
立派な神殿だ。
建物を眺めたあと、周りの敷地を歩きまわり、寝床になる場所を物色した。
そのうち、神殿守らしき人物に見つかってしまった。
「どうされましたか? 旅の方ですか?」
神殿守は少し警戒した眼差しで彼を見た。
「あ、はい。旅の者です。どこか野営できる場所を借りたいと思いまして」
「そうですか。でしたら、こちらへ」
神殿守は彼を神殿の中に招き入れた。
「この部屋は空いています。泊まってもらうなり、好きに使ってください。ただし、この部屋以外には立ち入らないでください」
通された部屋は広くはないが、テーブルと二つの椅子、暖炉もあった。さすがに寝台はない。俺のような貧しい旅人に使わせているのだろう。
「ありがとうございます。とても助かります」
神殿守は去って行った。
夜露を凌げるのは本当にありがたい。
ここに祀られている神が誰か知らないが、感謝の祈りを捧げよう。
彼は持っていた食料を口にしたあと、床に寝床を設け、その上に座り込んだ。
ふと、遠くから歌声が聞こえてきた。
耳を澄ませると、ゆったりとした旋律の美しい歌声に魅入られた。
神々へ捧げる歌とは、こんなにも優しいものなのか。
彼は毛布に包まり、横になった。
歌に誘われ、すぐに眠気が襲ってきた。
その夜、傭兵は子供のころの夢を見た。




