第1章 守護者 第2話
黄昏が深く青い闇に変わり始める頃、東の底知れない荒野から、満月が昇った。
城を頂く丘陵、城下の街並み、農地、遠くに広がる森は、灰色に変わっていく。
薄暗い部屋に月光が差し込んでいる。
その淡い光の中に、少女がたたずんでいた。
深く蒼い瞳は、窓越しに満月を見ていた。
小さな髪飾り、銀色の長い髪、整った面の白い肌が月光に輝いている。
少女は窓を開けてバルコニーに出た。
風に重さを感じる。
ローブの前を閉じると、バルコニーの手摺に寄り掛かった。
城の中庭、館と回廊の屋根は淡い光となって、暗闇に浮かび上がっている。
時折、風が中庭の木々の葉を揺らし、何かをつぶやくように、ざわめいていた。
夜空の満月は眩しいほど輝き、照らされて光る白い雲は嵐の時のように早く流れている。
西に広がる森は影絵のようだった。
「やはり今夜ね」
「何もかもが落ち着きをなくしている」
彼女は、西の森に向って目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませていた。
目を開くと、何かを決心したようだった。
少女は部屋に戻った。
部屋は簡素かつ上品な作りで、一面の壁には天井までの高さの書棚があった。
部屋の壁の燭台に一つだけ明かりが灯されていた。
彼女は書机の燭台にも灯りをつけた。
机の椅子に腰かけると、そこに開いたまま置いてあった書物に目を落とした。
その本は大柄で頑丈そうな作りだったが、かなり傷んでいる。
彼女は文字を指でなぞりながら、ゆっくりと読み進めていた。
まもなく、彼女は本を閉じた。
さて。
お父様に伝えると、少なくとも騎士団一個中隊がくっついてくるわね。
でも、古森だから、それは無理。
彼女は身支度を始めた。髪飾りを外し、長い髪を束ねた。
部屋履きを脱いでブーツに履き替え、コートを羽織ると、その内側に短剣を収めた。
部屋を出ると、足音を立てないように長い廊下を歩いた。突き当たりの螺旋階段をいくつも下り、一階まで降りた。途中、執事とメイドをやり過ごしたが、館の入り口には衛兵がいる。
「殿下、失礼ですが、どちらへ行かれるのでしょうか」
「神殿守のところへ。ちょっと相談したいことがあるの」
彼女は微笑みながら答えた。
「承知いたしました。殿下」
衛兵が頭を下げて、扉を開けた。
彼女は館を出て、月明かりの中庭を早歩きで横切って行く。
神殿の棟へ行くと見せかけて、そのうち方向を転じた。
◇ ◇ ◇
満月に照らされた街道を、荷物を載せた馬を連れた旅人が歩いていた。
フードの奥の顔は初老と呼べる年齢だったが、厚手のマントの下には剣を帯び、背が高く、屈強な男であることが見て取れた。
街の灯りは徐々に消えていく時間であったが、月光が街並みを煌々と映し出している。
街道をしばらく歩くと、城壁の正門が見えて来た。
そのとき、通用門から、馬に乗った小柄な人影が出て行くのを見た。
その人影は城を少し振り返った後、街道から脇道へ逸れて姿を消した。
続いて、その門から二人の兵士が走り出てきて、周りを見渡している。
男は、すぐさま馬に乗って駆け出した。フードを外して兵士達の方へ向かった。
「先ほど出て行ったのは姫様だな? 何か訳ありのようだ。私が後を追う。お前たちは戻って報告しなさい。私が殿下をお守りする故、ご心配には及ばぬと。あと、影士を二人ほど寄こしてくれ。行先は、たぶん、古森だ」
「承知いたしました。閣下」
男は兵士達から離れ、小柄な人影の後を追った。
◇ ◇ ◇
少女は、とにかく城を出てしまえば、どうにかなると思っていた。
でも、門のところで兵士に気づかれたかも知れない。
彼女は馬を走らせながら、時折、夜空の月を見た。
街を抜けると、緩やかな丘が続く広大な農地の中を進んだ。
その向こうの古森までは、まだ遠い。
後ろから馬が駆けてくる音に気づいた。
彼女は不安な顔で振り返った。
馬上の人物が近づくにつれ、彼女の顔は明るくなった。
「一人で月夜のドライブですかな。姫様」
男は優しい笑顔だった。
「ヘンダール公!旅から戻ったのですね。無事で何よりです」
彼女は、今の自分が責められるに十分だと分かっていたが、再会を喜んだ。
「お供してもよろしいですか? 訳は馬を進めながらお聞きしましょう」
「あ、ええ。ありがとう」
彼女は困惑と同時に安堵の表情になった。
「失礼ですが、また背が伸びましたな。先月、16歳になられたのでしたね。こうやって、姫様と並んで馬を走らせるのは何年ぶりだろう」
男も喜びを隠し切れない様子だった。
「長旅、お疲れ様でした。近いうちに旅の話を聞かせてくださいね」
「もちろんですとも」
そのうち、二人とも顔を曇らせた。
「古森へ行くのですね」
「ええ、ドゥルヴァリエ神殿へ」
「そこは、確か、誰も常駐していない小さな神殿でしたな」
◇ ◇ ◇
「王女殿下が城を出て行かれました」
衛兵からの報告に、宰相のエゼンは驚きを抑えながら事態を飲み込んだ。
「そのことを知っている者には口止めを。あと、すぐにタイダルを私の部屋に寄こしてくれ」
「もう一つ報告がございます。先ほど、ヘンダール公が戻られたとのことです」
「そうか。ヘンダール公は陛下の許に?」
「いえ、城の手前で王女殿下を追って行かれました」
エゼンは早い足取りで最上階の部屋へ向かった。
王家の肖像が掲げられた螺旋階段を上り、深緑色の絨毯が敷かれた廊下の先にある部屋の前に立った。
「失礼いたします。陛下」
あまり気乗りしない報告は久しかった。
王の執務室の扉は常に開いていた。
エゼンは礼をすると、部屋の奥へ進んだ。
王は机上のいくつもの書類に目を落としていた。
エゼンが口を開こうとしたとき。
「さて、エゼンよ」
顔を上げた王は、いたずらっぽい表情だった。
「え。あ。陛下は既にご存じなのでしょうか?」
「いや、何があったのかは知らぬ。しかし、良からぬ何かがあったことは、お前の顔を見れば分かる」
「恐れ入ります」
エゼンは苦笑いを浮かべた。
「実は、先ほど姫様が城を抜け出しました。行き先は古森のようです。幸いなことに、ちょうど旅から戻られたヘンダール公が姫様の後を追ったとのことです。その後、二人の影士も後を追っています」
「ふむ。そろそろ何か、しでかすと思っていたよ。今更驚くこともない。すまんが、邪魔をせずに見守ってやってくれ。まあ、ヘンダールが一緒なら心配あるまい」
「承知いたしました。タイダルに伝えます」
「ああ。ご苦労。そろそろ休んでくれ」
陛下が一人娘を心配しない訳がない。
だが、姫様なら大丈夫な気がする。
自問自答をしながらエゼンは、自分の執務室に戻り、そこで待っていた影士長の副官タイダルに王の意を伝えた。
守りの長にも状況を伝えに行く途中、憔悴した顔のグレイスに出くわした。
彼女は王女殿下の従騎士である。
「閣下、私が近くにおりながら、姫様をお一人で行かせてしまい、誠に申し訳ございません。今から姫様の後を追う許可をいただきたく思います。侍女たちも心配しております」
グレイスは許可されるのが当然という顔をしている。
「幸いにもヘンダール公がご一緒だ。彼以上の護衛は他におるまい。それに、夜も遅い。今から、あの古森に入り、姫様を探すと?」
「私なら問題ありま・・」
「それと」
「そもそも、姫様は、何故、君を同行させなかったのか? 関わらせたくなかったからではないかね。残念だが、私は許可できない」
「わ、分かりました。失礼いたします」
グレイスは肩を落として去っていった。




