無能と罵られ捨てられた仙女の私。――けれど、その身に宿すは万物の瘴気を浄化する「天与の祝福」。今や私の作る霊薬は万金の値ですが、あなたたちに分け与える慈悲はありません
「凛! 本日をもって、お前を青龍門より破門する!」
突き放すような鋭い声が、朝霧の立ち込める演舞場に響き渡った。声の主は、我が師の嫡男であり、門派一の才を持つと謳われる快斗様。彼の白銀の髪は朝日を浴びて輝き、その蒼氷の瞳は、地面に膝をつくわたくしを絶対零度の光で見下ろしていた。
彼の隣には、桜の花びらのように儚げな少女、小桜が、今にも泣き出しそうな顔で寄り添っている。彼女の潤んだ瞳が、庇護欲を掻き立てるように快斗様を見上げ、そして、一瞬だけ、わたくしに向けられたその視線に、勝利の光が宿ったのを、わたくしは見逃さなかった。
「快斗様……、凛お姉様も、わざとではないのです。どうか、お許しを……」
「黙っていろ、小桜。こいつが道場の気を乱し、お前の修行の妨げになったことは事実だ。気の流れさえ感じ取れぬ無才の者を、これ以上この神聖な青龍門に置いておくわけにはいかん」
『無才』。
それが、この青龍門におけるわたくしのすべてだった。
この世界では、万物に『気』が宿る。優れた者はその気を操り、己の力を高め、あるいは奇跡のような技を繰り出す。青龍門は、王国でも指折りの気の使い手を育成する名門。門弟たちは皆、幼い頃から気の流れを読み、それを体内に巡らせる修行に明け暮れる。
けれど、わたくしには、それができなかった。
どれほど修行を積んでも、わたくしの身体は気を弾いてしまう。まるで、穴の開いた器のように、気を溜めることができないのだ。門弟たちはわたくしを「出来損ない」と蔑み、師ですら、わたくしの存在を半ば諦めているようだった。
わたくしと快斗様は、生まれる前から婚約者だった。先代の掌門同士が交わした約束。けれど、彼がわたくしを女として、いや、一人の人間として見てくれたことは一度もなかった。彼の隣に立つことは、常に針の筵に座るような心地だった。
「先日、小桜が修行中に倒れたのも、お前の淀んだ気が、清浄であるべき道場の気を汚したせいだ。違うか?」
「…………」
わたくしは、答える言葉を持たなかった。
小桜が倒れた日、わたくしが彼女の近くにいたのは事実だからだ。彼女がふらついた時、支えようと手を伸ばした。ただ、それだけだったのに。わたくしが触れた途端、彼女はまるで毒にでも侵されたかのように、その場に崩れ落ちたのだ。
『きゃっ! 凛お姉様のせいで、気が……っ!』
彼女の悲鳴が、全ての引き金だった。
「本来であれば、門派の気を乱した罪は万死に値する。だが、長年、師の世話になってきた免じて、追放だけで済ませてやる。感謝しろ」
冷たい宣告。
演舞場に集まった門弟たちの視線が、刃のようにわたくしに突き刺さる。侮蔑、嘲笑、そして、安堵。厄介者がいなくなってせいせいすると、誰もが思っているのだろう。
「荷物をまとめる時間はくれてやる。日没までに、この山を降りろ。二度と、青龍門の敷居をまたぐな」
快斗様はそれだけを言い放つと、小桜の肩を優しく抱き、わたくしに背を向けた。まるで、汚物から目をそらすかのように。
わたくしは、誰に聞こえるでもなく、深く頭を下げた。
そして、静かに立ち上がると、一度も振り返ることなく、その場を去った。涙は、出なかった。ただ、胸にぽっかりと、冷たい風が吹き抜けていくような、そんな感覚があっただけだった。
自室に戻り、わずかな私物を風呂敷にまとめる。と言っても、持ち物などほとんどない。数枚の着替えと、亡き母が遺してくれた、小さな翡翠の髪飾りだけ。
この山で生まれ、この山で死んでいくのだと思っていた。
青龍門の外の世界を、わたくしは知らない。
(どこへ、行けばいいのだろう……)
途方に暮れたが、ここに留まることは許されない。
わたくしは、誰にも見送られることなく、たった一人で、慣れ親しんだ山門をくぐった。
山を下る道は、驚くほど穏やかだった。
いつも感じていた、まとわりつくような重圧感や、体の芯が冷えるような感覚がない。空気が、こんなにも軽くて、温かいものだったなんて、知らなかった。
ふと、足を止めて山を振り返る。
わたくしが生まれ育った、青龍門のある霊峰。そこは、常に瑞々しい緑に覆われ、清浄な気に満ちているはずだった。
けれど、今、わたくしの目に映る山の姿は、どこか違って見えた。
木々の緑が、心なしか色褪せて見える。鳥のさえずりも聞こえない。山全体が、まるで生気を失って、沈黙しているかのようだ。
(気のせい、かしら……)
気の流れを感じることのできないわたくしには、それが何なのか、知る由もなかった。
わたくしは、再び前を向き、ただひたすらに歩き続けた。
麓の村に辿り着き、わずかな金銭で宿を取った。
これからどう生きていくか、考えなければならない。手に職もなく、頼るあてもない。野垂れ死にする未来しか、思い描けなかった。
そんなわたくしの耳に、宿の主人と旅の商人との会話が、偶然飛び込んできた。
「して、ご主人。この先の『瘴気の谷』は、相変わらずかい?」
「へえ、あっしの知る限り、誰も近づきませんな。あそこに入ったら、どんな屈強な男でも半日もたずに体が腐ってっちまうって話ですぜ」
「恐ろしいこった。一体、谷に何があるってんだい」
「さあねえ。ただ、谷の奥には、変わり者の薬師が一人、庵を結んで住んでるって噂も……。まあ、ただの噂でしょうがね。あんな毒の谷で、生きていられる人間なんているわけがねえ」
瘴気の谷。
その言葉を聞いた瞬間、わたくしの胸の奥が、ちくりと疼いた。
瘴気。それは、淀み、腐敗した『気』。あらゆる生命を蝕む、死の気配。
青龍門にいた頃、師が時折、眉を顰めて口にしていた言葉だ。
『この霊峰は、気が豊かすぎる故に、時折、瘴気を生む。だが、不思議とすぐに浄化されていく。これも、初代掌門様のご加護か……』
わたくしは、なぜだか、その谷に行かなければならないような気がした。
何の根拠もない、ただの直感。
けれど、その直感は、今まで一度もわたくしを裏切ったことがなかった。
翌朝、わたくしは宿を発ち、瘴気の谷を目指した。
道行く人々に場所を尋ねるたび、誰もが怪訝な顔で、狂人を見るような目でわたくしを見た。「やめておけ、死に行くようなものだ」と、誰もが口を揃えて言った。
それでも、わたくしの足は止まらなかった。
三日後、わたくしは、ついにその谷の入り口にたどり着いた。
そこは、まさに死の世界だった。
木々は黒く立ち枯れ、地面には苔一つ生えていない。空気に、腐臭にも似た、甘ったるく重い匂いが満ちている。
一歩、足を踏み入れただけで、普通の人間ならば肺が焼けるような激痛に襲われるだろう。
けれど、わたくしは――。
(……なんて、心地がいいんだろう)
その淀んだ空気を吸い込むと、不思議と、体の奥底から力が湧いてくるような感覚があった。青龍門で常に感じていた息苦しさが嘘のように消え、深く、深く、呼吸ができる。まるで、乾ききった大地が、初めての雨を吸い込むかのように。
わたくしは、ためらうことなく、その死の谷へと、足を踏み入れた。
それは、わたくしにとって、初めての希望へと続く道のように思えた。
わたくしの知らないわたくしの力が、今、目覚めようとしている。
そんな、確かな予感に、胸が高鳴っていた。
瘴気の谷の奥深くへと進むにつれ、わたくしの身体はますます活力を取り戻していった。まるで故郷に帰ってきたかのような安らぎさえ感じていた。立ち枯れの木々が並ぶ不気味な光景も、わたくしの目には、まるで水墨画のように静謐で美しく映った。
谷の最奥、瘴気が最も濃密に渦巻く場所に、その庵はあった。苔むした屋根を持つ、粗末だが、どこか気品のある小さな建物。その戸口に、一人の男が立っていた。
彼は、わたくしが今まで見た誰よりも、異質な気配を纏っていた。長く伸びた髪は、墨のように黒く、月光を吸い込んで鈍く光る。その肌は、病的なまでに白く、まるで血が通っていないかのようだ。しかし、その瞳だけが、闇の中で燃える鬼火のように、鋭く、赤い光を放っていた。
彼こそが、この瘴気の谷の主。変わり者の薬師、暁だった。
「……何者だ、貴様」
彼の声は、ひび割れた玻璃のように、乾いていて冷たかった。
「この谷が、生ある者の踏み入る場所でないことくらい、分かっているだろう。死にたがりか?」
「いいえ」
わたくしは、静かに首を振った。
「わたくしは、生きるために、ここに参りました」
わたくしの言葉に、彼の赤い瞳が、興味深げに細められた。
「ほう……? この瘴気の中で、息災でいられる人間がいるとはな。面白い。貴様、名は?」
「かつては、凛と。今は、名もなき者でございます」
「そうか。ならば、中に入れ。客をもてなす茶も菓子もないが、雨露をしのぐ場所くらいは提供してやろう」
彼は、わたくしを庵の中に招き入れた。
その日から、わたくしと暁との、奇妙な共同生活が始まった。
彼は、わたくしの素性を深くは聞かなかった。わたくしもまた、彼の過去を詮索することはなかった。ただ、彼が谷で採れる毒草や鉱石を使って、様々な薬を作り、時折、麓の村の薬問屋と取引をして生計を立てていることだけを、ぼんやりと知った。
わたくしの仕事は、彼の薬作りの手伝いだった。
薬草をすり潰し、鉱石を砕き、釜の火の番をする。単純な作業だったが、わたくしは初めて、自分の働きが誰かの役に立っているという実感を得ていた。
そして、この谷に来てから、わたくしは自分の能力の正体に、おぼろげながら気づき始めていた。
「おい、凛。この薬草を煎じてくれ。火加減を間違えるなよ」
暁に言われ、わたくしは土鍋に薬草と水を入れ、火にかける。ただ、それだけの作業。けれど、わたくしが煎じた薬は、なぜか暁が作るものよりも、遥かに高い薬効を示した。
「……不可解だな」
彼は、完成した薬の色と香りを確かめながら、眉をひそめた。
「同じ材料、同じ手順のはずだ。なぜ、これほどの差が出る……?」
ある時、彼が薬の調合に失敗し、庵の中に毒の煙が充満したことがあった。彼は咳き込み、その場に倒れ込んだ。わたくしは、夢中で彼に駆け寄り、その身体に触れた。
その瞬間、わたくしの身体から、黒い霧のようなものが立ち上り、庵の中の毒気を、まるで吸い込むかのように浄化していったのだ。
「……貴様、やはり、ただの人間ではないな」
意識を取り戻した暁が、ぜえぜえと息をしながら、わたくしを見上げた。その赤い瞳には、驚愕と、そして、長年の謎が解けたかのような、深い納得の色が浮かんでいた。
「わたくしの身体は……『気』を弾くのではありませんでした。わたくしは、『瘴気』を糧とし、それを浄化された『精気』へと変える力を持っていたのです」
わたくしの身体は、清浄な気を溜めることができない器。けれど、それは同時に、淀んだ瘴気を吸い込み、浄化するための、特異な器でもあったのだ。青龍門の霊峰は、気が豊かすぎる故に、常に微量の瘴気を生み出していた。わたくしがそこにいるだけで、無意識のうちにその瘴気を吸い込み、浄化していたのだ。わたくしこそが、青龍門の結界そのものだったのだ。
小桜が倒れたのも、わたくしが彼女の修行の妨げになったからではない。彼女が未熟さ故に、自らの体内に溜め込んでしまっていた淀んだ気を、わたくしが手を触れたことで、急激に吸い出してしまったからだ。その急激な変化に、彼女の身体が耐えられなかっただけなのだ。
「『災い』の正体は、『浄化』の力……か。皮肉なものだな」
暁は、自嘲するように笑った。
その日から、彼のわたくしに対する態度は、わずかに変わった。彼は、わたくしに薬学の知識を教え込み、わたくしの能力を、より効率的に、より強力に引き出す方法を、共に模索し始めた。わたくしたち二人の力は、合わさることで、ただの薬を、不治の病さえも癒す『霊薬』へと昇華させた。
わたくしたちの名声は、瘴気の谷の薬師と、その謎多き弟子として、密かに、しかし確実に、王都にまで届き始めていた。
一方、わたくしを追放した青龍門は、深刻な危機に瀕していた。
わたくしという『浄化装置』を失った霊峰は、日ごとに瘴気の濃度を増していった。清浄だったはずの気は淀み、門弟たちは次々と原因不明の体調不良を訴え、修行もままならない状態に陥っていた。
かつての栄華は見る影もなく、青龍門は、ゆっくりと、しかし確実に、死の山へと変わり果てていた。
「快斗様、このままでは、青龍門は……!」
小桜が、青ざめた顔で訴える。
「どうか、凛お姉様を、連れ戻してください! あの方さえいれば、きっと……!」
「黙れ!」
快斗は、苛立ちを隠さずに怒鳴った。
「あんな無才の女に、何ができるというのだ! 全ては、気の乱れに過ぎん! 私が、この私が、必ずや青龍門の気を正常に戻してみせる!」
彼は、自らの才能を過信し、現実から目をそむけていた。わたくしを追放した自らの過ちを、認めることができなかったのだ。彼は、さらなる気の修行に打ち込んだが、それは、淀んだ瘴気をさらに体内に取り込むだけの、自殺行為に他ならなかった。
そして、運命の日は訪れた。
わたくしと暁の元に、青龍門からの使者が、切羽詰まった様子で駆け込んできた。
「どうか、お助けを! 快斗様が、快斗様が瘴気に侵され、もはや命も……!」
わたくしは、暁と顔を見合わせた。彼の赤い瞳が、静かにわたくしに問いかけていた。「どうする?」と。
わたくしの心に、迷いはなかった。
たとえ、どれほど酷い仕打ちを受けたとしても、青龍門はわたくしの故郷。快斗様は、わたくしのかつての婚約者だった人。
「……参ります」
わたくしと暁は、青龍門へと向かった。
変わり果てた山の姿に、わたくしは息を呑んだ。木々は枯れ、大地はひび割れ、かつての清浄な気配はどこにもない。そこは、第二の瘴気の谷と化していた。
道場で、わたくしたちは、病床に伏せる快斗様と対面した。
彼は、かつての輝くような美貌を失い、土気色の肌で、苦しげに息をしていた。その身体からは、紛れもない、濃密な瘴気が立ち上っていた。
「……凛……?」
彼は、かろうじて目を開け、わたくしの姿を認めると、驚愕に目を見開いた。
「なぜ、お前が、ここに……。そして、その男は……」
彼の視線が、わたくしの隣に立つ暁に向けられる。
「久しいな、快斗」
暁が、静かに口を開いた。
「いや……かつての名は、捨てた。今の私は、ただの暁だ」
「その声……まさか、お前は……! 破門されたはずの、叔父上……!?」
そう、暁こそが、青龍門の先代掌門の弟。かつては快斗をも凌ぐと言われたほどの才能を持ちながら、危険な瘴気の研究に手を染めたとして、門派から追放された男だったのだ。
「叔父上が、なぜ……」
「お前を、そして、この青龍門を救いに来てやった」
暁は、懐から一つの小瓶を取り出した。
「これは、私と凛の力を合わせた霊薬だ。これを飲めば、お前の命は助かるだろう」
快斗は、信じられないという顔で、わたくしと暁を交互に見た。
追放したはずの二人。蔑み、見下していたはずの二人が、今、自分の命を救おうとしている。
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、後悔と、そして、かすかな感謝の涙だった。
わたくしは、彼から霊薬を受け取り、その唇へと運んだ。
薬が、彼の乾いた喉をゆっくりと下っていく。
そして、わたくしは、そっと彼の手を握った。
わたくしの身体から、黒い霧が立ち上り、彼の身体を蝕んでいた瘴気を、ゆっくりと吸い出していく。
「ああ……、身体が、楽に……」
快斗の顔に、血の気が戻ってくる。
同時に、わたくしは、この霊峰全体に満ちていた瘴気が、自分の中に流れ込んでくるのを感じていた。それは、わたくしにとって、最高の馳走だった。
全ての瘴気を吸い尽くした時、わたくしの身体は、今まで感じたことのないほどの精気に満ち溢れていた。
快斗は、ゆっくりと身を起こした。そして、わたくしの前に、深く、深く、頭を下げた。
「……すまなかった」
わたくしは、何も言わずに、ただ静かにそれを受け入れた。
復讐は、終わったのだ。いや、最初から、復讐などするつもりはなかった。ただ、因果が巡り、あるべき場所へと、全てが収まっただけなのだ。
数日後、青龍門を去るわたくしたちを、門弟たちが全員で見送っていた。その中には、快斗と、そして、顔を伏せたままの小桜の姿もあった。
「凛」
快斗が、わたくしを呼び止めた。
「……達者で」
「はい。快斗様も」
わたくしは、最後に一度だけ振り返り、微笑んだ。
それは、わたくしが、この山で初めて見せた、心からの笑顔だったかもしれない。
瘴気の谷へと戻る道すがら、暁が、ふと口を開いた。
「……これから、どうする?」
「そうですね……。まずは、この谷の瘴気を、もう少し浄化して、花でも育ててみましょうか」
「花、だと?」
「はい。この谷にも、きっと美しい花が咲きますわ。わたくし、そう信じておりますの」
わたくしがそう言って笑うと、彼もまた、ほんの少しだけ、その唇の端を綻ばせた。
「……それも、悪くないな」
彼の赤い瞳が、どこまでも優しく、わたくしを見つめていた。
わたくしの手は、もはや災いを呼ぶ手ではない。
この手は、死の大地さえも、生命の咲き誇る楽園へと変えることができる、祝福の手なのだ。
わたくしは、暁の手を、そっと握った。
ひんやりとした彼の手が、わたくしの温かい手の中で、ほんの少しだけ、温もりを取り戻したような気がした。
瘴気の谷に、初めて、優しい風が吹いた。
それは、二人の新しい物語の始まりを告げる、希望の風だった。