◆第27話「スフィンクス=ヘリア、記憶の砂時計を逆さにする」
砕け散ったのは“塔”としての封印時計だけだった。雷火渦という現象は止めたが、地下を這う《時脈管》というバックアップ時計はまだ生きていて、第五刻で喘いでいる――獅峯燈真のその説明を、私は二焦点化したばかりの心臓で飲み込みきれずにいた。だからこそ、欠けた歯車を埋め直すために、私たちは砂霧荒原へ向かった。そこに“記憶を食べない図書館”があると、銀夜が囁いたからだ。
焦げた蜂蜜の匂いの風。靴底が溶けるたび、砂が舌に塩を乗せる。そこで待っていたのは、耳のないフードを深くかぶった女。
「私はスフィンクス=ヘリア。自ら名乗るのが私たちの流儀」
彼女は、〈第零刻〉の副設計者の末裔だという。
「君たち、第三条を見てないでしょ?」
「第三条……?」
「“忘却は配分の最短経路”。全部覚えていたら、どこへも配れない。だから少し忘れろ、と」
喉がひりついた。忘れたくない。雷雅の笑い皺の形も、唇の味も、背中の雷鼓紋の発光パターンも。
ヘリアは光の入った砂時計を逆さにする。
「五分だけ、君の雷雅を忘れさせる。それで世界を見て戻ってきて。配れるか、配れないか」
「待て――」
雷雅が手を伸ばす。私は首を振った。
「五分。五分なら、取り戻す」
光が舌に、瞼に、耳に、皮膚に侵食してくる。雷雅のオゾン臭が消え、笑い皺の音階が白紙になり、でも代わりに街の鼓動が鋭く聴こえだす。泣く子どもの心拍が耳朶を叩き、瓦礫の下の犬のSOSが胸骨をノックし、石畳の亀裂が“第五刻で詰まった時脈”の音程で軋む。二焦点心臓の世界側の焦点が、最大開口で開いたのがわかった。
五分が永遠で、永遠が五秒。光が引くと、雷雅の輪郭が轟音とともに戻った。膝が抜け、砂に手をつく。
「どうだった?」
ヘリアが問う。
「配れる。“忘れる”方法じゃなく、“共有して戻す”方法を探す」
「第三条の否定ね。嫌いじゃないわ」
ヘリアは砂時計の下部を割り、欠けた封印歯車を一枚取り出す。
「塔は砕けた。でも根(時脈管)は生きてる。『覚えている方』に託す」
雷雅の掌に歯車が落ちる。稲妻を失ったはずの彼の手のひらが、淡い桃色に発光した。鼓動の側撃が歯車を暖めたのだと直感する。
別れ際、ヘリアはフードを外した。耳はあった。聞こえすぎないように折り畳んで隠していただけ。
「忘却は最短経路。でも私は耳を畳むだけでいい。聞こえることをやめないから」
猫の流儀でウィンクし、砂に沈む彼女の背を見送りながら、私は胸の火輪を撫でた。
――補遺を刻み、共有して、戻す。忘れない方法を、法にする。
雷雅の手は、まだ震えていた。私の手も震えていた。二つの震えを重ねたら、少しだけ静かになった。
(第27話 了)