◆第26話「豹条祈継の心臓実験――ハート・ベクター」
氷宮の一角、蒸気管が蜘蛛の巣のように走る実験室。壁の氷膜には拍動の波形が淡く映り、床には薬神連盟の旧式器具と祈継の黒曜工学が混在して置かれている。私は寝台に横たわり、胸の上で三つ編みをほどく。心臓の向きを変える――言葉にすれば軽いが、指先ひとつの温度で、恋の在り方は簡単に崩れるのだと私は知っている。
「痛む。けど、これは“配るための痛み”だ」
祈継は黒曜石の義指を瑠璃薬液に浸し、私の火輪の縁をそっとなぞる。触れられた場所だけ、温度の分度器で測られるように熱が数値化される錯覚。
「拍動は綺麗だ、草薙蓮火。恋の式で律動してる。ここに“第二軸”を入れる」
空中に描かれる数式。〈焔命合成式〉のパラメータが、〈恋愛動力学〉の変数と組み合わさる。数式の端から硫黄と花蜜の甘焦げが立ち上がり、私は喉へこみ上げる鉄の味を噛みしめる。
雷雅が手を握る。雷を失っても、鼓動の側撃は私の手の中で確かに痺れている。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でも、好きだよ」
言葉を吐いた瞬間、祈継の義指が第二軸を私の胸に“やさしく刺した”。心拍が二つに分かれ、視界が二重にピントを結ぶ。ひとつは雷雅へ、もうひとつは――街全体の鼓動へ。
配る、ということは、受け取る、ということでもあった。石畳の下を走る《時脈管》の微かな震え、誰かが嗚咽している肺の痙攣、氷膜を通る冷却液の律動、薬帝蓮の新芽が膨らむときのかすかな拍。それらが、私の内側へ津波みたいに流れ込んでくる。泣こうとして、笑った。忙しい。忙しい心臓は、生きている。
扉の外で判決剣が鳴る。獅峯燈真の声が、蒸気を震わせる低音で届く。
「補遺の運用を告げる。〈第零刻〉は“基底条”と“補遺”で構成され、補遺は臨時審理で逐次刻める――心臓二焦点化を、補遺第一号として認可する」
ドア越しでもわかるほど、雷雅の指が強く私の指を握った。
「次は、俺の番だ」
祈継が頷き、雷鼓紋に第二軸を刻み込む。
「雷は失っても、側撃用の拍動式がある。君は指揮者になれる」
施術が終わったとき、私は突然泣いた。私の心臓が街へ開いているから、街の涙が私に入ってくる。配るほど戻ってくる。
雷雅は背中から抱きしめ、額へ自分の汗を押し当てる。「分け合えば薄まる。でも、一緒に飲めば濃くなる」
私はうなずいた。“方法を審問される”なら、審問に耐える方法を、自分たちの心臓で作ってみせる。
(第26話 了)