◆第16話「銀鎖再臨、雷封鎖の影」
霊泉都の朝は、檜煙と薄荷の湯気が織りなす柔らかな乳白色で始まる。湯けむりの雲海を突き抜け、陽光が瑠璃の屋根瓦に反射するたび、私は胸の火輪が微かに脈動するのを感じた。――封印時計は八刻目。《終焉》の針音が耳の奥で不気味に鳴る。
薬神連盟会議塔は、千年前の霊泉戦役で焦土となった都心部に再建された大理石の天啓塔だ。壁面の薬草浮彫と蒸気管が錯綜し、湯の吐息はそこかしこで鐘のように鳴る。私たちはその円卓会議室へ招かれていた。着席するたび椅子から立ちのぼる檜油の香りが、かすかに緊張を解く。
連盟議長・蘇芳の老医師が口火を切る。「薬帝蓮は封印時計を逆転させ得る唯一の触媒。花芯を都の精錬炉へ――」
その瞬間、天窓が割れて銀色の雨が降った。鎖だった。
鎖は空気を切りながら螺旋を描き、雷雅の背痕へ絡みつく。雷鼓紋が痙攣し、稲妻が暴走、空気が鉄の焦た匂いで満ちた。
「離れろ!」雷雅の絶叫。私は咄嗟に彼の肩へ手を伸ばすが、冷鉄の鎖が私の手首を凍りつかせる。氷でも火でもない、血の温度を奪う金属毒。
天窓から舞い降りたのは、銀鎖結社の封鎖師・マーゴラ。長身を覆う黒ローブの襞は、雷光を吸い込む深い闇色。
「呪雷は世界を裂く種子。芽吹く前に摘む」
声は底冷えする霧雨。《理屈》ではなく《確信》で人を凍えさせる温度だった。
銀夜が月鋼刀を抜く。刀身が蒼月のアークを描き鎖へ叩きつけられるが、鎖は意志を持つ蛇の如く軌道を読み、刀身を絡め取る。
朔月は狭間を縫い疾く、風刃で鎖輪を断ち切るが、切り口はすぐさま再生。キティアの氷楔が鎖へ霜華を咲かせても、銀色は霜を嫌う陽の光のように反射して剥落する。
「鎖は真実しか縛らない――信仰だ」マーゴラが告げる。鎖輪の一つひとつが呪符の刻印で輝き、雷雅の鼓動に合わせて締まり続ける。彼の金瞳は苦痛で潤み、背中の太鼓紋が赤黒く脈打つ。
私は火輪を最大膨張、鎖紋へ火粉を散布した。金属は赤熱し焦げ色の硫香を吐くが、刻印はむしろ喜ぶように光を増す。
――炎では解けない。《恐れ》が媒介になっている。
私は深呼吸し、掌を鎖に添える。熱ではなく心拍を同調。《恐怖》を《信頼》へ上書きするように、雷雅の名を心の中で呼び続けた。
「蓮火……触ると危ない……っ」
「危ないのは離れる方!」
声と声が触れた刹那、火輪の中心でスパークが弾け、雷雅の稲妻と融合した。火と雷の温度が鎖へ逆流、刻印が悲鳴じみた青光を噴き、リングが弾け飛ぶ。
銀夜はその刹那を逃さず刀を振るい、朔月は尻尾で鎖を絡め獣じみた力で引き裂いた。キティアが氷雨を降らせ、高熱になった金属を瞬時に収縮させる。
マーゴラは表情一つ変えず後退し、瓦礫に紛れ夜の霧へ溶けた。
断ち切られた鎖から鉄臭が立ちのぼり、会議塔の薬草彫刻に焦げ跡が残る。私は震える膝をつき、雷雅の背に掌を当てた。汗と血と火薬の匂い。奥歯が砕けそうなほど噛み締めた彼の痛みが、掌から心臓へ流れ込む。
「ごめん……俺が弱いせいで」
「違うよ。私たちの絆が弱かっただけ」
言葉に稲妻が混ざり、火輪が震える。朔月は耳を伏せ尻尾で二人を包み、銀夜は無言で肩を貸す。キティアは氷華を砕き傷口を冷やす。
議長が呻くように言った。「銀鎖の標的は雷雅だけではない。封印時計と薬帝蓮――そして君の焔そのものだ」
塔の外、朝霧が血煙を薄めていく。封印時計は九刻目に近い。終焉の足音は、硫黄と火薬の匂いで確かに近づいていた。
(第16話 了)