ギターとチョコレート
日没。古びたアパートの部屋に西日が差し込む。この時、僕は隣に響かないように気を付けつつ、小さな音でギターを弾く。特段、上手いわけではない。遊びだ。そう思いつつも僕自身は僕のギター演奏を好ましく思っている。観客はなく、誰かに聴かせたいと思っているわけでもない、プロではない僕のギターの音は侘しい一室に似合っている。そう、思いたいだけなのかもしれないが、僕は僕の感傷に浸りながら、ただただギターを弾く。
観客はないと言ったが、いつもこの時間に僕がギターを弾くと弾き始めたのを見計らったかのようにインターホンが鳴らされる。その単純な音は一度だけ鳴って自室を巡る。玄関扉を開けるといつものように恋人が立っていた。よ、と片手を上げて笑ってみせる彼女の笑顔は昼間の太陽のようで、沈み行く太陽のような僕にはおよそ似つかわしくない。そんな僕の心情など露知らずといった感じで、いつものように彼女は僕を押し退けるようにして家に上がり込む。
今日はさー、紅茶検定試験っていうのを受けて来たのよ。東京まで行ってさ。受験料、高いんだけどね。趣味だけどさ。紅茶が好きだから受けてみようっていう、そりゃあまあ単純な心意気よ。割と簡単だったわ。これは受かってるね。自信有りよ。
と、聞いてもいないことを恋人はぺらぺらと話す。
相変わらず物寂しい部屋ねえ。他になんかないの? 観葉植物とかさ。生きて行ければ良いっていう簡素な部屋よね。引っ越す気ないの? 台所も小さいしさ。私だったら金を貯めて引っ越すね。それで紅茶を飲むの。部屋にいる時くらい、落ち着きたいのが人間ってもんでしょ。ね、そう思わない?
僕の恋人は狭い部屋の中央で腰に片手を当ててくるりと僕を振り返って言った。
「別に思わないけど」
「面白味のない返事をするわね」
まるで自分の家で寛ぐかのように恋人は薄手のコートを脱いでハンガーに掛け、どっかとローテーブルの前に座った。
「愛する女性にお茶くらい出してよ」
たんたん、と恋人は軽くテーブルを叩き、催促する。
「愛歌の方がお茶を淹れるのは上手いだろ。紅茶検定なんて受けて来たくらいだし」
「あら、ちゃんと私の話を聞いてたのね」
「一応ね」
「じゃあ、お茶を淹れてあげるわ」
恋人――愛歌はすっくと立ち上がり、彼女曰く「小さな台所」に立つ。
「今日はルイボスティーにする」
「良いけど、ほとんど毎回、何かしらのお茶を持って来るのそろそろやめてくれよ。置き場がないんだ」
「今日は持って来なかったわ。お茶っ葉くらい、並べて置いておけるような家に引っ越しなさいよ」
「学生で金があるわけないだろ。お互い様だ」
「ちょっとくらいなら出してあげても良いよ。今月はデータ入力のバイトと確定申告のバイトで潤ってるの」
愛歌はかちゃかちゃとティーポットやマグカップを出し、手鍋に水を入れて火を点ける。手慣れた仕草だ。お湯が沸くのを愛歌はふんふんと鼻歌を歌いながら待っている。
「それ、何の歌?」
「デタラメよ」
簡潔に答え、愛歌はデタラメな歌の続きを口ずさむ。やがてお湯が沸いて、愛歌はそれをポットに移す。ジャンピングって必要なのかしらねーと、良くここのタイミングで愛歌は言う。三分間を愛歌曰くフィーリングで計り、彼女はマグカップ二つを持って部屋に戻って来た。秋の日暮れの部屋に白い湯気の立つマグカップ二つが何だか似合っていると、僕はこの頃、思うようになった。
「それで、今日は何か良い曲は出来た?」
ごく、と一口お茶を飲んで愛歌は言う。
「いや。いつも言ってるだろ、遊びだって」
「でも、私は涼一の曲、好きよ」
好き。そう、重ねて愛歌は言った。
「ありがとう」
「どういたしまして。ねえ、何か弾いてよ」
その為に来たんだからさ、と付け足して愛歌はにこっと笑った。彼女の笑顔に西日が掛かる。陰影の付いた愛歌の笑顔は何処かの美術館にでも飾られる一枚絵のようだった。惚れた者の欲目だろうか。僕は一口、熱いお茶を飲んだ。壁に寄り掛からせておいたギターを構え、僕は先程の曲を最初から弾いた。時々、愛歌の視線を意識しながら僕はギターを弾く。簡単なメロディーだ。僕程度、弾けるのは腐る程にいるだろう。だが、そんなことはさしたる問題ではない。たとえ世界が終わろうと僕は僕に似合うギターをずっと弾き続けるだろう。
やがて西日が完全に沈み、部屋には暗闇が訪れた。手元が見えなくなってしまったので、僕は適当なところで曲を終わらせて部屋の明かりを点けようと立ち上がり掛けた。その時だった。
「点けないで」
愛歌が僕の手に自らの手を重ねて囁くように言った。僕は触れられたところから熱が伝わるのを感じ、真っ暗な部屋の中でそこだけが航海灯の光のように思えていた。僕達はどちらからともなく口付けをした。愛歌の唇は濡れたようにしっとりと潤っていた。幾度も口付けを交わした後、僕達は離れた。愛歌の息遣いが部屋中に木霊するように響いた。暗がりの中で愛歌が僕に身を寄せるように動いた。僕は、そのまま愛歌を抱いた。愛歌から洩れる吐息を僕は一つも聞き逃すまいとした。それは、好きな歌を聴く時の僕の姿勢だった。
やがて果てた愛歌が息を乱しながら僕に言った。ギターを弾いて、と。それは何処か懇願するような言い方だった。そして、これはいつものことだった。いつからか始まった、僕と愛歌の習慣だった。愛を確かめ合った後、眠りに就こうとする愛歌の為に僕は緩やかにギターを弾く。音色に導かれるように愛歌が寝息を立てる頃、僕はギターを置く。僕達は、そうやって今年の秋を過ごして来た。今日も愛歌は僕のギターを子守唄に眠ってしまった。愛歌の裸の体にタオルケットを掛けても愛歌はぴくりともしなかった。深く眠っているのだろう。僕は、冷めてしまったお茶を飲み干した。
一時間程で愛歌は目を覚ました。おはよ、と挨拶を交わすと、もぞもぞと愛歌は洋服を着た。そしてさっきとは真逆のことを言う。
「真っ暗じゃない、電気くらい点けてよ」と。
僕は少し笑いを覚えながら電気を点ける。
「ねー、甘いものないの?」
「今日、コンビニで買おうと思っていたところ」
「じゃあ、一緒行こ。ね?」
「うん」
僕達は秋の夜を歩いてコンビニに行く。手を繋ぎ、まるで何もかも上手く行っているように笑って、話をして。月明かりと街灯で愛歌の笑顔は色っぽく僕に映った。
僕と愛歌が大学を卒業したらどうなるのだろうということを、このところ良く考える。お互いにやりたいことのない僕達はまだ進路を決められずにいた。だが、いつまでもこのままではいられないことは良く分かっている。そのつもりだ。
「今日、泊まって行っても良い?」
「うん」
「さんきゅ」
「うん」
コンビニで愛歌の好きなミルクチョコレートを買ってやると、愛歌はまるで無邪気な子供のように喜んでみせた。僕はそんな愛歌を見て嬉しくなる。こんな風に世界というものが単純だと良いのに。そう思った。
帰り道に愛歌が口付けをせがんだので、僕達は電信柱の陰に隠れて一つ口付けをした。唇が離れた後、にこと笑った愛歌はこの世の誰よりも愛しく、綺麗だった。僕はこの人を守る為なら何だってしよう。今はギターを弾いてチョコレートを買ってやることくらいしか出来ないかもしれないけれど。卒業まで、あと二年弱。僕は僕が似合う人間になろう。僕の隣にいる愛歌がいつも笑っていてくれるように。
「どしたの、なんか真剣な顔」
部屋の鍵を開ける僕を愛歌が見上げて言った。
「いや、何でもない」
「そ?」
「うん」
「そか」
ただいま。僕達は同じ扉をくぐり、二人で言った。