第二十一話 どこかへと繋がるの
若葉春流が知らなかったこと。
幼馴染のお姉さんがボランティア部の先代の部長だったらしいこと。
一ノ瀬智について知ったこと。
彼はスミレ姉さんの後輩だったらしいこと。
胡川すみれが言わなかったこと。
ずうっと一緒に育った私に知らせなかったこと。
何で、私は知らないままなの?
妹と共に外出する時には、必ず彼女の温かに湿った手を握る。その小さな手から優しくトクトクと、僕の手の中に心音が伝わっていく。唯そんなことだと片付けられる些細なことで僕はひどく安心するのだ。
モール内の雑踏を超えて、唯一の、僕にとって輝いて見えるあの人がいたのだ。その時だけ、手を繋いでいたルリの存在が霞むくらい鮮烈な。僕の心に印象深く残る鮮やかな人。
柔かに笑む胡川すみれは、一年前と変わらなかった。
「あら、二人でショッピング?」
「いえ只の御使いですよ」
話し掛けてくれた彼女の雰囲気が自分と知っているものと同じだと安堵して、若干はに噛みそうになりながらなんとか答えた。
何考えているかが分からない、大人びている、ミステリアス、ちょっとした不思議くん。これらの言葉は、僕、一ノ瀬智に対する総評だ。だけど、あの人の前だと一言を口に出すだけで精一杯だなんて、思いはしないだろう。同じクラスの友人や親ですらそうだから。
コガワ部長は、きっとそうとは知らない。知っていたとするなら、今ここにいる僕は彼女と話す勇気がなくなってしまう。
彼女の鈴を転がすような声が「部長がずいぶん板についてるみたいじゃない」と紡ぎ出すのを聞いて、「僕なんかまだまだです」と空いた方の手で後頭部を掻く。
目の前にいる憧れた少女の目が酷く真っ直ぐだった。
「ハルルから聞いたわ、色んなこと教わってるって」
その言葉を聞いて、僕は居たたまれなかった。何て言ったら良いのか分からなかったのだ。あの純粋そうな眼差しで、僕が教えたことをスポンジのように吸い込む後輩のことを思うと、コガワ部長に申し訳が立たないからだ。
「でも……」
やっと口が開いても、繋げる言葉が重く首を絞めているようで言えなかった。息が浅くなっていくのを感じながら、言うのだ。
「僕が、貴女が続けた伝統を変えたんですよ?」
言えた。僕がやってしまったこと。コガワ部長、いや、只のコガワ先輩になった時から、全てを変えた。只、己の為に。
「気にしなくて良いのに」
困ったように眉を寄せて、彼女は笑みを深めた。
「アレね、私の勝手で作ったものよ」
一年前の夏までのボランティア部は今とは違っていた。現在では、手話を学んだり、書籍の点訳、ペットボトルのキャップ集め等の細々とした仕事を幽霊部員以外の己を含めた二人でこなしている。だが、一年前までは、あの部室にはトルソーがあって、生地を広げ、幾人かいた他の部員と共にデザイン画と睨めっこしていた。
彼女は、床をなぞるような自信がない僕の下げた首に手を添えて、優しく上に向けさせた。
「誰か他の人が着ることを建前にして、部費を得ていたし」
「制作費用を得ていても、何十着も作ってたじゃないですか、困っている人達の為に」
丁度こんな暑い夏に、幾つもの毛糸玉からたくさんのセーターや手袋を編んで、こことは真反対の季節の国、物資に困窮している人達に贈った。「寒空の中、赤い指先がテレビに映っていたから」と必死になって編み棒を動かして。雨桜が降り注ぐ季節に巡り、ブレザーを着たコガワ部長の元へと、国際便からの届いた拙い外国のありがとうの字。あの時の彼女の笑顔が忘れられない。
彼女は変わらないままだった。
「結局、好きな事をしていただけだったの」
でも、僕よりも、ひとつふたつと先に真っ直ぐに逸さずに行ってしまう。
「それでも、誰かの手に渡って喜んでくれたらって、一生懸命にしていたのに、それでもよかったんですか?」
「あの活動は私だからしていたのよ。だから、あなたができる手助けをしなさい」
天窓からの光が一瞬眩しく感じた。日を遮っていた雲が退いてしまったらしい。
同時に、モールの中を早足で駆けていく音や客を迎える店員の声が、栓を開けたように耳に入っていく。右手の中にいる小さな温かさも段々と戻ってきた。
僕がしなくちゃいけないこと。
「わかりました……。僕、ボランティア部、最後までやり遂げます」
五年前に診断された妹の症状。
「コガワ先輩が知ってたことを俺に教えてくれたように、僕の知っていることをそのままワカバくんに全部繋げます」
ルリは後天性に聞こえなくなってしまう、と告げられた。
「……そして」
だから妹がこの学校に入学しても体制を整えるようにと、名称だけしか知らないボランティア部に入って、クラブ内容に絶望して反感して。
「ワカバくんに“その先を自由に”と渡す覚悟やっと持てました」
この部がやっと好きになったと気付いた時には、僕には一年の猶予しかなくて。
「コガワ部長」
全てを塗り終えるしかなかった。
彼女の時雨にも似た艶のある髪から覗く瞳は、あやめも知らない色をしていた。
「元部長からの言葉よ」
僕はゴクリと飲み込んだ。これ以上出せない言葉も、言葉になり得ない漠然とした気持ちも、覚悟も全て。
「本当に大きくなったわね、サトルくん」
彼女は知っていたのだ。
若葉春流が知ったこと。
今のボランティア部は一昔前とは違うということ。
一ノ瀬智について知らなかったこと。
彼には変えねばならない事情があったに違いなかったこと。
胡川すみれが言ったこと。
いつか、私が部を継ぐと、彼女自身は確信していたこと。
何で、私は知らないままでいられたんだろう。




