第十九話 どこかへと
秘密を知ったら、どこかへと繋がっていく。
皇月家の秘密の一端を触れてしまった、若葉春流。
どうしたら良いのか迷う暇がない内に。
公営館の二階にあるクラスルームは、様々な習い事やイベントが開かれている。この前なんかはフラワーアレンジメント体験会で花いっぱいの良い匂いを漂わせていたし、算盤教室の時にはパチパチと弾く音を響かせていた。
長期休暇の平日に空けられたその部屋に、絵本を朗読する女性の優しい声が子供達の間に耳を側立てる。その女性の横に背の高い少年の身振り手振りする姿が目に映る。そう、手話だ。
夏休みといっても、何かしらに所属している学生さんは暇ではない。むしろ体育会系は正しい意味での休日なんて指で数える程度しかない。そういう時には文化部系は楽そうで良いなと思うかもしれないが、ちゃんと活動日というものが設けられているのだ。部員が少ないトビタツ市立第二小学校ボランティア部も例外ではないのであった。
朗らかに朗読をしていた女性は絵本を閉じた時に、彼女の口の動きに合わせながら一ノ瀬智が『終わり』の合図を出す。そうすると、幾分と年下の子供達が親御さんの所に行き、バイバイと手を振りながら親御さんと帰って行く。
腰に手を当て息をやっと吐けたと物語る背中が私の目に映る。それが随分と大きくて遠い存在に見えるなぁと、若葉春流は思ったわけで。
「流石イチノセ先輩、上手かったです」
ボランティア部の部長にして手話と点字においては、お手本となってしまうイチノセ先輩には額が上がらないのだ。だって初の人目に触れるここでの私のポジションは顧問の松島豊先生の横にいるだけなんだもの。この読み聞かせの課外活動にちっとも貢献してない私が言うんだから間違いなし‼︎
色素の薄い髪をはらいながら彼は笑う。
「そんなことないさ」
謙遜しているが、自信があった上でイチノセ先輩は言っているのだと思う。だけれども、彼は瞳を揺らめかせた。
「ワカバ君には判ると思ったけどなぁ」
痩せて尖った顎に手を添えた大人びたポーズを取っている筈なのにイチノセ先輩は茶目っ気たっぷりだ。
でも、私にはイチノセ先輩から問われている意味が分からなかった。
「え?」
恐らく彼がやっていた手話で訳していた音読のことだろう。見ていた時には間違いがなかったと思うし、前もってコピーした絵本の用紙には手話の動きが書き込まれているけれども、それと見比べても違和感がなかった。
トートバッグを手に持ったマツシマ先生が私達の下に駆け寄って来る。
「ちゃんとお手本を見せなくちゃ」
どうやら私とイチノセ先輩の話を聞いていたらしい。
それも、うんうん唸っていた私には分からなかった答えが、マツシマ先生は知っているらしいのだ。
「イチノセ君はここの部分をちょっと詰まったって言いたかったんでしょう?」
受け持ちの生徒の目線に合わせて屈んだ所為か、彼女の一つに結えた髪が肩に流れ落ちたが、それを気にしてない様子で、人差し指をトンッとプリントの上に置いていた。
指摘した部分は「クマは向こう岸に行きました」と云う一節。
「ちぇ、先生ならわかっちゃうか」
マツシマ先生は手話や点字がお手のもので呼吸をするように上手いのだ、あのイチノセ先輩よりも。だからか、イチノセ先輩はムッと皺よ寄せた顔付きをする。多分、わざとだ。
そんなことがなかったかのように、彼は振る舞う。
「手話はリズムも大事だ、よく覚えときなよ、ワカバ君」
ビシッと決めているが、先程の子供染みたイチノセ先輩は忘れられそうになさそうだ。だって、珍しいから。
でも、私は疑問に思う。
「はい……、でも、綺麗にやることが大切なんじゃないですか?」
一字一句を丁寧にするということが、今の私にできる最大の工夫。だからこそ、私は驚いたのだ。
「う〜ん、そういうことじゃないんだよなぁ」
意味あり気に勿体ぶったそぶりをするイチノセ先輩に、焦ったいなぁと思ってしまう。部長左とか福祉委員長だとか複数の役職をこなす彼だけども、こういう面倒臭い一面もあるのだ。
思わずムッとしてしまうと、「怖い顔をするなよ」と戯けながら言ってきた。利発そうにしていたかと思ったら、子供っぽいことをするのだから。相変わらず、ミステリアスな先輩だと私は思うわけなんだ。
「手の動きだけじゃ判らないことだってあるんだ」
「判らないこと?」
オウム返ししかできなかったけれど、一生懸命考える。
何が必要なんだろうか?
手話に合わせた口の動きとか?
まさか芸術点とか言わないよねぇ?
さんざん考えあぐねいている私を見て、イチノセ先輩はプッと吹き出した。
「ポジティブだとか、ネガティブな意味合いだとか、区切りだよ」
「抑揚みたいなことでしょうか?」
やっと私がそう答えると、彼は軽くウインクして「まぁ、そんな所だ」と笑った。
「成長を期待してるぞ、ワカバ君」
イチノセ先輩の優しさが、多分だけれども耳元をくすぐって通った。
片付けが終わり、忘れ物がないかとチェックして鞄を持った時。
「サトにぃ‼︎」
ガラリと開いたドアから可愛らしい声が響いた。私達と比べると、声の持ち主は背がかなり低い。
「ルリ、走らない」
淡い桃色のサマーカーディガンを羽織った五か六歳くらいの女の子に、何時もならペースを崩さない飄々としたイチノセ先輩が慌てて注意していた。
マツシマ先生は最初から知っていたかのように、その小さい女の子ルリちゃんに声をかけた。
「あら、ルリちゃん。お兄さんの活躍を見に来たの?」
「うん! でも終わっちゃってたみたい」
ルリちゃんは、閑散とした貸し教室をグルリと見渡すと、残念そうに肩を下げたが……。
その様子を取るに足らないとばかりにイチノセ先輩は声を荒げた。
「こら、ルリ! 幼稚園から勝手に出ちゃ駄目じゃないか‼︎」
これから迎えに行こうとしてたのに、と説教が続ける彼の姿は側から見ても珍しいものだった。
「ごめんなさい、どうしても見ておきたかったの」
涙を浮かべて健気な様がこれまた胸に打つ。
薄茶の髪がイチノセ先輩によく似ていて、彼の目の色よりも淡い色をした瞳が印象に残る小さな女の子。その娘は元気に振る舞っているけれど、どこか儚いような雰囲気を漂わせていた。
「イチノセ先輩の妹さん……?」
公営館の横に立っている優しい色合いをした建物に、イチノセ先輩は指を差す。
「嗚呼、妹のルリ、あそこの幼稚園に通ってるんだ」と、不貞腐れたような表情を浮かべてバツが悪いとばかりに顔を背けていた。
手を繋いで帰る二人のシルエットを見ながら、私はつぶやいた。
「意外だなぁ、ちゃんとお兄ちゃんしてるなんて」
「あら、そうでもないわよ。ハルルちゃんという後輩もしっかり面倒みているじゃない」
「それもそうか……」
マツシマ先生の観察眼に思わず納得してしまう。イチノセ先輩は放任主義に見せかけて世話が必要な場合はちゃんとしているのだから。
一瞬の間に風が走り抜けていく。
「そもそも、あの子は……」
ボーッとしたマツシマ先生は何かを言いかけたが、隣に居た私を見ると、口を閉した。
秘密を知ると、どこかの秘密をまた知ってしまう。
一ノ瀬智とルリちゃんには秘密があると知ってしまった、若葉春流。
どうすれば良いのか分からない内に。




