とある王国の 2
「もしかして、私に言い返したのかしら」
ふいに普段の甘ったるい声とは打って変ったティアの目つきがココレアへと向けられる。
「いえ、そんな」
「あ、そうなんだ。へえ?」
にたりと笑う化粧にまみれた顔。
「私って純粋だから全然気づかなかった。シェトーさんに悪口を言われたなんて」
「悪口、なんて」
重々しく首を横に振るが、その姿は少女達の加虐心を煽るだけだった。
「ひどーい」
「ティア様の善意を蔑ろにする行為だわ」
「本当ならあんたなんて口すらきけない雲の上の方なのよ」
弁明をさせぬよう責めるたてる言葉が矢継ぎ早に降り注ぐ。
「目上の身分の者に無礼を働くなんて、ひと昔前なら侮辱罪で死刑ね」
そして、そんなサンマン令嬢の冷たい一言に教室は静まり返った。
「さあ、この失礼をどう償ってもらえるのかしら」
チェイセオ子爵令嬢のつま先が床に落ちたままだったココレアの鞄を蹴り飛ばす。
「償いって」
一方的に罪をでっち上げられたココレアは思わず身を乗り出すが、机に手を叩きつけたティアの顔が目の前に迫った。
「あら、私の言ってることなにか違って? 私が間違えているとでも?」
うっすらと浮かんだ微笑みは不気味でどこか怖ろしくすらあった。
「……ねえ、謝りなさいよ」
鼻と鼻が触れそうなほどの距離でココレアを睨みつけながら、その赤い唇は言う。
「お父様に言ってあんたを処罰してもいいんだけど、今回は見逃してあげる。だから ここで手をついて私に許しを乞いなさい」
散らばった教科書を仕立ての良い革靴で蹴り飛ばしながら その指は教室の床に向けられていた。
「…………」
「お詫びの品はなんでもいいわ。あんたの家に大した物なんてないだろうし」
「せいぜい装飾品で一番良いものでも持ってきなさいよ」
その頃にはティアの取り巻きだけでなく他の生徒達も周囲に集まり騒動を覗き込んでいる。
「早くしなさいよ!」
チェイセオ令嬢に腕を掴まれ、ココレアの体は階段式の通路に引っ張り出された。
「謝罪! 謝罪!」
最初に声を出し始めたのはイェオラ令嬢だったが、それは徐々に他の取り巻きや生徒達へ広がってゆく。周囲を取り囲む同級生達の顔を見回し、由緒ある制服のスカートをココレアは握りしめた。
ここで意地をはって突っぱねたところで有力者の娘に敵うはずはない。明日にはもっと話が大きくなって結局謝罪させられるのは目にみえている。それどころかティアに逆らって貴族学校から追放されたり、家族に危害を加えられた生徒だっているのだ。
ここは小説の世界じゃない。弱い者が強い立場の人間に勝とうなんてどう足掻いたって無理。そんなこと子供じゃないんだからちゃんと分かっている。
そう感情を押し殺し自分に言い聞かせたココレアが、唇を噛みしめゆっくりと膝を折ろうとした時だった。
「そこの生徒達、何をしている」
中途半端に開いていた教室の扉から聞こえた低音の声に、その場にいた全員の体が凍りつく。
一般生徒とは違う豪奢な男子用の上着、冷徹な印象を与える銀縁の眼鏡、手には唯一持つことを許された教鞭。そして、胸に輝く彼の立場を知らせる印。
「生徒、総鑑……」
誰かがぽつりと呟いた。
貴族学校において全生徒の代表であり彼らを統括する人物、ノヴァ・トゥンドゥーザが階段を下りながら近づく来る光景を、ココレアは視界の端にとらえた。
「この状況を説明したまえ」
白い指揮棒のような教鞭を手にした姿に誰もが咄嗟に姿勢を正す。
「いえ、これは……」
ティア・コンドラッドが言い逃れるように目を逸らすが、その足元にはココレアの鞄と教科書が乱雑に散らばったまま。
「……そのっ」
しどろもどろとなるティアをしり目に、そっと取り巻き達は距離をとった。
なにせ相手が悪い。それはノヴァが謹厳実直な生徒総鑑であり、将来の国王たる王太子の親友だからというだけではない。
いくら有力なコンドラッド侯爵家であっても、代々このアンザネイス国の宰相を務めるトゥンドゥーザ公爵家と比べてしまえば吹けば飛ぶんでしまうような存在。彼が進言すればティアの将来とてどうなるか分かったものではないのだ。
「説明が出来ないのならば……」
「これは、私が落としました」
蒼白の顔面で震え出したティアへ罰を言い渡そうとしたノヴァを、静かな声が遮る。
誰もが振り向く視線の中、ゆっくりと歩き出したココレアは床に放置されたままの鞄の前にそっとしゃがみ込んだ。
「私が誤って落としてしまって、ティア様が拾ってくださろうとしたのです」
教科書を一つづつ集めながら説明するプラチナブロンドの後頭をノヴァは黙って見つめる。
「……そ、そうなんです。彼女ったらそそっかしくて。ねっ?」
ややあって考えをめぐらせたティアも周囲を見回し声高に叫んだ。
「それは本当か?」
「は、はい」
「本当、です……」
生徒総鑑の問いに、取り巻きは目を泳がせながら答え、他の生徒達はばつが悪そうに俯く。
再び視線を戻したココレアが黙って鞄を持ち立ち上がる様子に、これ以上の追求は無駄だとノヴァは判断したらしい。
「よろしい。今回の件は不問としよう」
小さく息をつきながら落とされた言葉に、ティア達は顔を見合わせ安堵の表情を浮かべる。
「そ、そうですか。それでは、私達はこれで」
「ごきげんよう」
まさに脱兎のごとくそそくさと立ち去る彼女達の背中を見送ったココレアだったが
“おぼえてなさい”
教室を出る間際、振り向いたティアの歪んだ唇が確かにそう言ったのを見てしまった。
残っていた他の生徒達も、自分へ火の粉がふりかからぬよう会釈だけを残しそそくさと帰って行く。
「それでは、私もこれで」
いつの間にか2人きりになってしまった教室。鞄を持ち立ち上がったココレアも生徒総鑑へ小さく頭を下げ静かに背中を向ける。
「どうして、あんな行いを黙って受け入れてるんだ?」
歩き出していた足は、どこか叱るような声でぴたりと立ち止まる。少し振り向いて見た顔は、射し込む夕陽が眼鏡に反射して表情までは分からなかった。
「身分の高い方へ逆らってはいけないと、子供でも知っています」
ココレアが淡々と答え、オレンジ色に染まった教室には短い沈黙が流れる。
「……それでも、あの頃の君らしくない」
沈黙の跡、何故かノヴァのほうが躊躇うような、苦し気な一言を漏らした。
「お気にかけてくださりありがとうございます。トゥンドゥーザ生徒総鑑」
それでも再び歩き出したココレアは、ほんの少しだけ寂し気に微笑む。
「……でも。自分で、決めた道ですから」