前夜祭 6
当然ながら、学生といえどダンスというのは特別な相手を選ぶもの。それがアンザネイスの王太子たる者が自ら声をかけたのが、盗みを働いた貧乏貴族の娘のココレア・シェトーであるなど悪夢でもあってはならないことだった。
「セレン様、お気を確かに」
「何をお考えになられているのです!」
生徒や居合わせた貴族達から悲痛な声すら聞こえてくるが、当の本人は意にも介していない。
それどころか
「どうした。さっさと立ち上がれ」
変わらぬ不遜な態度がココレアへと命ずる。
周囲から見ればまるで夢物語のような情景を、そのヒロインであるココレアはただ恨めし気に睨めつけるだけだった。
「こ、これは……」
世界が一転してしまった光景を目の前にして、泡をふく勢いのレンオは跪いたままでセレンを仰ぐ。
「レンオといったな」
緩慢に王太子は体の向きを変え、その青ざめた顔を見下ろした。
「この者は、自分が盗みを働いたと認めたのか?」
「……いえ」
「それならば、一度は自分の婚約者を守るのが筋であろう」
「それは」
普段のレンオだったならばムキになり反論もしただろうが、相手はこれからこの国どころか世界で最も重要とされることになる人物。言い返すなどもっての外どころか、不満をあらわすことすら許されもしない存在だった。
「お前はさきほど、この女は自分には関係ないと言ったな。それならば、俺が盗っても文句はあるまい」
その横顔が不敵そうに笑う。
貴族が婚約者や妻を他の男に奪われることは、本来これ以上ない恥辱とされる。学校のパーティーといえどそんな事態になったら命を投げ出してでも男は名誉を守らなければならない。
しかし、レンオはただ冷や汗をかいたままその場に蹲ることしか出来なかった。
「もたもたするな」
そんなデンサー家の三男の存在など既に忘れてしまったように、床の上にあったココレアの手を強い力が掴む。
「……あ、あのっ」
言いかけた抵抗の言葉は続かなかった。ただでさえ男性からのダンスを断ることは失礼な行為にあたる。更にその相手が王太子だったなら、貧乏貴族の娘に断る権利などあるはずがないのである。
「…………」
鉛のように重い腕をココレアが差し出すと、勢いに任せ乱暴に立ち上がらせられた。
動かなくなったレンオ。背後ではティアが悪魔のような形相で唇を噛みしめる。会場中にパニックのような喧噪が渦を巻く。
この地獄のような有り様を一体どうすればいいのか、自分はこれからどうなるのだろうか。そう、当のココレア自身が途方に暮れてしまった。
「ああ、間に合った」
そんな重苦しくも浮ついた空気を切り裂いたのは、やけに能天気な男の声だった。
皆が振り返り見れば、華美な白い礼服が大広間の入り口をくぐる。
「テオドーラ様」
会場中から、誰ともなく安堵の声が次々とあがった。
親衛隊の最後の一人。アンザネイス経済のトップであるカバネッサ家の跡取り息子テオドーラ・カバネッサは、セレンや他の親衛隊のメンバーに比べ人当たりの良い温厚な性格で知られていた。
「カバネッサ様!」
「ど、どうか、テオドーラ様からもセレン様にご説得を」
大広間へと足を踏み入れた彼にすがるように人が集まる。
「ああ、今そういうかんじなんだね」
嘆願を聞きつつ歩くテオドーラは顎に手を当て、うんうんと一人で笑顔で納得した。
「それじゃあ、めでたい前夜祭を始めようとするか」
そして周囲からの声を置き去りに、あっさりと言い放ったのだった。
「テオドーラ様!?」
「音楽を」
しなやかな仕草で顔を向けられ、それまで貴族達の揉め事に息をひそめていた楽器隊は慌てて自らの仕事道具を手に取る。一呼吸おいた指揮者により、予定よりは遅れたものの華々しい演奏がすぐさま大広間に鳴り渡った。
「さあ、皆様。ダンスを」
流れるようなテオドーラの呼びかけを誰もがぽかんと見つめていたが、操られるように一人、また一人とダンスが始まる。婚約者がいる者はその相手と、そうでない者は男性が女性をホールに誘うのが作法だ。
「来い」
なし崩し的に始まったパーティーを見つめていたココレアの耳に、音楽にかき消されそうな声音が届いた。
「あ」
当然答える間など与えてくれず、その手を引っ張ったセレンがつかつかと大股で歩き出す。されるがままレンオとティアの横を通り抜け、階段を下りるとノヴァとルーンの何かを言いたげな顔と目があう。
「セ……、王太子殿下。その……」
必死に前方に声をかけるが、セレンの足は止まらずココレアを引きずるように出入口の方へと進んでゆく。すれ違った際にテオドーラがふざけたウィンクをしてみせたが、それに反応する余裕などは勿論なかった。
その歩がやっと止まったのは、大広間を出てすぐの控室に入ってからだった。ティアが使用していたのと同タイプの最上級の個室。大人数が一緒に詰め込まれるレンオやココレアがいたのとは比べ物にならない豪華で広々とした空間に、二人のほかには誰もいない。
「……手」
前を向き立ち止まったままだったセレンに、気まずそうにココレアは呟く。
「ああ」
黄金色の瞳が自分の右手を見やり、いま気づいたように掴んでいたココレアの手首を放した。
「あの、ありがとうございました。王太子殿下」
くるりと背を向け、絞り出すように言うのが限界だった。これ以上向かいあっていたら、きっと何かが溢れ出してしまう。そんな気がしたから。
「別に、俺もあんなところ抜け出したかったからお前を利用しただけだ」
それなのに、当のセレンはいかにも不愛想にそう言ってのけた。
「は?」
「俺が、お前みたいな女をダンスに誘ってやると思ったのか?」
さっきまでの感傷など消え思わず振り返ると、そこには意地悪そうにココレアを見下ろす偉そうな顔がある。
「自意識も大概にしろ。俺にだって選ぶ権利はある」
確かに正真正銘の王子様なのだからその台詞も決して間違ってはいない。だが、まるで悪餓鬼のような悪態にココレアの胸にはさっきまでとは違う怒りが沸きあがってきた。
「……そうですか。勘違いをしてしまいお恥ずかしい」
しかし相手はこの国の次期国王。どうにか引きつった作り笑でやり過ごそうと努力する。
「ああ、今度から気をつけろ」
あっけなくそれを認めたセレンは踵を返し、乱れた髪をかき上げながらさっさと部屋を出て行ってしまった。
取り残されたココレアはといえば、急展開の連続にまるで夢の中にでもいるように茫然とその場に棒立ちのまま。
けれど はっと我に返った時、最初に感じたのはティアへの怒りでもレンオへの失望でもなく、自分に子供のような意地悪を言う男へ言い返せなかったことへの悔しさであった。
「……こっちこそ」
すっかり薄汚れてしまった掌を握りしめると、我慢していた感情がどこからか不思議と沸き上がってくる。
「こっちこそ、あんたみたいな奴……大っ嫌いよー-!!」
何年かぶりに出した乱暴で大きな声。だが、肩で息をするココレアの表情は何故か晴れ晴れとしていた。
そして。ドアの前に立ち、部屋の中からの怒声を聞いてたセレンが微かに笑ったことは誰も知らない。