7 だから、彼は舞台を降りたがる。
「ただいまー」
数分後。
入口の方から、変に間延びした声が聞こえてきた。その声に一秋が振り向くと、洗濯物を干し終えたらしい陽が立っていた。
「はいはい、おかえりおかえり」
投げやりな返事をする彼に、彼女が小さく首を傾げる。
「ねえ、何かあった?」
その問いに、彼は思わず顔をしかめた。
「別に何もなかったけど……ひょっとして俺のこと犬か何かだと思ってる?」
「犬……なんで犬?」
きょとんとする彼女に、彼が答える。
「ほら、あれだ。留守番中にイタズラするイメージあるだろ、犬って。つまりそういうことだよ」
「猫でもよくない?」
彼女がそう言うと、彼は冷笑を浮かべた。
「お前あれだろ、俺が最初に猫を挙げてたら『犬でもよくない?』って言ってただろ」
「よくわかったね。さすが幼馴染!」
感心した風に言う彼女だが、その態度は大げさすぎて嘘っぽく、なんだか煽られているようにさえ感じる。――というか、多分本当に煽られている。
しかし彼はそれをスルーして、彼女の方へ向けていた顔を正面に戻した。
それを見て、彼女が再び問う。
「ねえ、本当に何かあった?」
「だから何もないって……ってか、なんでそう思ったんだ?」
微かに苛立った声でそう訊き返した彼に、彼女はさらに食い下がる。
「うーん……多分、勘? 目を見た時、何となくね」
「あ、そう……ま、何もないけどな。そもそも、たった数分で何が起こるっていうんだ?」
彼の台詞に、彼女は少し考えてから、何やら納得したような声を上げた。
「あ、確かに――ってことは、本当にただの勘違いだったかあ。誤解しちゃってごめんね」
「気にすんな。……あと、俺の方こそすまん。ちょっと苛立ってた」
そう彼が謝ると、彼女はどういうわけか、呆気に取られた様子で固まってしまった。
「おい、どうした?」
そろそろと問うた彼に、彼女が小さく呟く。
「――前言撤回。猫一択だった」
「はあ?」
「カズ、アンタは犬でもウサギでもない。猫よ」
「人間だよ」
冷めた目で彼女を見つめながら、彼は不機嫌そうに言うのだった。
「――うわっ、もうこんな時間かよ」
壁に掛けられた時計にふと目をやって、一秋は驚いたような声を上げた。
時刻はもうすぐ午後九時。彼の記憶が正しければ、そろそろ陽の母親が家に着く頃合いだ。
すっかり時間を忘れていた――というより、時間を意識する余裕が全く無かった彼は、隣に座る彼女に声をかけた。
「なあ、おばさんに連絡してあるのか――って、桐山?」
「すぅ……すぅ……」
彼の目線の先では、彼女がいつの間にか寝息を立てていた。
「そういうお約束はいらないから……ほれ、起きろ」
呆れた風に言いながら、彼は寝ている彼女の頬をペチペチと叩く。
およそ十回ほど叩いた辺りで、彼女がようやく目を覚ました。
「んぅ……何か微妙に顔が熱いんだけど……」
「多分それは熱さじゃなくて痛みだな――っと、それは置いといて。お前、おばさんに連絡したか?」
「してないけど……ねえ、なんで顔が痛いのか聞いてもいい?」
「質問は却下。それと、おばさんには連絡しとけ。もうすぐ九時になるから」
「あー……それなんだけどさ」
「どうした?」
そう彼が問うと、彼女はどこかばつが悪そうな表情で続けた。
「えっと、本来の予定ではもう少し帰りが遅くなっていたはずでして……その、なんというか、『晩ご飯は食べてくるからいらない』って言っちゃっててですね……」
彼女の台詞に何かを察した様子で、彼が口を開いた。
「ああ、うん……そうだな、晩飯食ってけ。ほら、外はもう真っ暗だし、雨だし、まだ服乾いてないだろうし」
「ごちそうになります……」
「気にすんな。そもそも俺が誘ったんだから」
少し場の雰囲気が暗くなってしまったので、彼は別の話題を振る。
「ところで、帰りが遅くなることは連絡しておいた方が良いんじゃないか? おばさんが心配するぞ」
「そうだね。じゃあちょっと電話してくる」
「おう、行ってら」
立ち上がった彼女に、彼がそう声を掛ける。
彼女はそんな彼にクスっと笑うと、「はい、行ってきます」と言い残してリビングを後にした。
「……強いな、お前は」
彼女が出て行った扉を見つめながら、彼は誰にともなく呟いた。