5 きっとそれは恋と言うには奸悪すぎた。
「――えっと……本題って?」
一秋の唐突な提案に、陽は首を傾げた。
もっとも、そんな彼女の反応にも無理はない。そもそも、つい先ほどまでの他愛のない会話を始めたのは他でもない彼なのだ。したがって、彼の言う“本題”について話すことを避けていたのも彼自身。――そんな彼がいきなり「そろそろ本題に入らないか」などと宣うこの状況は、彼女にとっては不可解以外の何物でもないだろう。
――しかしそれは、彼女に全く心当たりが無い場合の話である。
「なあ、桐山。どうしてここに来た?」
彼のその問いは、本来ならば数分前――彼女がリビングに来た時に訊こうと思っていたことだった。
そもそも、彼女と彼の家は割と近く、徒歩五分程度で行き来できる距離にある。ゆえに彼女の場合、ここで雨宿りをするぐらいなら家に帰った方が良いし、仮に彼に用があったのだとしても、一度自宅に帰ってから傘を持って出直す方が賢明だ。
イレギュラーな出来事のせいで頭の中からすっかり抜け落ちていたのだが、先ほどまでの時間稼ぎの甲斐あって、彼も何とか思い出すことができたのだった。
「……あはは。まあ、流石に言わなきゃ駄目だよね」
彼女が寂しそうに笑う。
「いや、それは……俺が気になっただけだ。言いたくないなら言わなくてもいい」
「……ねえ、それってすごくズルいと思うんだけど」
彼の台詞に彼女は小さく呻いて、少しだけ恨めしそうな目を向けた。
「さあ? 何のことだかサッパリだな」
そう言って、彼はわざとらしく肩をすくめる。
「どうやら自覚はしているようで何よりね……どうせいつかバレるんだし、聞かせたげる」
「そりゃどうも」
「――っていうか、気付いてなかったのね。……バカ」
適当な返事をする彼に、彼女が小さくそう呟いた。
彼はその小さな声を耳聡く聞きつけると、皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
「俺がそこまで察しの良い人間だと思ってたのか? それならそっちこそバカだな」
「はあ……」
彼女は呆れというより哀れみに近い表情で大きくため息を吐くと、数秒ほど経ってから彼の方に向き直り、唐突に口を開いた。
「私さ、フラれちゃったんだ」
その台詞に彼の頭は一瞬真っ白になり、やがて――
「……は?」
場違いなくらいに面食らった顔で、彼はそう呟いた。
数分後。
陽が立ち去り、静まり返ったリビングのソファの上で、一秋はぼんやりと天井を眺めていた。
彼の脳裏に浮かぶのは、去り際の彼女の表情――必死に何かを堪えるような、今にも泣きだしそうで、見ているだけで胸が痛くなりそうな表情。
しかし彼の意識は、淡々と事実だけを受け入れる。心は痛みを訴えるのに、意識はいやに落ち着いていて――それが自分でも気持ち悪かった。
「……ああ、そういうことか」
誰にともなく、彼は何かに納得した風に呟いた。
最初に陽の報告を聞いた時、一秋は放心していた。
あの写真の笑顔があって、てっきり彼女の告白は成功したものと思っていた。だが蓋を開けてみれば、告白は失敗していたのだという。実際、彼女の“らしくない言動”も彼女の失恋が紛れもない事実であることを物語っている。
根拠は十分で、そこまでは理解できた。――だからこそ、何が何やらさっぱりだった。
結局、彼がようやく状況を飲み込めたのは、彼女が部屋を出て数秒ほど経った後のことだった。
そうして落ち着いた彼の心に残ったのは、失望と落胆――それから、ほんの少しの安堵感。先ほど彼が何かに納得したのは、その根源について心当たりがあったからに他ならない。
……思えば、ずっと前から違和感はあった。
彼女の口から「好きな人ができた」と聞かされた時の、あの鉛のような気分は何だったのか。
嬉しそうに話す彼女の顔を見て時折抱いた、あの昏い感情は何だったのか。
あの写真の笑顔を見た時、喜びと同時に生まれた、あの喪失感は何だったのか。
心では怪訝に思いながらも「ただの気のせいだ」と断じて目を逸らしてきた、挙げ出すとキリがないような未解決問題の数々。
それが、たった一言でだ。彼女のたった一言がきっかけで、今の今まで解くことを放棄していた難問に解が出たのだ。
もちろん、その解が必ずしも正しいとは限らない。正解である可能性もあれば、誤解である可能性もある。
「……いや、そうか。そうだよな」
――だが彼は、それが正解であると確信していた。
彼――ひいては一人の人間が自分の感情に納得するのに、それ以上の理由など必要ない。
「ハッ……ずいぶんな初恋だこと。まったく救いようがない」
自嘲気味に、彼は呟いた。